第35話:脆き鉄屑:手応えの消失と検分
急速に気圧が低下し氷の刃のような冷気が渦巻く青白い空間をゼクスの重い突進が引き裂いた。
気圧が落ちた冷たい空気を肺に無理やり吸い込むたび彼の気管支がヒューッと焼け焦げるような音を立てる。
油差しを完全に怠り関節部に微細な砂と泥を深く噛み込んだ鋼鉄の鎧は、彼が筋肉を動かすたびにギガァッ、ガシャァッという鼓膜を引っ掻くような激しい摩擦音を空間に撒き散らした。
重いブーツが床の保温材を荒々しく蹴りつけ黒い泥の飛沫が純白の壁へと汚らしく飛散する。
ゼクスの両腕にはかつて世界を救うと称えられた伝説の聖剣が握られていた。
刃こぼれし赤茶けた錆に分厚く覆われ黒い亀裂が幾筋も走るなまくらな刃。
それが彼を見据えたまま微動だにしないセレスの細い首筋へ向けて暴力的な弧を描いて真っ直ぐに振り上げられる。
ゼクスの血走った視界は眼前の白い首筋だけを狂気的に追っていた。
柄をきつく握りしめる両手の指は極度の力みによって血の気を失って白く変色し、手の中で金属が限界を訴えて軋む微かな異音にすら彼の神経は全く反応しない。
この部屋の空調が完全に反転し、致死レベルの冷気と極度の乾燥が流れ込んだことで限界を迎えていた刀身の内部で目に見えない収縮が走る。
だが彼の身体は何も捉えていない。
過去数ヶ月間リアンが毎晩欠かさずミクロン単位で塗り込み続けていたスライムとミスリル粉末の衝撃吸収パテ。
そして魔力研磨による表面の滑らかな膜はとうの昔に完全に剥がれ落ちている。
今の聖剣の内部は長期間の湿気と有毒な瘴気に容赦なく侵食されまるで古いパイ生地のように隙間だらけのスカスカな空洞と化していた。
そこへ「対象を叩き割る」ための全力の遠心力と彼自身の全体重が乗った凶暴なエネルギーが加わる。
錆びた刃がセレスの純白の衣服に届く数ミリ手前。
刃は何にも触れずに軽くなった。
ただ空間を力任せに切り裂こうとしたその物理的な動作の負荷そのものに限界をとうに超えていた金属の結合が耐えきれなくなったのだ。
――パサッ。
硬い岩を打ち据えたようなカキンという響きでも金属が折れる甲高い悲鳴でもない。
乾燥した泥の塊が空中で呆気なく崩れ落ちたような、ひどく情けなく乾いた、あまりにも呆気ない音が鳴った。
その瞬間、ゼクスの両腕から対象を叩き斬るはずの重い「手応え」がフッと完全に消失した。
強烈な脱力感が手首の関節から肘そして肩へと一気に抜け、両手で固く握りしめていた柄がまるで空気でも掴んでいるかのようにひどく軽くなる。
反発力(手応え)を失い自らが生み出した巨大な遠心力に振り回されたゼクスの肉体は空中で完全にバランスを崩した。
彼の足は床を捉えることができずセレスの真横をすり抜けるようにしてそのまま冷え切った床の保温材の上へと無様に倒れ込んだ。
ズシャァッ、と黒い泥を床に激しく擦りつける鈍い音が鳴る。
セレスの純白の服は一滴の泥にも汚れることなく彼女の艶やかな銀髪がゼクスの突進が生み出した微かな風圧でふわりと揺れただけだった。
「……え?」
床に這いつくばったゼクスの喉の奥から間の抜けた、ひどく掠れた声が漏れた。
彼は右手に握りしめているものを信じられないものを見るように見つめた。
湿気で腐り落ちた革の柄。
そして鍔の先で無惨に千切れた数センチの短い刀身。
残っているのは、たったそれだけだった。
パラパラ、カラン……。
青白い警告灯に照らされた床材の上に遅れて小さな音が響く。
空中で呆気なく四散した聖剣の残骸が赤茶けた錆の粉を巻き上げながら無数の細かな破片となって周囲に散らばったのだ。
それらはもはや剣の形すら留めていない。
ただの腐りきった金属のゴミが床のあちこちに無造作に転がっているだけだ。
「あ、あ……」
ゼクスの呼吸が不規則に痙攣し始めた。
彼は柄を握りしめたまま床に散乱する破片へと震える左手を伸ばした。
指先が一番大きな破片に触れる。
だがそれを拾い上げようと無意識に力を込めた瞬間、破片はボロリと砂のように崩れ指の間からこぼれ落ちていった。
彼の手は止まらない。
何度拾い上げようとしてもそのたびに赤錆の塊はボロボロと崩れ、乾いた音を立てて指の隙間からこぼれ落ちていく。
拾う。崩れる。
拾う。崩れる。
部屋の隅で丸まっていたエルナとガレスもその現象を前に完全に凍りついていた。
悲鳴を上げることも言葉を発することもできない。
ただ目を見開き急激な室温低下によって青紫に染まった唇をガタガタと震わせている。
静寂の中リアンがゆっくりとした足取りで前へ出た。
上質な銀布の作業着の裾が擦れる微かな音だけが響く。
リアンは床に這いつくばるゼクスの方を一瞥すらしなかった。
彼の視線は足元に散らばった鉄の残骸のみに向けられている。
リアンは静かにしゃがみ込み自作の防護手袋をはめた指先で残骸の一部を拾い上げた。
左目に装着した魔力ルーペの焦点がチリッと絞られ、その切断面を無機質に捉える。
芯まで完全に錆が食い破りかつての魔力伝導率の痕跡すら残っていない。
修復不可能なレベルでの完全な素材の死。
リアンは親指の腹でそのざらついた断面を一度だけなぞった。
ほんの一瞬。
リアンの指先に五年前の薄暗い安酒場で胸に押し付けられた時の、あの分厚い革の道具箱のずっしりとした重みがよぎった。
リアンの指がピタリと止まる。
そして次の瞬きとともに指が再び淡々と動いた。
規則正しい呼吸は一切乱れず、黒い瞳だけが無機質に断面の腐食具合をなぞっていく。
リアンは拾い上げた破片を手の中でボロリと崩し元の床へと無造作に落とした。
サラサラと赤茶けた砂が落ちる音が鳴る。
彼はゆっくりと立ち上がり手元の魔石端末の画面に視線を落とした。
「……物理的崩壊を確認。構造の修復限界を完全に超過」
システムのログを読み上げるような氷のように平坦な声。
リアンは端末のパネルを親指で叩き、最後にただ一言だけその物体に対する絶対的な評価を下した。
「メンテナンス不能。……廃棄処分とする」
その宣告が下された瞬間。
ゼクスの喉の奥から、ヒューッ、という空気が漏れる音がした。
極寒の冷気と有毒な瘴気が吹き荒れる空間。
絶対的な環境制御能力を持つ上位者たちの足元で。
もはや振るうべき武器もなく、すべてを失ったゼクスはひしゃげた鎧を軋ませて後ずさり、床の冷たさに背を押し付けた。




