第二十一章──平和Ⅱ最終話
平和Ⅱ──最終話
Ⅲ
浩子もミツもいしも狛犬Bまでも、みんな身を乗り出して錫の脱出劇に耳を傾けた。
「想像以上に錫杖の威力はスゴかったわ…。抜け穴は、なんの痕跡も残らずに塞がった」
「それは錫杖だけの力ではありません。ご主人様の霊力があってこそですけん」
「いしの言うとおりよスン」
「まぁ、今だけ素直に受け止めておくわ」そう言って錫は軽く笑った。
「無になる覚悟はしていたものの、そうなるまでの時間をどう過ごせばよいのか途方に暮れていた私の前を、次々と狡狗が通り過ぎて行ったわ。でもそのほとんどは私の霊力を恐れて襲っては来なかった。ところがね…一体の狡狗が私に戦いを挑んできたの。なるほど自信があるのかして、高い霊力を持った奴だったわ。私だって売られたケンカは買わねばならぬ……すかさず晶晶白露を取り出した錫雅尊は、素早く間合いをとって身構えたのであったぁ~!」
「あんたしゃべり方が講談調に変わってるよ…」ミツの指摘にみんなが笑った。
狡狗は血走った眼を大きく見開き、獣のような口を裂けるほど開けると、徐に両手を上げ、錫目がけて上空から襲いかかってきた。
このまま狡狗が懐に入れば、晶晶白露で一撃の勝負に出ようと錫は考えていた。万が一邪身玉にはならなくてもドロドロの塊にはなるだろうと予想してのことだった。
ところが事態は思いもよらぬ展開を迎えた。錫の懐に入ってくるはずの狡狗が、その手前でいきなり止まると地面に伏したのだ。襲いかかるために上げていたと思われていた両手は、錫にひれ伏すためのものだったらしく、アッラーの神を拝む信者よろしく、崇高なお辞儀を錫に繰り返した。予想に反したこの事態を、錫はただポカンと口を開けて見ていた。
「驚きましたにゃ…」お辞儀を続けながら狡狗が話しかけた。
「驚いたのは私の方よ…。なんなのあんた…恐い顔で襲いかかろうとしたくせに…」
「あっ、あれは…晶晶白露を見て驚いてしまっただけですにゃ…ヒョヒョ」
「えっ!?そうだったの…?」
「すみませんヒョヒョ」
「ヒョヒョとかヒヒとか…本当に鬱陶しいわね…」
「これはオレ様達にとっての笑い方であったり、驚きであったり、威嚇だったりしますにゃ…」
「あ~…なるほどね…。それはそうと、どうして私にひれ伏すの?」
「はっ?」
「はっ?じゃないでしょ!どうして私にひれ伏すのよ…?」
「どうしてって…旦那だからです…」
「わ、私…?」
「最初はすっかり忘れておりましたが、晶晶白露を見た瞬間、その姿が蘇りましたにゃ」
「だめだ……またなんのことやら分からない…」
「旦那はオレ様を覚えてないかもしれませんが、オレ様は旦那のことをよ~く覚えてますにゃ…」
「あんたと私とどんな関係があるの?詳しく説明してよ」
「へい…。その昔、私を含む三義兄弟は白の国を征服しようと意気込んで、生意気な狛犬に取り憑いたまま乗り込んで行ったんですにゃ。ですが、たちまち旦那に見つかってこてんぱんにしてやられましたにゃ」
「あ~…その話なら聞いたことがあるわ」
「オレ様はあの時、本当は晶晶白露で〝無〟にされるところだったのですにゃ。旦那はそのことを何度もオレ様に念を押しましたが、オレ様は言うことを聞かず旦那に向かって行きました。結果は瞬時にオレ様が無にされた始末で…」
「あのね…旦那って言うのやめてくれない?違和感ありすぎ…」
「そこにこだわるんで…?」
「…イヤなのよ。だけど私が無にしたんならどうしてあんたはここに居るの?」
「……?旦那…本当に覚えてないんにゃ?錫雅尊様ですよね…?」
「そ、そうだけど…」錫は少し唇を尖らせながら答えた。
「旦那はオレ様を無にした後、残りの兄弟獂と猼を拗隠の国に帰しました。けれども本当はオレ様も無にしていなかったのです…。旦那は邪身玉に封印したオレ様をそっと懐に隠していたんですにゃ」
「だから旦那は……まあいいわ…それで?」
「旦那はオレ様を邪身玉に封印したままこう言いましたにゃ…『お前を無にするのは簡単だ。だが私はお前達にも改心してほしかったのだ。狡狗とて心はある──あるいは性根を正すかもしれんからな…。だからお前を見せしめにして、他の兄弟達にはもう二度と悪さをしないよう言い聞かせて自分の国に帰らせた。お前も帰るがよい…拗隠の国に…』とにゃ…」
「さっすが錫雅ね…良いこと言うわぁ!」
「旦那が言ったんですにゃ…」
「し、知ってるわよ…」不審な顔をしている狡狗に、錫は目線を外して返事をした。
「それでオレ様はこう言ったんにゃ『キサマはオレ様を信用するのか?』と…。すると旦那は優しく言いましたね…『相手を疑うよりも信じることが私は好きだ。信じることのできない自分には腹立ちさえ覚える。たとえそれで裏切られても、自分の心に正直であったなら後悔などない』…あの時の旦那の顔は忘れられません。偽りなくオレ様を信じてくれている顔でしたにゃ…」
──「私って本当に錫雅の生まれ変わりなのかな…?劣等感…」
「そして最後に旦那はこう言いましたにゃ『もしこの先、私がお前の国に行って困ったことでもあれば、今度はお前が私を助けてくれ…』と…」
──「懐の大きな奴ね……錫雅は…。ますます劣等感…」
「それにしてもまぁ…本当にこんな場所へ来るなんて…」
「まあね…。けどあんた…改心したわりには、いきなり私に絡んでくれたじゃないの?」
「す、すみません…旦那と知らず、つい腕試しをしたくなって…。悪気はないんですにゃ…」
「ふぅん…。とにかくそれであんたは邪身玉になってここに帰された?」
「へぇ、旦那に『もう二度と白の国には来るなよ』と言われて帰されましたにゃ。拗隠の国に帰ってから、何度か義兄弟達の悪巧みに引き込まれそうになったのですが、その度に旦那の言葉を思い出して今まで一匹狼…いえ、一匹狡狗でいましたにゃ」狡狗は笑っているようだったが、本来笑顔が作れないのか、錫にはただ引きつっているようにしか見えなかった。「で…旦那はどうしてここに?」
「私もいろいろあってね…。今ここにあった抜け穴を塞いだとこ」
「あれまぁ……あの抜け穴を塞いだなんて…旦那はどんなお方で…?」狡狗はタマゲた顔で抜け穴のあった場所をうろちょろして確かめた。
「それじゃ、今からもうお帰りかにゃ?」
「帰れないわ……帰り道なんてないもの…」
「あれっ!?それはえらいこっちゃ…。じゃ、旦那はここの住人になるんで?」
「そうねぇ…住人というか、住霊というか……とにかくもう帰れない」
「それは気の毒…この犲様が助けてあげねば…」
「あんた犲っていう名前…?助かる方法があるの!?」
「話し相手くらいなら…」錫は狡狗に期待した自分がバカだと思った。「抜け穴でもあれば良いのですがにゃ…」
「あったら大変じゃないの…また狡狗が白の国に攻めて来るでしょ?」
「いえいえ、とんでもない場所にケシ粒ほどの抜け穴があるかもしれませんにゃ」
「どうやったら見つかる?」
「何年かかろうが気長に探すしかありません…。存在しなければ無駄骨ですが…」
「のんびりしてたら置いてきた体が朽ちてしまうわよ…。臭いでもなんでもいいから、抜け穴の場所が探し出せたらなぁ…」そう言った途端、錫のすべての動きがピタリと止まった。余分な動作は錫の思考回路の邪魔になるようだ。「そうだわ!…抜け穴を探し出すのが難しいなら、抜け穴まで連れて行ってもらえばいいのよ!」強い口調で言葉を発した錫の目は真っ赤に燃えていた──。
「ご主人様は偶然あの時の狡狗と出会ったのですね!?」
「そうらしいのよ…私は知らなかったけど…くふふっ」
「不思議な縁を感じますです…」
「それでそれで………いったいあんたは何を思いついたんだい?」ミツは話の続きが気になって待ちきれない。
「あっ、そうね…。いよいよ私の脱出作戦の開始よ!」錫は左の人差し指をピンと立てて軽くウインクした。
一か八か──錫は犲にある事を頼んだ。
「はっっっ?オレ様が旦那に晶晶白露を…!?」
「そうよ…お願い。あんたが私に晶晶白露を使えば、私は邪身玉になるはずよ」
「邪身玉になってどうするので…?」
「放り投げてほしいの…。そうすれば神霊界に帰れる──────かも…」
「………。旦那、その作戦…大丈夫なんで!?…以前旦那に聞いた話だと、旦那のように邪心のない魂には晶晶白露は効き目がないとのことだったにゃ…」
「あっ、それなら大丈夫よ。私は錫雅と違って邪心だらけだから…えへへっ」屈託なく自慢気に答える錫に、犲は顔を歪ませた。
「旦那……邪心があるんで…?」
「錫雅尊は霊神だけど、私はただの人間──邪心のない人間なんてこの世にはいないのよ…ふふっ」
「…?旦那は錫雅尊ですよね…?」犲はこんがらがっているようだ。
「もぉ~そんなことはいいから…。とにかく私には晶晶白露が効くはずなの」
「だとして、邪身玉をオレ様が投げて本当に神霊界とやらに帰れるのですかにゃ?」
「そこが賭けよ──本来なら私が邪身玉を放り投げるだけで、あとは勝手に邪身玉が神霊界まで連れて行ってくれるの。けど邪身玉にされた私をあんたが投げて、いうことを聞いてくれるかどうか…。そして一番大事なこと──それは抜け穴が存在するのかどうかよ…。穴がなければ邪身玉はどこにも行けない……つまり私は永遠に邪身玉のまま…」錫は口を一文字にして真顔になった。
「旦那はそんな危険な賭けをするんで?」
「じっとしてても無になる運命なのよ…私は…」
「旦那はもう一つ危険なことを忘れてますにゃ」錫は犲の言いたいことがなんなのか分かっていた。
「えぇ……分かってる。でも信じてすべてを託すわ!」そう言うと、錫は手にしていた晶晶白露を躊躇うことなく犲に差し出した。犲は恐る恐る手を伸ばして錫の手から晶晶白露を受け取ると、たちまちその短刀の煌めきに魅了された。
「み…見事な短刀にゃ…」握った手のひらに吸い付くような感覚に、犲は眼をギラつかせた。
「さぁ、早くやって!」錫は自分から犲に一歩近づいて、ここを狙えと言わんばかりに胸を大きく張り出した。
そこに錫の本気を見た犲は、晶晶白露をぎゅっと握って一言呟いた。「旦那…達者でにゃ!」錫が差し出した大きな的を外すことなく、晶晶白露をその胸元に突き刺した。──痛みは感じなかった。やがて、徐々に膨らむ光の玉に包まれ始めても、それほど邪心のない錫は、憑物や狡狗達が〝熱い苦しい〟と叫びながらのたうち回るような苦痛も覚えなかった。
そうして、光の玉が完全に錫を包み込むと、今度はゆっくりと縮み始めた。
犲は邪身玉に封印されつつある錫を目の前にして、このまま晶晶白露を我が物にすれば相当な支配力を持てるに違いないと思った。
犲の言っていたもう一つ危険なこと──それは犲の裏切りだ。錫はそのこともよく分かっていた。けれど犲から聞いた錫雅の言葉──〝たとえ裏切られても、自分の心に正直であったなら後悔などない〟──その信念を自分も貫いてみたいと思ったのだ。犲を信じることに決めた迷いのない決断だった。
「あともう少しにゃ…」このまま錫雅尊が邪身玉になるのを見ているだけで晶晶白露が手に入る。いや、もう自分の物になっているのも同然。この好機を逃すことこそ愚かしいことだという思いが犲の頭を過ぎった。
「だが……だが…遠い昔、オレ様を信じて助けてくれた旦那が、今再びオレ様を信じてすべてを任せてくれている…。それを裏切れるのか…?」それは犲が今までに感じたことのない感情だった。「…そうだとも……今のオレ様には無理だにゃ…。狡狗とて心があると旦那が教えてくれた。邪心の塊のオレ様だったが、旦那のいうとおり、わずかな良心もあったようだにゃ…」そう呟いた犲は、晶晶白露をじっと見つめた。
「お前はこの犲様には重たすぎるにゃ………主人の元へ帰れ…」錫が邪身玉に封印される寸前──犲は晶晶白露を錫の胸元に置いた。たちまち晶晶白露は錫の胸の奥深くに沈み込むようにして姿を隠した。犲には主人の元に収まった晶晶白露が安堵したように思えたのだった。
間もなく錫の魂は完全に邪身玉に封印され、犲の足下に虚しく転がった。犲はそれをそっと拾い上げると、薄暗い宙に向かって軽く放り投げた。「…旦那に助けられたオレ様が、今度は邪身玉となった旦那を助ける…。もしも無事に白の国に帰れたなら…それは旦那の善意がもたらした結果ですにゃ…」犲の手を離れた邪身玉はどんどん上昇し、帰り道となる抜け穴を探し求めて旅立った。
邪身玉をいつまでも見送っていた犲は、今度は自分がぽつんと取り残される形になった。この時、犲の心の中に、またしても今まで抱いたことのない感情が湧き上がった。
「旦那、絶対助かってくださいにゃ!」犲は祈った。「…この気持ち──なんと清々しいにゃか…。これも旦那のおかげですにゃ…。オレ様がもし生まれ変わることができれば、この改心した気持ちのまま生まれたいもんですにゃ…」犲という名の狡狗の目に、初めて涙がこぼれた──。
Ⅳ
錫はふんわりとした心地良さに誘われて目を覚ました。目覚めた途端、今度はその心地良さに誘われて眠りに落ちそうだった。
「お帰りなさい…錫」聞き覚えのあるその声に、錫はゆっくりと立ち上がった。
「…自称神様?じゃ…私、助かったの!?」
「そうです。よく帰って来れましたね?驚きました」
「どうしてそのことを?」
「智信枝栄命から聞いています。みんな無事ですよ」
「あ~…良かったぁ!」錫は安心して、またその場にへたり込んでしまった。それからほんの少しの沈黙の後、錫は皆と別れてからここまで帰って来るまでの経緯を伝えた。
「そうでしたか。それで邪身玉になってここまで…。よく知恵が回りましたね。それにそのような狡狗と、よく出会えたものです…」姿こそ見えないが感心した声だ。
「はい…ですが…実は抜け穴を塞いだ途端、錫杖から霊気が消えてしまったのです…」
「それは簡単に説明がつきます。秘宝の熟成期間が短すぎたのです」
「熟成期間が?」
「そうです。熟成しきっていない秘宝に過度な力を求めすぎたのでしょう」
「壊れたの?」
「そんなところです…。幸い自然修復しますが、それがいつになるかは分かりません」
「分からないって…?」
「三年後か、十年後か、あるいは五十年後か…もしくは百年後かもしれません…」
「えっ!?…そんなにぃ?……ごめんなさい…本当にごめんなさい。私…大変なことをやらかしたのですね…」
「謝ることはありません。使い方を誤ったわけではないのですから」
「使い方を誤ったから壊れたんでしょ?」
「いいえ、壊れてしまったのは、ただ単に扱いを知らなかっただけのこと。使い方を誤るとは、秘宝を私利私欲のために危険な呪具に用いることをいうのです。あなたは秘宝を平和のために使ったではありませんか」
「だけど…」
「もともと我々が秘宝を手にしたかった一番の目的は、それが脅威になるのを避けるためだったのです。壊れたところでどうと言うことはありません」
「そう言ってもらって、少し気が楽になりました…」
「さぁ、ここで油を売っているわけにはいきません。早く人間界に帰りなさい」
全員──錫の話に釘づけだった。
「その後、また意識が遠くなって…」
「で…こうして戻って来たんだね?」そう言ってミツは錫の黒髪を優しく手で撫でてやった。
「いやはやスゴいですけん…。まさかご主人様自身が邪身玉になって帰ってくるとは…」
「それもこれも、前もってみんなに教えてもらっていた知識の賜物よ」
「それだけじゃない…。スンの柔軟な発想と錫雅様の分け隔てのない慈しみの心が相俟って、この脱出劇を完成させたんだわ!」浩子の説明がすべてを網羅していた。
「とにかくめでたいことだよ!錫がこうして無事に戻って来てくれたんだから…」ミツのその言葉に、またしても涙で顔をぐしょぐしょにするいしだった。
日暮れ前に浩子は安心して帰って行った。ミツも明日からまた沖縄の友人の家に世話になるらしく、旅の準備を始めた。
そして、いしはというと、錫の足下で体を丸くしたまま片時も離れようとしなかった。そんないしを少し離れた場所から冷ややかに窺っていたのは狛犬Bだ。時折いしはそんな狛犬Bが気になってチラチラと視線を向けると──
「何見てるのよ…。あんたあたいに気があるんでしょ?」と思ってもいないことを言われ、慌てて視線を逸らすのだった──。
錫はたった一つだけ────みんなに隠していることがあった。それは神霊界から帰る間際、天甦霊主に問うた内容のことだ。
「天甦霊主様…このたび狡狗を牛耳っていたのは、阿仁邪という狡狗に取り憑いていた霊神でした」
「なんと………霊神が狡狗に?」
「はい。…そしてその霊神は──矢羽走彦と名乗っていました」錫はその名前を聞いた天甦霊主がどう反応するかを知りたかった。残念ながら顔を見ることはできないので声だけが頼りだった。
「や、矢羽走彦…本当にそう名乗ったのですか?」
──「やはり……動揺している…」錫ははっきりとそう感じ取った。
「矢羽走彦をご存じですよね?」天甦霊主は即答せず、しばらく黙ったままだったが、やっと返ってきた答えは錫をがっかりさせるものだった。
「聞いたことがありません…。それより錫…早く肉体に戻らねばあなたの体が朽ちてしまいます…急いで帰りなさい…」天甦霊主のその言葉を最後に、錫はいつの間にか意識を失っていた。
そのこと以外はみんなに伝えたとおりだった。隠すつもりはなかったが、気持ちの整理がつくまでこのやり取りだけは伏せたのだった。
──「間違いなく〝自称神様〟は矢羽走彦を知っている。…そのうち浩子にだけは話をしないと…」
錫は一旦自分の中で区切りをつけると、安心して深い眠りに落ちたのだった。
Ⅴ
「見習いがパパより寝坊とは良いご身分だな…。おまけにのんびり朝食とは…」この日、錫は仕事で静岡まで出張だ。やっとのことでベッドから這い出たものの、まだ寝ぼけ眼の錫を龍門は皮肉った。
「ぐぉめんなはい…ふぁふぁ…。がっけ…うーべはへんはいのへっほんひき☆*◎★♪◇♭▲…」
「何を言ってるのか全く分からんぞ」
「トーストを頬ばったまま喋るんじゃありませんよ。年ごろの女の子が行儀の悪い…」鈴子にも叱られ、錫はトーストをカフェオレで流し込んだ。
「ごめんなさいパパ。だってゆうべは先輩の結婚式の二次会で遅くまで連れ回されて…」
「言い訳はいいから早く食べなさい。…ったく…時間が無くてもご飯はきっちり食べるんだからな…」
「ご飯じゃありませ~ん。トーストですぅ~」
「この見習い聖霊師…食欲と屁理屈だけは一人前だ」
「空腹だと良い聖霊ができませんからねぇ~」
「聖霊するのはパパだ!お前は見習い」
「もう二年も見習いしてるのに…。そろそろ聖霊させてよ?」
「まだ五年は早い!」
「パパのイジワル!」錫は〝べー〟と舌を出して、またトーストに囓りついた。
晶晶白露と集鬼鈴、二つの神霊界賜尊具を巧みに操る聖霊師〝天登龍門〟の名は、今やその道では知らぬ者がいないほど轟いていた。
ちなみに気障りの婆亡き後、レプリカの神霊界賜尊具に霊気を補充しているのは香神ミツと、幅下浩子こと智信枝栄だ。普段はミツが龍門の留守を狙って晶晶白露と集鬼鈴に霊気を補充している。けれどミツが長期不在の折には智信枝栄が代役を務め、霊気補充に協力しているという現状だ。今のところ龍門の手に負えない憑物とは遭遇していないので、錫の仕事といえば雑用だけだ。ゆえに恐がりの錫にとって、現場でずっとチャクラを閉じていられるのは幸いだった。
信枝はずっと錫雅尊を忘れられないでいた。他の男には全く見向きもしない──まぁ、それは錫雅尊と出会う前からのことだが──。
錫雅尊にあまりにも一途な信枝に〝彼は幽霊なのだから、早く忘れて人間の男を見つけよう〟と錫がさりげなくアドバイスすると、人ごとだからそんなことが言えるのだと怒る始末だ。最近では〝錫雅様以上の男が現れたら、心の奥に封印してもいい〟などと言っているが、これは口だけだと錫も浩子も分かっていた。
一番気の毒なのはおそらくいしだろう──。
拗隠の国から戻ってきて数ヶ月が経った頃のこと──神霊界から使者がやって来た。錫が秘宝を見つけ、その秘宝が霊気を失った今、いしには錫の側にいる理由がなくなった。ゆえに、ひとまず白の国に戻るようにとの伝言だった。
それに対していしは一言も反論できず、人間界を後にするしかなかった。錫も別れを悲しんだのは言わずもがなだが、拗隠の国でのような悲愴感はなかった。人間界での修行を終えれば、錫雅尊となって白の国で再会できるのだから──。
それでも時折、錫は神社の境内で狛犬を見ては目頭を潤ませることもあった。そんな時は集鬼鈴でいしを呼び出したい衝動に駆られたが、理由もなく、むやみにいしを呼び出すことは固く禁止されていた。
狛犬Bもいしと一緒に白の国へと帰って行った。いや──正確にはもう狛犬Bではない。いつまでも狛犬Bのままでは可哀想に思った智信枝栄が、ちゃんとした名前を付けてやった。
意志は強いが、名前のわりには性格のおとなしい〝いし〟に対して、気のきつい狛犬Bには、せめて名前だけでも女らしく淑やかにしてやろうと〝綿〟と名づけた。
その場では「あたいは狛犬Bでいいのに…」澄まし顔でそう言っていた狛犬Bだったが、その後、真っ先に信枝に会いに行き、〝智信枝栄殿に『綿』という名前を付けてもらった〟と嬉しそうに報告したのだった。
神霊界の使者は吉報も持って来ていた。それは天甦霊主からの伝言だった。使者の話は、突然須勢理毘売が神霊界を訪れて、天甦霊主に謁見を願ったところから始まった。
須勢理毘売は自分を守るために高宮ハルを隠れ蓑にしてきたが、彼女の顔に火傷を負わせたことで人生を狂わせ、最後は彼女の命まで道連れにしてしまった責任を強く感じていた。そこで高宮ハルが人間界でもう一度人生をやり直すことがあれば、今度は必ず幸多き人生を約束ほしいと天甦霊主に強く申し入れ、高宮ハルの魂を預けた。
天甦霊主は須勢理毘売が必ず高宮ハルの魂を持って来ると踏んでいた。そこで事前に用意してあった答えを使者に託したのだった。
その内容はこうだ──。『いずれ、高宮ハルの魂を人間として生まれさせる。その際、先に預かっていた香神虎の魂も人間に生まれさせる。そして二人が出会い、愛し合える運命になることを約束する』この使者の話を聞くや否や、錫も浩子も抱き合って喜んだ。
「ステキぃ──!浩子のおかげよ!浩子が〝自称神様〟にお願いしてくれたからよ!」
「いいえ…私はそんな…。こんな結末が待ってるなんて思ってもみなかったもの…」
「でも…どんな人間で生まれてくるかは、神様にも分からないのでは?」
「うん、性格なんかは分からないけど、二人が出会ったり、引かれあったりする細工なら、神様にはたやすいことよ。よほどのことがない限りそんなことはしないけどね…」
「あ~、そうなのね!」
──「今度こそ愛し合えるね。おじいちゃんと気障りのお婆さん…」
〇
「さぁ、急げ急げ…置いていくぞ!」
「まだ八時までには五分あるわ。それに置いていくったって…運転するのは私ですぅ~」
「だんだんお母さんの言い方に似てくるなぁ」
「あら…私に似てきたら悪い?」鈴子が食べ終わった食器を洗いながら、嫌みっぽく龍門に言った。
「い、いや…そうじゃなくて…そのぉ………嬉しい…」
「そうでしょ!うふふっ…」
「ごちそうさま!──パパ…早く行くわよぉ」
「行くわよって……待っていたのはパパの方だぞ」
「あなた、錫にあんまり無茶させないでね」
「無茶もなにも…コイツはいつも逃げまわってばっかりだ…」
「えへへ……では行ってきま~す!」
錫の聖霊師見習いは、まだ暫く続きそうだ。
これから先──もしも憑物退治の噂を耳にしたなら、それは聖霊師の活躍かもしれない──。
「いいな!?……現場ではパパはいかんぞ…パパは…」
「分かってるって。ちゃんと心得てますよ───聖霊師〝天登龍門様〟」
完
きっかけは今から30年も昔、霊感の強い女性が、自分の生まれ変わる前を知っているという話を聞いたことだった。
狛犬にまたがり悪い霊を玉に封印し昇天させる高徳な男だったと語った。その女性は手から短刀や牡丹や蓮、菖蒲を自在に出して私に見せてくれた。といっても、霊感のない私には見えなかったが…。
物語にある霊の現れ方などもほとんど同じ人物から聞いたものだ。
ちなみにチャクラの話は私のことで、どうやら私のおでこにはソレがあるらしい。目は開いてはいないが、開くと何か力が出ると聞いた。これも私には見えないので真実は謎だ…。オーラ話もまたしかりだ。
こんな話を物語に出来たら楽しいだろうと思いながらも、小説は読むものであり、書くなどそもそも概念になかった。
十数年前、私の家庭環境が変わったとき、やっぱりあの奇妙な話を物語にしてみたいと思い一念発起した。
素人のすることだ。最初は僅かな登場人物と秘宝を何にするか…ということくらいだ。
物語が進むにつれて矛盾や難問が出てくる。これも素人ゆえだ。
例をあげれば、秘宝が一つ見つかった時点で、もう一つを虎の遺品に片っ端から引っ付ければ見つけられるという落とし穴だ。これに頭を悩ませて、苦肉の策として物魂というものを作りだした。結果錫が牢中で秘宝を見つけ手中に収めるという破天荒な物語へとつながった。結果オーライだ。
最初はもっと薄っぺらい物語だったが、辻褄をあれこれと合わせていくうちに、いつの間にか長編になっていたというのが事実だ。
栗原信枝、幅下浩子、高宮ハルは私の従妹の三姉妹だ。下の名は実名だ。信枝と浩子に関しては、物語の人物像と実際とがかなり近い。キャラを表現させるにはとてもありがたかった。
幾人かの登場人物は名前に遊びごころを楽しんだ。
インチキ霊能者“陰田智鬼”は漢字を入れ替え、音訓をばらばらにすれば“インチキだ”となる。通り魔の“東田利馬”も“通り魔だ”となる。二作目、三作目も幾人かは、こうした作者の勝手なお遊びで名前が付けれらた。
一作目が出来あがったとき、こんな素人作品がモノになるのかどうか、ある出版社に持ち込むと、とても高評価を頂いた。それに気を良くして、二作目を書こうと思った。
構想は白の国が天国なら、黒の国は地獄、地獄には鬼や閻魔さまがいて、血の池地獄や針地獄がある。それだけだった。
しかし、小説を書いているとその世界に魅了されおかしな感覚に陥る。
私の場合、頭の中の登場人物が勝手に会話し物語を進めてくれる感覚なのだ。もちろん矛盾があれば、それを訂正するのは書き手だが、どんどん物語を進めていくのは彼らなのだ。ゆえに私の小説には会話が多い。こうしていくうちに自分が錫の世界にハマってしまい、二作目が完成に近づくと、三作目は無理か…と考え始めるようになった。まだ種明かしは出来ないが、謎解きの一つが三作目に繋がると感じた時、それをもとに三作目が書けると踏んだ。
さて、以降の作品の評価は読者の皆さんにゆだねるしかありませんが、楽しく読んでくださることを願って、ここらで筆を置きます。
感想や評価、レビューなど書く欄がありますので是非お願いします。




