第32話:回想:革の道具箱に込められたかつての信頼
完璧に制御された清浄な空気が設定された一定の流量を保ちながら絶え間なくゲストルームの空間を循環している。
アラクネの試験糸で編まれた純白のソファベッドの上で、魔法使いのエルナと神官のガレスは、まるで死体のように身動き一つせず眠りこけていた。
彼らが纏う粗末な支給品のローブや法衣は迷宮の泥と悪臭をたっぷりと吸い込み、王都の舞踏会でしか見られないような極上のシーツをどす黒く汚し続けている。
だが計算し尽くされた保温材の熱と適正に保たれた湿度が極限まで摩耗していた彼らの細胞を強制的に修復していた。
数日前まで死に絶えそうに浅く掠れていた彼らの呼吸は、やがて深く滑らかな寝息へと変わり無菌室のような部屋の静寂に規則正しいリズムを刻んでいる。
その静寂の中で勇者ゼクスだけが暗闇の中で血走った目を見開いていた。
彼はアラクネのソファベッドの端に腰掛け両手で自らの聖剣の柄を固く握りしめている。
彼の肉体もまたスライムが運んできた芳醇なキノコのポタージュと純水、そして極上のクッションによって完全に回復を果たしていた。
動くたびに悲鳴を上げていた筋肉の軋みは嘘のように消え去り胃袋は心地よい満腹感に満たされ、冷え切っていた血が体の隅々にまで力強く巡っている。
だがその肉体的な「回復」は、皮肉にも彼の中に眠っていた肥大化したプライドと強欲に再び激しい炎を点けてしまっていた。
(まずは操作権限。次に出入口。最後に空調と水だ)
ゼクスは親指で赤茶けた錆が浮く聖剣の鍔をなぞりながら、冷酷な手順を脳内で組み上げていた。
この完璧なインフラは神に選ばれた本物の勇者である自分にこそふさわしい。
あの無能な裏方を実力で排除しあの銀髪の女からシステムを制御するパネルの権限を奪い取る。
手順さえ間違えなければ造作もないことだ。
そうすれば自分はこの地獄のような迷宮の底で地上の王族すら凌駕する絶対的な権力を手に入れることができる。
完全に回復した肉体の熱に浮かされながらゼクスの頭の中では乗っ取りのための工程が醜く渦を巻いていた。
一方、ゼクスたちのいる居住区画から少し離れた場所にあるリアンの作業室。
柔らかな魔力光に照らされた広々とした空間はチリ一つ落ちていない完璧な静謐に包まれていた。
壁一面に並ぶ計器類が微かな青い光を点滅させ施設の各機能が正常に稼働していることを無言で示している。
その美しく整然とした作業台の中央に、ひどく場違いなものが一つだけ置かれていた。
分厚いボア(猪)の革で作られた無骨な道具箱だ。
数週間前、あの野営地で怒声の最中に宙を舞い、岩壁に叩きつけられた後――そのまま冷たい泥の中に沈みかけていた箱を、リアンが自らの手で拾い上げ、この迷宮の底までずっと胸に抱えてきたものだった。
表面のボア革は五年間使い込まれ、幾度も手入れされてきた証である鈍い艶を帯びていた。
酸っぱい瘴気や黒い泥水に晒された古い染みは、深い傷跡のように革の表面へ残っている。
それでも、その都度リアンが乾かし、油を入れ、手縫いのステッチと補修材で繋ぎ直してきたのだろう。
箱は傷だらけのまま、道具箱としての形と機能を保っていた。
だが、その箱の正面には、あの夜にゼクスが蹴り飛ばした際に生じた「真鍮の留め具の歪み」と、革に深く刻まれた傷だけが、あえて完全に正されることなく残されていた。
そのわずかな隙間から覗くのは、かつてリアンが毎晩ゼクスたちの武器や防具をミクロン単位で調整するために使っていた精密なヤスリや、魔力充填用のピンセットなどだ。
それらの道具は錆を落とされ、油を差され、一本ずつ布に包まれて整然と収められている。
だが、刃先の欠けや軸のわずかな歪みまでは、完全には戻っていない。
使い物にならない鉄屑ではない。
しかし、かつてのようにゼクスたちの命を預かる主力の工具でもなかった。
リアンは作業台の前に静かに立ち、箱の縁を親指の腹でゆっくりとなぞった。
何度も手入れされてきた分厚い革の弾力と、手馴染みの良い感触。
五年前。
王都の裏路地にある酸っぱい麦酒と安い肉の脂、そして冒険者たちのむせ返るような熱気と汗の匂いが充満する薄暗い安酒場。
当時はまだスポンサーもつかず、安価な鋼の剣一本で成り上がろうと息巻いていた若き日のゼクスが、クエストで得た初めてのまとまった報酬を全額はたいてリアンの胸に強引に押し付けてきたのが、この真新しい革の道具箱だった。
『俺の剣を預けるんだ。いい道具を使え』
酒気帯びの赤い顔をして照れ隠しのように乱暴な口調で言い放ったゼクスの声。
ドン、と胸に押し付けられた新品の分厚い革の匂いと、真鍮の留め具のずっしりとした重み。
傲慢で思慮の浅いゼクスがあの瞬間だけ見せた、裏方への不器用で純粋な「信頼」。
あの夜の革の重みだけが、五年間、彼の手を止めなかった。
どれほどゼクスが勇者としての名声に溺れ、他者を蔑み、リアンの見えない労働を無駄なコストと切り捨てるようになっても、リアンが最後までパーティーの基礎を保全し続けた理由。
彼はあの夜の重量を、まだ帳簿から消していなかった。
だが。
リアンは手入れの行き届いた道具たちを見つめ、そして、真鍮の留め具に残る歪みに指を這わせた。
箱は補修され、道具は職人の魂として今も生き続けている。
しかし、あの夜の不器用な信頼は、ゼクスがこの箱を蹴り飛ばしたあの泥濘の中で完全に死に絶えていたのだ。
ゼクスとの信頼の証であったこの箱は、もはや「彼との絆」ではなく、「リアン自身の職人魂と、五年間の保全の記録」へと意味を変えていた。
リアンは歪んだ真鍮の留め具に親指をかけた。
歪みは残っているが、丁寧に手入れされ、噛み合わせだけは調整されている。
リアンはゆっくりと、だが確かな力を込めて押し込んだ。
カチリ。
乾いた小さな金属音が静寂な作業室に響いた。
その音とともに、リアンの中に残っていたゼクスへの未練は、静かに閉じられた。
彼は箱から視線を外し、手元の魔石端末に目を落として次の作業工程を確認した。
――プシュッ。
気圧が抜けるような密閉の解除音が鳴り、ゲストルームの壁の一部が音もなくスライドした。
ゼクスの肩がビクッと跳ねる。
そこから上質な銀布の作業着を身にまとったリアンが静かに部屋へと足を踏み入れた。
腰に武器は帯びておらず防具すら身につけていない。
ただ朝の設備点検に訪れただけの完全な無防備な姿だ。
(権限奪取。今だ)
ゼクスはギリッと奥歯を噛み鳴らし、ゆっくりと立ち上がろうと腰を浮かせた。
今なら一息で間合いを詰め、その細い首に錆びた刃を突きつけることができる。
ゼクスは音を立てないように立ち上がり、剣の柄を握る手に力を込めた。
だがリアンがゆっくりと視線を向けた瞬間。
その顔には過去への感傷など微塵も残っていなかった。
彼がゼクスを見る目は、かつての冒険の仲間に対するものでも自分を陥れた復讐すべき仇に対するものでもない。
ただの施設の管理者としての完璧に冷徹で無機質な視線だった。
その底知れぬ静かな瞳に射抜かれ、ゼクスの腕からふっと力が抜け、剣を引き抜くタイミングを完全に失ってしまった。
「退出の時間が近い」
リアンは淡々とシステムのアラートを読み上げるような声で言った。
「本来の契約期間は、すでに終了している」
ゼクスは、ひしゃげた鎧を軋ませながら、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
圧倒的な上位者からの交渉のテーブルへの呼び出し。
過去の感傷という最後の防壁を自らの手でシャットダウンしたリアンは、いよいよ一切の容赦のない「ルール」という名の刃を、ゼクスたちの喉元に突きつけようとしていた。




