第28話:安眠を奪われた一行:不完全な結界の代償
ジ、ジジ……。
ジジジッ。
迷宮の底に広がるカビ臭い泥濘の中。
野営地の四隅に打ち込まれた結界杭の先端で粗悪な魔石が不規則に明滅を繰り返していた。
本来であれば淡く安定した青白い光の膜が広場を覆い、テントの周囲に見えない防護壁を形成するはずだ。
だが出力の調整を素人である勇者ゼクスが強引に行った代償として、光の膜は断末魔の痙攣のように細かく波打ち、時折数秒間にわたって完全にブラックアウトした。
光が途切れるその一瞬の隙。
テントの布地の綻びや泥と密着しきれていない地面の隙間から迷宮の暗がりに潜む黒い影たちが音もなく滑り込んでくる。
ブゥン、と耳障りな低い羽音が閉ざされた狭い空間に響き渡った。
「ひっ……!嫌、こっちに来ないで!」
魔法使いのエルナが泥の撥ねたテントの床で手足をばたつかせ、半狂乱になって悲鳴を上げた。
彼女が身を包む灰色のローブは迷宮特有の湿気と結露をたっぷりと吸い込み、鉛のように重く肌にまとわりついている。
自慢だった透き通るような白い肌は無数の毒虫に刺され、赤黒く腫れ上がって熱を持ち、無意識に掻きむしった爪の痕からは血と黄色い体液が滲んでいた。泥にまみれた指先で肌を掻くたびに傷口から雑菌が入り込み、耐え難い痒みと痛みが彼女の理性を削り取っていく。
「うるさいっ。黙って寝ろ!」
テントの反対側で横になっていたゼクスが血走った目を剥いて怒鳴りつけた。
だが彼自身も決して安眠などできてはいなかった。
彼の身を包む安価な鋼鉄の鎧は油差しを完全に怠ったことで関節部に砂と泥が入り込み、少し寝返りを打つだけでギギィッ、と鼓膜を引っ掻くような不快な摩擦音を立てる。
いつ結界が完全に破られ闇の中から魔獣に襲われるか分からない恐怖から鎧を脱ぐこともできず、その重厚な鉄の重さが彼の骨と筋肉を容赦なく軋ませていた。
風が動かない。
不完全な結界の網目をすり抜けて外に立ち込める酸っぱい瘴気と致死レベルの冷気がテント内部にまで侵入し、ねっとりとした膜となって彼らの体温をじわじわと奪い続けていく。
息を吸うたびにカビと泥の混ざった冷気が喉の奥に貼りつき、自然と呼吸が浅くなる。
「……ああっ、もう!なんでこんなに痒いのよ!」
エルナは涙声で叫びながら腫れ上がった自分の腕をさらに強く掻きむしった。
爪の間に黒い泥が詰まり薄いかさぶたが裂ける。
かつてリアンが管理していた野営テントは、常に完璧な温度と湿度が保たれ微かな香草の匂いが漂う絶対的な安全地帯だった。
虫一匹たりとも侵入を許さず、彼らは戦闘の極度な疲労を深い眠りによって完全にリセットすることができていたのだ。
だが今の彼らに休まる時間は一秒たりとも与えられない。
目を閉じれば羽音が耳元をかすめ、首筋を何かが這い回る不気味な感触に飛び起きる。
三日三晩続いた極度の睡眠不足は、彼らの思考を泥のように濁らせ、判断力を根底から破壊していた。
ジ、ジジジ……。
結界杭が再び明滅し今度はカサカサという這い虫の乾いた音が床の泥から響いた。
「……魔石の、出力が……」
火の気のない冷たいテントの隅で両膝を抱えて丸くなっていた神官のガレスが、虚ろな目でポツリと呟いた。
泥でどす黒く染まった支給品の法衣は冷たく湿り、無精髭の生えた頬はゲッソリとこけ、眼窩は深く落ち窪んでいる。
彼の吐く息は白く濁り青紫に染まった唇がガタガタと震えていた。
「もう、持ちません。ゼクス、奪った予備の魔石を使って、杭の出力を……」
「ふざけるな」
ゼクスは苛立ちに任せて泥のついたブーツでテントの支柱を乱暴に蹴りつけた。
バサッと天井に溜まっていた結露の水滴が冷たい雨のように降り注ぎ、彼らの顔や肩を濡らす。
ゼクスは顔についた泥水を拭おうともせずガレスを睨み下ろした。
「残りの魔石は明日の行軍とボス戦に温存するんだ。お前らがこんな雑魚虫に怯えるからいけないんだろうが。ガレス、お前の治癒魔法でその虫刺されを治せば済む話だ」
その理不尽な命令にエルナが猛然と噛み付いた。
「本当よ!ガレスが一日中、魔力を出し惜しみするから、私の肌がこんなにボロボロになってるんじゃない!早く治しなさいよ、この役立たず!」
ヒステリックな怒声がテント内に反響する。
ガレスはビクッと肩を跳ねさせ怯えたようにエルナを見た。
「わ、私だって……やりたくて出し惜しみしているわけでは……」
「言い訳はいいから、早くヒールをかけろ!」
ゼクスからも怒鳴られガレスは震える手をゆっくりと持ち上げた。
かじかんで感覚のない指先を無理やり伸ばし、エルナの赤黒く腫れた腕へと翳す。
目を閉じ自らの体内から生命力である魔力を練り上げようとする。
かつて王都の神殿で賞賛された清らかで温かい光。
それを思い描き血の巡らなくなった指先に集めようとした。
「……ヒール」
淡い光がほんの一瞬だけ、ガレスの指先に灯った。
パチン。
だが小さな水滴が弾けるような情けない音とともに、その光は霧散してしまった。
エルナの腕の腫れは一ミリも引いていない。
掻きこわした傷口からは、依然として血が滲んでいる。
不発。
ガレスは喉の奥でヒュッと短く乾いた音を立てた。
「な、なんだ。なぜ治らない」
ゼクスが忌々しげに身を乗り出す。
鎧の関節部がギィッと悲鳴を上げた。
「……出ないんです」
ガレスは、泥に汚れた震える両手で自らの顔を覆った。
「魔力が……もう、一滴も。……体が、冷え切って……」
喉を焼く酸っぱい瘴気と肌を這い回る毒虫。
そして骨の髄まで侵食してくるねっとりとした冷気。
魔力とは術者自身の生命力そのものだ。
ガレスの震える肉体は冷たい泥と疲労に削り取られ、魔力を絞り出すための「熱」など、どこにも残っていなかったのだ。
「使えない奴め……!」
ゼクスはギリッと奥歯を噛み鳴らした。
「どいつもこいつも、俺の足を引っ張る気か!リアンの野郎が陰湿な呪いなんて残していくから……!」
「あなたのせいでしょう!」
エルナが立ち上がりゼクスを激しく睨みつけた。
「あなたが、あの男から防寒具や魔石まで全部奪って追い出したから、魔力調整の要がいなくなって結界が穴だらけになったのよ!あのまま荷物持ちとして連れていれば、こんなことには……!」
「なんだと!?」
ゼクスは目を血走らせエルナに詰め寄った。
「コストを削れと言ったのは……お前らも同じだろ!それに、あいつが俺の聖剣に呪いをかけたんだ!俺のせいにする気か!」
ゼクスは反射的に腰に下げた聖剣の柄に手をかけた。
柄を巻いていた革は湿気で腐り落ち、握りしめた指の隙間からボロボロと崩れ落ちる。
刀身を覆う赤錆と黒いヒビ割れが魔石の不安定な光に照らされて不気味に浮かび上がった。
ゼクスの荒い息遣いだけが狭い空間に響く。
彼は血走った目でエルナとガレスを順番に睨みつけた。
テントの中に、殺伐とした沈黙が落ちた。
ジジジ、という結界杭の不規則な明滅音。
暗闇を這う虫のカサカサという足音。
怒りで震えるゼクスの鎧が擦れる、不快な金属音だけが響く。
ガレスは暗闇の中で、自らの両腕をきつく抱きしめた。
胃の奥が氷のように冷える。
(……呪いじゃない)
『俺がいなくなれば、装備も拠点も一晩で朽ちる』
リアンが去り際に残した低い声が、耳の奥で蘇る。
ガレスは喉の奥で、ひゅっと短い音を立てた。
ただの――手入れ切れだ。
「ゼクス、それは……」
ガレスが微かにひび割れた唇を開きかけた、その時だった。
ギチッ。
ゼクスが腐りかけた剣の柄を力任せに握りしめ、自分は絶対に間違っていないと狂気を孕んだ目で虚空を睨みつけた。
その威圧と異常な横顔を見てガレスはヒッと息を呑み、口を噤んで力なく視線を泥を這い回る羽虫へと落とした。
真実を口に出す勇気は彼にはなかった。
ガレスはただ身を震わせ、自らの罪悪感ごと結露で濡れた冷たい床に膝を抱えて丸くなることしかできなかった。
ジッ。
不意に広場四隅の結界杭にはめ込まれた魔石の光が完全に消滅した。
魔力が底をついたのだ。
テントをかろうじて覆っていた微かな青い防護膜の薄皮が、フッと消え去る。
外の暗闇から、これまでとは比べ物にならないほどの圧倒的な冷気と濃密な腐敗臭が雪崩れ込んでくる。
「なっ……」
ゼクスが呻いた。
エルナが息を呑む。
結界という最後の薄皮を失った彼らを包み込んだのは、喉に貼りつくような酸っぱい瘴気と終わりのない湿気。
そして無数の毒虫の羽音と、じわじわと体温を奪い続ける底冷えのする真の闇だけだった。




