第二十一章──平和Ⅰ
平和──Ⅰ
Ⅰ
夕刻──錫はベッドで昼寝をしているかのように目を閉じていた。浩子とミツといし、そして狛犬Bは、その姿を静かに見守るしかなった。浩子は一時間ほど前にやって来て、拗隠の国での出来事を漏らさずミツに伝えていた。
「そうかい……錫がそんなことを…」
「本当に申しわけございません。このようなことになってしまって…」
「浩子ちゃんが悪いわけではないよ。この子が選んだ道だ…悔いはないはずだよ」
「わたくしは悔やまれてなりません。…ご主人様を残して帰るとは…なんという下僕でしょうか…」いしはずっと泣きっぱなしだ。「今から拗隠の国へ行って参ります…」
「バカね…行ったが最後、もう出口がないのは分かってるでしょ!?ご主人様が一番悲しむことをしてどうするの…?」
「あたいもそう思うよ…」
「頭では分かっているが、そう簡単には…。お前もわたくしのようなご主人様を持てば分かる。狡狗に仕えているのとは違うのだ…」
「よく分からないけど────あんたが羨ましいよ…」
「そうだとも。どこを探しても、わたくしほど幸せな狛犬はおらん。だからこそ…だからこそ…」そう言ってまたいしは涙を流すのだった。
「浩子ちゃん…。錫はこれからどうなるんだい?」ミツが辛そうに尋ねた。
「蓄電池が自然放電するように、スンの体に残してあった霊気が少しずつ無くなっています。その霊気がすべて無くなった時…」
「この子は死んでしまうんだね…。助かる方法はないのかい?」
「残念ですがありません。……ただ…スンを人形のように動かすことは可能です…」
「どういうことだい?」
「誰かが憑依するのです。そうすればスンの肉体が朽ちることはありません。ただし、当然スンではありません。身体を乗っ取られたようなものですから…」
「そうなんだね…」ミツは小さくため息を吐いた。
「いざとなれば、私が浩子の身体を抜け出して、香神錫として生きることも考えています…」いしは浩子の話に黙って耳を傾けていた。
次の日も浩子は錫の様子を見にやって来た。錫は気持ちよさそうに眠ったままだ。
「おばあ様…スンの霊気はもうほとんど残っていません…」
「そのようだね…。私にもそれくらいは分かるよ」
「ところで──いしの姿が見えませんが?」
「私も今朝から探してたんだけどね…。どこにも居ないんだ」
「狛犬Bは知らない?」
「あたいも知りません…」
「浩子ちゃん……まさか…?」ミツがちらりと浩子の顔を見た。
「はい…私もそう思います。行ったのかもしれません……いいえ、行ったとしか考えられません」浩子は顔を曇らせて答えた。
──「あれほど行ってはならないと言ったのに…」浩子は窓から空を見上げながら、いしを側に置いておけばよかったと後悔した。
沈黙の部屋の中で柱時計だけが〝コチコチ〟と音を立てながら時を刻む。その音が錫の命を切り刻んでいるようで浩子はやるせなかった。
「ひ、浩子ちゃん!」ミツの大きな声に浩子は〝ビクッ〟とした。「錫の口元と目元を見ておくれ…」言われるまま、浩子は慌てて錫の顔に近づいてみた。閉じたまぶたが〝シバシバ〟と小刻みに動いている。口元を〝もごもご〟と動かす仕草も、いかにも錫らしくて愛らしかった。
「意識が戻ったのかね…?」
「そのようです……だけどどうして…?」浩子はすぐにピンときた。
──「昨日、私とおばあ様の会話に聞き耳を立てていたいし…。そのあと行方不明のいし…。戻りかけているスンの意識──考えるまでもないわ」錫が本来の命をまっとうし、錫雅尊となって白の国に戻って来るのならば、いしは尻尾をちぎれんばかりに振って喜んだに違いない。だが今となっては錫が死んでも錫雅尊となって白の国に戻って来ることはない。大切な主人の魂も肉体も完全に消え去ってしまうなど、いしには耐えられないのだろうと浩子は理解した。
「浩子ちゃん、錫が目を開けそうだよ…」
「はい…」固唾を飲んで錫を覗き込むミツを見て、浩子は胸が痛かった。
やがて錫はいつもの大きな目をパッチリと開け、徐に体を起こすと浩子とミツを交互に見てニッコリ笑った。
「ただいま帰りました──ご心配をおかけしました!」
「本当だよ!この子ったらもう…」ミツは片手で錫の体をしっかり抱きしめ、もう片方の手で頭を撫で回した。
「スンお帰り…」浩子は特に喜ぶでもなく、素っ気なく返事を返した。
「うん、ただいま!まさか帰れるなんて思わなかったわぁ!」
「もういい…もういいのよ…いし──全部分かってる…」
「いし…?」ミツが驚いた顔で錫を見た。
「はい…。いしは主人に憑依して、せめて肉体だけは朽ちさせまいとしているのです…。いしがここに居ないのはそういうことです」浩子の言葉にミツは一気に力が抜けた。
「何を言っているの浩子……私よ、スンよスン!」いかにも錫らしく振る舞う仕草に、浩子はもの悲しささえ覚えた。
「いし……本当にそんな茶番はやめて…。虚しくなるだけよ…」
「浩子殿……なんで虚しくなるんです?」
「あなたがあまりにも哀れで…………えっ!?」浩子の隣りにいつの間にかいしがちょこんと座っている。
「いし…?………どうしてそこに…?」
「………どうしてと…?わたくしは白の国が気になって様子を見に行っていました。狡狗はもう攻めて来ていませんでした。ご主人様が見事に抜け穴を防いでくださったようです」
「じゃ…これは………誰?」浩子は口をぱくぱくさせて錫を見つめた。
「だから言ってるでしょ!私は私よ香神錫…スンちゃんよっ!」
「えっっっっっっ!?」目を覚ましてしゃべっている錫を見て、いしが天井まで飛び上がるほど驚いた。
「ご、ご主人様?ご主人さまぁ────!」いしは錫が倒れるほどの勢いでその胸に飛び込んでいった。
「きゃははは…いしったら、痛いわよぉ~!」
「ご主人様ですよね!?…本当に…本当にご主人様ですよね?」
「そうだよぅ。正真正銘の香神錫だよぅ!」人差し指を立てて戯けて言った。
「じゃ…本物のスン…なの…?」浩子はまだ信じられないようだ。
「だからそうだってばぁ。幽霊じゃないよ。幽霊から人間に戻ったんだよ!」
「浩子ちゃん…結局この子は本物の錫なのかい…?」
「ごめんなさいおばあ様…。どうやら本物のスンのようです」
「そうかいそうかい、お帰り錫…お疲れさんだったね」錫はこんな自分を大切に思ってくれる人たちに囲まれて幸せだと感じた。
一頻りみんなで錫の帰りを喜び合ってから、浩子は錫に尋ねた。
「ねぇスン、貴女がここに戻れたということは、抜け穴を塞げなかったということ?」それを聞いて錫はニッコリ笑って言った。
「へっへっへぇ~。それがね…錫雅様は抜け穴も塞ぎ──そして見事拗隠の国からも生還したのです!」
「ご主人さまスゴイです!是非聞かせてください──ご主人様の脱出トリックを…」
Ⅱ
時間は少し遡り────────
智信枝栄は狛犬Bと泣き叫ぶいしを連れて、抜け穴を通り白の国へと渡った。渦を巻く黒い霧の中に飛び込むなり、いきなり白の国が現れた。拗隠の国と白の国とは繋がってはいないので、黒い霧が空間を左右していると見て取れた。
出口は宙に現れ、放り出されるように真っ逆さまに落ちていった。飛び込んだのが同時だったので、皆同じ場所に出て来られたのは幸いだった。一足先に抜け穴に入った信枝はその場所には居なかったが、抜け穴を通った時間にさほど差がなかったためか、以外と近くで発見できたのも幸いだった。
智信枝栄達が信枝を見つけると真っ先に信枝が尋ねた。「錫雅様はまだ?」
辺りを見渡しながら、いつ来るかいつ来るかと落ち着かない様子だ。
少し離れた場所で狂ったように泣き叫んでいるいしに気づいた信枝は妙な不安を覚えた。
「どうしたの…?何かあった?」智信枝栄は返答に詰まった。
「驚かないで聞いてください。錫雅様はここには来ません…」
「えっっ!?」それを聞いて信枝が驚かないわけがない。智信枝栄が事の成り行きを話している間、信枝はいし同様取り乱し、もう一度拗隠の国に戻ると言って聞かなかった。智信枝栄はそうすることが如何に錫雅尊の正義を無駄にし、また悲しませることになるのかを諄々と言って聞かせ、漸く信枝を納得させたのだった。
智信枝栄には、一つだけ白の国でしなければならないことがあった。最北端にある神霊界へ行き、天甦霊主に会うことだ。
最北端とはいうものの、特に目印のようなものがあるわけではない。智信枝栄に〝ここが最北端だ〟と言われた信枝は、これのどこが最北端なのか辺りを見渡したくらいだった。
「まだまだこの先があるわよ?」
「たしかにそうなのですが、ここから先はいくら進んでも位置は変わりません。例えて言えばウォーキングマシーンの上を歩いているようなものです。それに神霊界の入り口をカムフラージュするにも都合が良いのです。神霊界に悪さをしに来る奴は、ここが最北端だと分からず延々と歩き続けますから、その隙にさっさと捕まえます…御用だ!」
「ふむふむ…なかなか合理的だわね!」二人ともなるべく明るく会話をしようとしているが、錫雅尊のことが頭から離れず、どこか不自然だった。
説明が終わると智信枝栄は、今立っている場所から叫んだ。「天甦霊主様…お目通りを願います」すると、そこへ白い霧の階段が現れ、黒装束を纏った一人の門番が降りてきた。
「智信枝栄が参ったと天甦霊主様にお取り次ぎ願います」
「天甦霊主様は貴女方を待っておいでです。ついて参られよ」黒装束の門番から許しをもらい、一行が階段を上がって行くと、後から後から霧の階段は一段一段消えていった。
「この階段は全部で四十四段あるのです」智信枝栄が信枝に説明した。
「四十四段?」
「はい。日本の人間界と白の国を統治している神々の願いが隠された段数なのです」
「神々の願いが隠された…?」
「四十四……神々は、人間が生死を超えて〝始終幸せ〟と願いをかけてこの段数にしています」
「それを聞くと、階段を上るのもありがたくなってくるわね」
四十四段の階段をすべて登り切ったとき、信枝もいしも狛犬Bも、このまま神霊界から離れたくないと感じた。白の国よりも遥かに穏やかで安らかな世界だったからだ。しかし、ここに住むことを許されるのは極々限られた魂を超えた存在のみ──つまり神のみだ。智信枝栄だけがそのことを知っていた。
「無事に戻ったのですね…?」物静かな女性の声が遠くに聞こえた。
「はい天甦霊主様」智信枝栄は目線を動かすことなく答えた。
「どこにいるの?」信枝は辺りを見渡したが、声の主は見当たらなかった。
「姿が見たいのですか?」落ち着かない信枝に天甦霊主が話しかけた。
「や、やっぱり声だけというのは…どうも…」
「では、こうしましょう…」いきなり目の前に、赤い着物を身につけた、おかっぱ頭の幼い女の子が現れた。彼女は愛らしい笑顔を浮かべ一同を見回した。
「本当にみんな、よく無事で戻りました。おや!?…錫雅の姿が見えませんね?」
「天甦霊主様…そのことですが、良い報告と悪い報告が同時にございます…」
「同時…それはどういうことです…?」
「はい天甦霊主様…虎慈様が天と地に分けて隠しておられた秘宝は〝錫杖〟でございました。錫雅様が見事にそれを探し出されました。…そして間もなくその秘宝によって、拗隠の国の抜け穴は閉ざされるのです」
「それはどういうことです…?」
「悪い知らせというのはそのことです天甦霊主様……。錫雅様は秘宝の力を使って拗隠の国の抜け穴を塞ぐべく、あちらに残られたのでございます」
「何ということでしょう!」
「ご自身が無になるのを覚悟で、白の国の身代わりとなりました…」
「なんとも労しい…錫雅美妙王尊──白の国の勇者として、その名を永遠に刻みましょう」
「ご、ご主人さまぁ―─!」二度三度いしの悲しみに火がついた。「天甦霊主様…わたくしのご主人様を称えてくださりありがとうございます」
「当然よ。私が唯一命をかけて恋したお方だもの。錫雅様はこれからも私の中で生き続けるわ…」信枝といしは抱き合って悲しみを共有した。
その様子を横目で見ながら、智信枝栄が天甦霊主に尋ねた。「天甦霊主様…じきに狡狗達の襲来もなくなり、また平和な白の国に戻ることでしょう。そうなれば私は今すぐこの国に戻る必要はなくなります。けれども錫雅様のいない人間界に私が残る必要もありません。私はこの先どうすればよいでしょうか?」
「そなたの身の振り方は考えておきましょう…。それまでは人間界で浩子として暮らしておきなさい」
「ありがとうございます天甦霊主様。それからもう一つ…とても大事なお願いがあるのです」智信枝栄は錫から預かった魂を懐から取り出すと、丁寧に両手で持って高く捧げた。
「もしやそれは香神虎の魂ですか?」
「はい…天甦霊主様。虎慈様がこの香神虎の魂を守ったのです」智信枝栄は、天翔虎慈之尊の魂が無になるまでの経緯を天甦霊主に伝えた。
「…いかにも虎慈尊らしい天晴れな最後でしたね…」
「はい…。それで…この香神虎の魂ですが、天甦霊主様に預かって頂きたいのです」
「私がですか…?」
「はい天甦霊主様。虎慈様がどうして自分を無にしてまで香神虎の魂を守ったのかはお分かりでしょう?香神虎の人生の大半を奪い取った責任を強く感じていたからです。虎慈様はそういうお方です。ですから香神虎の魂が今一度人間としてやり直すのであれば…なにとぞ幸多き人生を約束してやってくださいませ…」
「…幸多き人生…」天甦霊主は何かを考えていたが、すぐに小さく頷いた。「承知しました。その約束、確かに引き受けましょう」
「ありがとうございます天甦霊主様!香神虎の魂の行く末を誰よりも案じておられるのは錫雅様です。これで私も安心いたしました」心から礼を言い、別れの挨拶をして帰ろうとした智信枝栄に天甦霊主が言った。
「私がそなたたちを送り届けてあげましょう。全員後ろを向いて一歩だけ歩きなさい」一行は言われるとおり後ろを向き、そのまま一歩足を踏み出した。
その後それぞれがどうなったのか──誰も覚えていない。
信枝が目を覚ますと、見覚えのある自分の部屋だった。信枝は、しばらく今までの出来事が夢か現か判断できずにいたが、〝ボー〟っとしていた頭がシャンとしてくると、あれは現実だったと確信が持てた。そうなると拗隠の国に残った錫雅尊のことが芽を吹き出してしまい、これだけは夢であってほしいと心を乱されるのだった。遣り切れない気持ちでいっぱいの信枝は、誰もいない道場へと足を運び、たった一人、無心になって空手の稽古に没頭した。
流れる汗よりも涙ばかりを拭っている信枝を、柱の陰から複雑な思いで見守っていたのは、父・段乃原正立だった──。
智信枝栄が目を覚ました時、ちょうど浩子は食事の最中だった。智信枝栄は錫や信枝と違って浩子に憑依している存在なので、体内から抜け出しても浩子の命に支障はない。
さっきまではいしや信枝が取り乱さないように毅然としていた智信枝栄だったが、本当は自分が真っ先に拗隠の国に戻りたかった。
愛しい錫雅尊、親友の錫──両方を一度に失った智信枝栄は、理性を失い衝動的に過ちを起こさないよう、自分の気持ちを抑え込まねばならなかった。
目を覚ますと愛する主人が側に居た。けれども前のように優しく微笑んでくれるわけでもなく、昏々と眠り続けているだけだ。間もなく主人の肉体は朽ちてゆくだろう。だが錫雅尊となって戻ってくることもない。
〝これからは浩子がお前のご主人様だ…〟と命を受けたが、それはいしにとってあまりにも酷な言葉だった。決して浩子が嫌なわけではない。主人同様、素晴らしい霊神であり尊敬もしている。だが無になる覚悟を決めた主人が、下僕の身を案じて次の主人を決めておくなどあまりにも心が痛い。それはいしの性格上簡単に承服できるものではなかった。
すぐ側にまだ目を覚ましていないもう一体の狛犬がいる。いっそのこと、自分もこの狛犬のように誰にも従わず、白の国に戻って静かに暮らそうかとも考えたのだった。




