第31話:プライドの崩壊:スライムの給仕とアラクネのソファ
「奥の部屋を使え。水も出る。最低限の着替えも用意してある」
リアンのその言葉に従いゼクスたちは無意識のうちにゲストルームへと足を踏み入れた。
プシュッ、と背後で密閉扉が閉まる。
足を踏み入れた瞬間、外界のあらゆる脅威は完全にシャットアウトされた。
床には微かな弾力を持った保温材が敷き詰められ、冷え切った安物のブーツの底からでも、その計算され尽くした温もりが伝わってくる。
壁は目に優しい乳白色で統一され、天井の魔石灯は彼らの網膜を刺激しないよう、ゆったりとしたオレンジ色の光を放っていた。
部屋の中央には、広々としたソファベッドが三台、規則正しく並んでいる。
シーツはあのアラクネ――アリアの“試験糸”で編まれたものだった。
王都の舞踏会でしか見たことのない光沢が、ただの「来客用」として無造作に広がっている。
エルナはその純白のシーツに向かってふらふらと歩み寄った。
彼女のローブはカビと泥水をたっぷり吸い込み、動くたびに黒い滴を床に落としている。
かつて王都で称賛を浴びていた頃であれば、そんな汚れた体で高級品に触れることなど彼女のプライドが許さなかっただろう。
だが今の彼女はソファベッドの前に膝から崩れ落ち、泥にまみれた顔をそのまま柔らかな布地に埋めた。
「あ、あぁ……っ」
シーツが彼女の顔の泥を吸い、瞬く間に黒く汚れていく。
しかしエルナは顔を上げるどころか無数の虫刺されで赤く腫れ上がった頬をその滑らかな布地に擦りつけ、まるで母親の胸にすがる赤子のように嗚咽を漏らした。
ガレスもまた何も言わずに隣のソファベッドに倒れ込んだ。
どす黒く染まった支給品の法衣のまま、胎児のように体を丸め、深々と息を吐き出す。
彼のガタガタという震えはソファベッドから伝わる一定の熱によって徐々に治まっていった。
ポムッ。
静寂な部屋の隅で微かな破裂音が鳴った。
壁の一部がスライドしそこから半透明の青いゼリー状の物体が這い出してくる。
清掃兼搬送を担うクリスタル・スライムだ。
スライムの体には、三つの木のトレイが浮かんでいる。
トレイの上には、湯気を立てる木椀と澄み切った水が並々と注がれたグラスが乗っていた。
スライムは床を滑るように進みソファベッド脇のテーブルにそれぞれのトレイを配置していく。
スライムの体表は乾いていて食器に一滴も酸を触れさせずにトレイだけを無音で滑らせた。
その動作に一切の感情はない。
ゼクスの泥の足跡を避けもせず、ただ同じ間隔でトレイを置いた。
「水……!」
エルナが弾かれたように身を起こしグラスに飛びついた。
両手でグラスを握りしめ喉を鳴らして純水を胃に流し込む。
数日ぶりに味わう泥の風味も腐敗の酸味も混ざっていない、本物の水。
彼女の目からぼろぼろと涙がこぼれグラスの縁を汚していく。
続いて彼女は木椀を手に取った。
中にはダンジョン特産の芳醇な香りを放つキノコをふんだんに使った温かいポタージュが注がれている。
スプーンを使う余裕すらない。
エルナは椀に直接口をつけ、ズルズルと卑しい音を立ててスープを貪った。
火を通すこともできず腐りかけた干し肉を噛みちぎっていた彼女の胃袋が、バターとキノコの濃厚な旨味を狂ったように吸収していく。
「う、ううっ……おいしい、おいしい……っ」
泥と涙と鼻水をスープに混ぜながら彼女は器の底を舐めるように飲み干した。
ガレスもまた神官としての祈りの印を結ぶことすら忘れ、無我夢中でスープを口に運んでいた。
飲み込むたびに浅く掠れていた吐く息が、途切れず滑らかになっていく。
かじかんで痙攣していた指が器をしっかりとホールドする。
冷え切って魔力を生み出せなくなっていた細胞の隅々にまで、熱と栄養が暴力的なまでの速度で行き渡る。
彼は空になった椀を胸に抱きしめ、アラクネのシーツに深く背中を沈めた。
「……ああ……」
安堵の吐息。
それから数秒も経たないうちにガレスは気を失うように深い眠りに落ちた。
純白のシーツに彼らの纏う黒い泥と悪臭がゆっくりと染み込んでいく。
それでも二人は時折安堵の寝返りを打ちながら、ただの弱い動物のように心地よい寝息を立て続けた。
部屋に取り残されたのはゼクスただ一人だった。
彼は部屋の入り口に立ったまま、ひしゃげた鋼鉄の鎧を軋ませ小刻みに肩を震わせていた。
彼の足元のテーブルにもスライムが置いていったスープと水が湯気を立てている。
腹の底から胃液がせり上がるような強烈な飢餓感が彼を襲っていた。
口腔内に唾液がとめどなく溢れ、飲み込んでも飲み込んでも喉がひどく渇く。
彼自身の肉体が目の前の食事を「喰え」と絶叫しているのだ。
「……こんなもの」
ゼクスは赤錆の浮いたガントレットで、テーブルの端を力任せに掴んだ。
ギリッ、とゼクスの奥歯が鳴る。
彼はテーブルをひっくり返し、この完璧なスープを床にぶちまけてやろうと腕に力を込めた。
――キュルルゥ。
その瞬間、彼の意思を完全に無視して胃袋が浅ましく鳴った。
同時にポタージュの濃厚な香りが鼻腔を貫き、脳の理性を吹き飛ばした。
ゼクスの腕から怒りの力がふっと抜け落ちる。
気づけば彼は震える両手で木椀を持ち上げていた。
「……あ」
器に口をつけた瞬間ゼクスの思考は完全に白く飛んだ。
熱い液体が喉を通り、焼け付くような胃の粘膜を優しく撫でる。
極限まで摩耗していた筋肉の繊維が悲鳴を上げてその栄養を吸い尽くしていく。
「あ、ぐ……っ」
ゼクスは器を両手で抱え込み、仲間の寝息が響く静寂な部屋の中で、貪るようにスープを啜った。
こぼれた液体が顎を伝い、くすんだ鋼鉄の胸当てを汚すが、彼にはもはやそれを拭う余裕すらなかった。
器が空になる。
ゼクスは荒い息を吐きながら、カタン、と器をテーブルに置いた。
満腹感と芯から温まった肉体が彼に圧倒的な「快適さ」をもたらしている。
そしてその肉体的な「快適さ」が彼に突きつけたのは、逃げようのない精神的な敗北だった。
自分たちは泥と汚物にまみれ、不完全な結界の中で虫に刺されながら野垂れ死ぬ寸前だった。
だが自分たちが切り捨てたあの男は、この地獄の迷宮の底で完璧な生活環境を築き上げ自分たちをただの「遭難者」として処理した。
「なぜだ……」
ゼクスは泥と錆で汚れた自分の手を見た。
刃こぼれしヒビの入った聖剣。
油差しを怠り砂を噛んで軋む鎧。
「なぜ、あいつが。戦う力もない、ただの裏方が……こんな、こんな完璧な場所を……!」
彼の胸の奥で黒く粘り気のある感情が急速に膨れ上がっていく。
圧倒的な格差を見せつけられたことによる、どす黒い嫉妬。
ゼクスの血走った目が部屋の隅々を舐め回すように動いた。
常に適温を吐き出す空調。
柔らかなアラクネのシーツ。
自動で食事を運んでくるスライムのシステム。
すべてがゼクスたちがいかに惨めな存在であるかを無言で証明し続ける、極上の「暴力」だった。
だがその暴力的なまでの快適さが彼の頭の中に一つの歪んだ結論を導き出させた。
(あいつに任せているから、こんな無駄に広い部屋ができる。……俺なら“運用”を変える。余計な設備を止めて、必要な所だけ回す)
ゼクスは錆びた剣の柄に手をかけ暗闇の中で濁った瞳をギラつかせた。
「ここは……神に選ばれた勇者である、この俺にこそふさわしい場所だ……」
彼は泥だらけのブーツを引きずり、アラクネのソファベッドの端にドスンと腰を下ろした。
柔らかなクッションが彼の体重を完全に受け止め、重厚な鎧の負担を和らげていく。
その極上の心地よさに体を預けながら、ゼクスの口元は醜く歪んでいった。
「まず、ルールを握る。次に、鍵だ。――あの女から」
静寂に包まれた純白の部屋の中。
満ち足りた仲間たちの寝息の傍らでゼクス一人だけが、完璧なインフラの恩恵を骨の髄まで貪りながら、自らの「強欲」という名の底なしの泥沼へと深く沈み込んでいった。




