第29話:偶然の再会:楽園の門が開く
ジッ、と広場四隅の結界杭にはめ込まれた粗悪な魔石の光が完全に消滅し薄汚れたテントをかろうじて覆っていた微弱な防護結界の薄皮が、フッと消え去った。
次の瞬間、迷宮の底に澱んでいた致死レベルの冷気とむせ返るような腐敗臭が漆黒の闇とともにテント内へ雪崩れ込んできた。
「なっ……」
勇者ゼクスが呻き声を上げた直後だった。
ビリィッ!という耳障りな音を立てて分厚いテントの布地が外側から無惨に引き裂かれた。
引き裂かれた布の隙間から覗いたのは生暖かい酸性の唾液を垂れ流し、ギチギチと不快な摩擦音を立てる巨大なロックワームの顎だった。
「ヒィィィッ!」
魔法使いのエルナが泥の撥ねた床で悲鳴を上げる。
かつて第一層ではゼクスが「素振り代わりだ」と豪語し一刀のもとに斬り捨てていたはずの下等な魔獣。
だが今や知性の低い魔獣にとって彼らはただの「弱り切った手頃な獲物」でしかなかった。
「くそっ、離れろ!」
ゼクスは反射的に腰の聖剣を抜こうとした。
だが湿気で腐り落ちた革の柄は強く握った瞬間にボロボロと崩れ落ち、指の間から泥のように滑り落ちた。
かろうじて鞘から引き抜いた刀身も赤錆が浮き、黒いヒビが走ったなまくらだ。
ゼクスはそれをロックワームの硬い外殻に振り下ろしたが、カキンと乾いた情けない音を立てて弾き返され逆にゼクスの腕に強烈な痺れが走った。
踏み込む足場も結露の水滴でぬめるカビ臭い泥濘であり靴底が重く吸われてまったく体重が乗らないのだ。
ギチギチと不気味な音を立てて迫る巨大な顎を前にゼクスの中で仲間を守る勇者としてのプライドは完全に砕け散った。
「……チィッ!」
彼は忌々しげに舌打ちをすると、怯えるエルナや魔力枯渇で動けない神官ガレスを庇うこともせず、引き裂かれたテントの反対側から外の暗闇へと這いずるように転がり出た。
「待って!ゼクス、私を置いていかないで!」
「ゼ、ゼクス……っ!」
残された二人はパニックに陥り泥水をたっぷりと吸って鉛のように重くなったローブや法衣を引きずりながら、必死にゼクスの後を追って泥濘へと這いずり出た。
彼らにはもはや下等な魔獣一匹と戦う力すら残っていなかった。
ただ原初的な死の恐怖に背中を押され、手探りで暗い迷宮の奥へと逃げ走るしかなかった。
泥濘に足を取られ、何度も転倒し顔を黒い泥に擦りつけながら走る。
肺が焼け付くように痛む。
吸い込む空気はカビと腐敗臭にまみれており呼吸をするたびに喉の奥にねっとりとした酸っぱさが貼りつき、体力がごっそりと削り取られていく感覚があった。
後ろからは地を這う魔獣の不気味な摩擦音と、酸性の唾液が地面を溶かすジュウウという音が執拗に追いかけてくる。
「はぁっ、はぁっ……!」
ゼクスの荒い呼吸が冷たい地下の空気に白く濁る。
彼の身を包む継ぎ接ぎだらけの安価な鋼鉄の鎧は、油差しを怠ったことで関節部に泥と砂が入り込み、動くたびにギギィッ、ガシャッ、と鼓膜を引っ掻くような不快な摩擦音を立てた。
その重さは今や拷問器具のように彼の肉に食い込み筋肉の繊維を一本一本引きちぎるような激痛をもたらしている。
「ああっ……もう、足が……!」
「置いて……いかないで……」
背後から聞こえるエルナとガレスの悲鳴は、次第に遠く、弱々しくなっていた。
しかしゼクスは振り返らない。
いや振り返る余裕など一切なかった。
方向感覚はとうに失われていた。
ただただ、少しでも下へ、奥へと逃げるしかなかった。
ゼクスが重いブーツで踏み込むたび足元の岩盤からパラパラと細かい砂が落ち、空洞の乾いた返り音が不気味に響く。
迷宮全体に走る構造的な細い亀裂が彼らの逃走ルートの足元に沿って蜘蛛の巣のように広がっていた。
やがて手探りで逃げ惑う彼らの足元から、突然「地面」が消えた。
「あっ――」
泥に足を取られてバランスを崩したゼクスの背中にエルナがぶつかる。
止まる間もなく三人は折り重なるようにして、すり鉢状になった急な斜面を真っ逆さまに転がり落ちた。
ゴロゴロと鋭い岩肌に全身を打ち付けながら彼らは奈落の底へと滑落していく。
その落下の中でゼクスの脳裏にある記憶が閃いた。
この急斜面。
この底知れぬ暗闇の感覚。
間違いない。
ここは数週間前、彼らが「無能な荷物持ち」としてリアンから防寒具を奪い、事実上の死を宣告して追放したあの薄暗い通路の先だった。
(俺たちが、あのゴミ虫が消えていった闇の奥底に……?)
その事実に絶望する間もなくゼクスの体は硬い岩盤に激突し、泥水の中に顔から突っ込んだ。
「がはっ……!」
ゼクスは血の混じった唾を吐き出し、うめき声を上げた。
全身の骨が軋み、安価な鋼鉄の防具がひしゃげて肉に深く食い込んでいる。
立ち上がる気力はおろか泥に沈んだ指先を動かす力すら残っていない。
少し離れた暗闇の中で、エルナが「痛い、痛い……」と譫言のように呟きながら、重い泥水を吸ったローブを引きずって嗚咽を漏らしている。
ガレスに至ってはピクリとも動かず、浅くかすれた絶望的な呼吸音だけが聞こえていた。
ゼクスは顔を埋めた冷たい泥の中でゆっくりと目を閉じた。
致死レベルの冷気が濡れた肌から急速に体温を奪っていく。
全身が鉛のように重くもはや指一本動かすすべはない。
背後からは魔獣の這いずる摩擦音が暗闇の奥から確実に近づいてきている。
王都で栄光を浴びた勇者が、こんな誰にも知られない泥の底で、名もなき魔獣の胃袋に収まり無惨に腐って死ぬのだ。
しかし。
彼らの鼻腔を、ふと「あるもの」が撫でた。
「……ん?」
ゼクスはヒクッと鼻を動かした。
血とカビ、そして泥の腐敗臭で満たされていたはずの冷たい空気に、かすかに別の匂いが混ざっているのだ。
それは思わず肺の奥まで深く吸い込みたくなるような、清浄で、ほのかに甘く、恐怖で濁った頭の中をすっきりとさせるようなハーブの香りだった。
死の淵にいるはずのゼクスはその匂いに抗いがたい引力を感じ、震える手で地面を這い、重い頭を無理やり持ち上げた。
頬を微かに温かい風が撫でた。
(……風?)
違和感はそれだけではない。
背後に迫る魔獣の騒音や地鳴りが、前方のある一点のラインから不自然なほど綺麗に『消えている』ことに気づいた。
ゼクスが絶望の淵から這うようにして暗闇の先へ視線を向けた瞬間、淡く柔らかな光が彼の網膜を射た。
彼は自分の目を疑った。
暗黒の奈落であるはずの最深部の空間。
そこに巨大な「壁」がそびえ立っていたのだ。
それは自然の岩盤などではない。
硬質な魔獣の分厚い甲殻を、幾何学的にかつ寸分の隙間もなく完璧に組み合わせて作られた、圧倒的に堅牢な人工の「防壁」だった。
そしてその中央には、重厚な防音扉が設えられている。
扉の隙間からは暴力的なまでの暗闇を切り裂くように、淡く柔らかな魔力光が漏れ出していた。
さらに扉の横に設置された通気口のような穴からは、先ほどのハーブの香りを乗せた「完璧に制御された温風」が定量の空気流量を保ちながら、シューッという静かな音とともに絶え間なく吹き出しているのだ。
「な、なんだ、ここは……」
ゼクスは這いずるようにして泥を引きずりながらその扉へと近づいた。
近づくにつれ通気口から吹き出す温風が、泥と冷気に凍りついていた彼の顔や手を優しく包み込む。
その圧倒的な「制御」と「温もり」の予感にゼクスの中で最後まで張り詰めていた勇者のプライドも背後に迫る魔獣への恐怖も、一瞬にして完全に溶け落ちた。
「誰か……誰かいるのか……助けてくれ……っ!」
ゼクスは血と泥にまみれた両手で重厚な扉にすがりついた。
もはやなりふり構っていられなかった。
彼は残された最後の力を振り絞り錆びた籠手で扉を叩き、力任せにそれを押し開けた。
プシュッ。
気圧が抜けるような密閉の解除音が響き分厚い扉がゆっくりと内側へ開く。
その瞬間、外の地獄のような魔獣の騒音、耐え難い悪臭、骨を刺す冷気が、見えない壁で切り取られたかのように完全に遮断された。
扉の向こうに広がっていたのは圧倒的な『静謐』と『管理』だった。
分厚い防音壁が外のノイズを一切通さず、足元の極上の毛皮の下からは計算し尽くされた一定の熱が放射されている。
呼吸をするたびに完璧な温度と湿度に管理された清浄な空気が、決まった流量で瘴気に傷ついた肺を満たしていく。
床には一粒の砂埃すら落ちていない。
泥とカビと自らの血にまみれ悪臭を放つゼクスたちは、まるで塵一つない精密なクリーンルームに放り出された、明らかに規格外の存在としてその空間の入り口で呆然と立ち尽くした。
そしてその奥。
柔らかな光に照らされた作業台の前で精緻な図面に向かっていた一人の男が、扉の開く音に反応してゆっくりとこちらを振り返った。
上質な銀布の服を身にまとい、手入れの行き届いた髪を持つその男は、ゼクスたちの惨状を見ても驚くそぶり一つ見せなかった。
彼は図面から目を上げ斜面の方角を一度だけ見た。
「あの応力集中点の崩壊から計算して、いずれここへ滑落してくるとは予測していたが」
かつて彼らが「無駄なコスト」として切り捨て、防寒具すら奪って見捨てたはずの保全士。
リアンが涼しい職人の顔でそこに立っていた。
「……基礎を削れば、上物が落ちる。当然の帰結だな」




