第30話:衝撃の格差:清潔な衣服と温かい料理
「……基礎を削れば、上物が落ちる。当然の帰結だな」
リアンの冷徹な宣告がチリ一つない静謐な空間に響いた。
ゼクスの荒い呼吸だけが場違いなノイズとして鼓膜を打つ。
彼が膝をつく極上の毛皮の上には、安物のブーツから滴り落ちた黒い泥水が醜い水たまりを作っていた。
完璧に制御された温風が泥と死臭にまみれたゼクスたちの体を撫でる。
その温もりは彼らの骨の髄まで冷え切った肉体に容赦なく染み込み、かえって彼らがどれほど惨めな状態にあるかを浮き彫りにした。
カチャリ。
不意に部屋の奥から繊細な磁器の触れ合う音がした。
柔らかな光に包まれた作業台の奥から一人の女性が銀のトレイを手に静かに歩み寄ってくる。
セレスだった。
ゼクスたちの記憶にある彼女は、常に薄汚れ怯えた目をした奴隷の少女だったはずだ。
だが今の彼女は光を反射する艶やかな銀髪と、血色の良い透き通るような肌を持っていた。
アリアが織り続けた銀の布にリアンが裁断と縫製を施し、幾度も改良を重ねて仕立て上げた一着だった。
身を包んでいるのは純白で上質な布地の衣服。
その佇まいは王都の奥室で大切に保護されている高位の貴族の娘そのものだった。
セレスはゼクスたちの惨状を一瞥した。
鼻先を彼らが発するカビと腐った血、酸性唾液の悪臭が掠めたはずだ。
だが彼女は顔をしかめることもなく、トレイを持ったまま静かにリアンの傍らへ寄り添った。
トレイの上には純白のティーカップと銀のポット。
コト、と音を立ててセレスがカップに液体を注ぐ。
芳醇なカモミールと濃厚な蜂蜜の香りが混ざり合った温かい蒸気が、空間いっぱいに広がった。
「あっ……あ……」
エルナの喉の奥から動物のようなうめき声が漏れた。
極度の飢えと渇きに苛まれていた彼女の胃袋が、甘い匂いに反応してキュルルと激しく痙攣した。
口の中に強烈な唾液が分泌されるが泥と血の味が舌にへばりつくだけだ。
彼女は泥にまみれた爪で床の毛皮を掻きむしり狂ったようにティーカップを見つめた。
ガレスもまた虚ろな目で立ち上る湯気を凝視し、青紫の唇をガタガタと震わせている。
ゼクスは無意識にそのティーカップに向かって右手を伸ばしかけた。
だが継ぎ接ぎだらけの鋼鉄の鎧がギガァッ、と情けない摩擦音を立てる。
その音で我に返ったゼクスは自らの指先を見た。
赤錆が浮き泥と魔獣の体液でどす黒く染まったガントレット。
それがあまりにも場違いな汚物であることに気づき、ビクッと手を引っ込める。
リアンはそんなゼクスたちの飢餓の反応をまるで見ていないかのように、静かにカップを手に取った。
ゆっくりと一口だけ喉を鳴らして飲み、再び図面に向かって羽ペンを走らせる。
「……第三層の応力集中点の崩壊から計算すれば、お前たちの装備と体力では生存限界は十日前に超えていたはずだが」
カリカリ、とペン先が紙を擦る音が響く。
「驚異的なしぶとさだな。それとも、あの錆びた鉄くずがまだ辛うじて魔力を通したか」
「……俺は……」
ゼクスは錆びついた聖剣の柄を握りしめ、ふらふらと立ち上がろうとした。
「……俺は、勇者だぞ……。なぜ、お前が……」
震え混じりの掠れた声。
だがリアンは一度も図面から目を上げなかった。
彼は羽ペンのインクを静かに拭い傍らに立つセレスに向かって言った。
「セレス。予定変更だ。遭難者が出た。来客用の『ゲストルーム』の空調を開けてくれ」
「はい、リアン様」
セレスが壁のパネルに触れるとプシュッ、と奥の壁の一部がスライドし、新たな扉が開く。
そこからも完璧に制御された清浄な空気が流れ出してきた。
「奥の部屋を使え。水も出る。最低限の着替えも用意してある」
「み、水……!お水……!」
エルナが泣き叫びながら泥水をたっぷりと吸った灰色のローブを引きずり、開かれた扉の方へと這いずっていった。
その爪の間からは血が滲み床の毛皮に黒い跡を残す。
ガレスもまた何も言わずに亡霊のような足取りでエルナの後に続いた。
「待て……!エルナ、ガレス!そいつの施しを……受ける、気か……!」
ゼクスが泥にまみれた手を伸ばすが二人は振り返らない。
ゼクスは床に這いつくばったままギリッと奥歯を噛みちぎるほどの力で食いしばった。
しかしその直後、彼の意思とは無関係にゲストルームから漏れ出た温風に反応した胃袋がキュルルと浅ましく卑しい音を立てて痙攣した。
「……床の泥はそのままにしておいてくれ。後で清掃用のスライムを回して分解させる」
リアンが図面から視線をわずかに下げ、ゼクスのブーツの周囲に広がった黒い水たまりだけを見て淡々と言った。
その無機質な視線に射抜かれ、ゼクスは反射的に極上の毛皮に落ちた黒い泥水を錆びと血にまみれたガントレットで隠すようにこすった。
だが拭えば拭うほど泥は毛皮の奥まで染み込み、真っ黒な汚染の染みが無惨に広がっていく。
「あ、あ……」
ゼクスはひしゃげた鎧を軋ませながら震える両腕でゆっくりと立ち上がった。
彼はリアンの背中を血走った目で睨みつけ口の中ではかすかに「俺は……」と呪詛を形作ろうとしていた。
彼の足は温風の吹き出す方へ止まらなかった。
重いブーツを引きずりながら、ゼクスは温かく清浄な空気が吹き出すゲストルームの入り口へと、ふらふらと吸い寄せられるように歩き出していた。
彼の歩いた後には黒く濁った泥と腐敗した水滴の跡が点々と続いている。
背後では再び図面に向かうリアンの羽ペンの音が、カリカリと一定のリズムで冷徹に響き続けていた。




