第二十章──決断Ⅰ
決断──Ⅰ
Ⅰ
いしは錫の眠っている枕元の前に伏したまま涙をこぼしていた──。
「ご主人様…もしこのまま暫く待って戻られぬ時は、やはりいしはお迎えに参りますけん…」錫に残された僅かな霊気が徐々に失われてゆくのをただ黙って見守るしかできないいしは、心痛で胸が張り裂けそうだった。
「いし…」
「はい、ご主人様…………えっ!?」辺りを見渡したが空耳のようだった。いしは再び錫の枕元に伏した。
「いし……」
「えっ!?…ご主人様…お帰りになられたのですか?」眠っている錫が間もなく目を覚ますのかもしれない。高ぶった気持ちで錫の顔を見つめていたが、その気配はなかった。錫を気にするあまりの幻聴だろうと、いしはがっかりしてまた枕元に伏した。
「私よ…。この声がお前に届いていたら、一度だけ私に強い念を送り返して…」
「念だ!ご主人様は念をわたくしに送っているんだ」いしはすぐに力の限り強い念を錫に送り返した。その念が錫に届いたのだろう──暫くすると錫から返事が返ってきた。
「いし、これから言うことをよく聞いてちょうだい…」。
「はい、ご主人様!」いしは力強く返事をすると、錫の言葉に耳を傾けた。
「軒下の干し物の場所には本物が一本。脱ぎたがりの女に皮を剥かせたら、一緒に鳥かごまで届けておくれ。だけど下僕が化けて口の中に入らないと女が鳥かごまで近づけない…。頼んだわ」
──「…これは万が一狡狗に聞かれた時のことを考えて配慮されたメッセージだ」いしは考える間を惜しむように家の裏の軒下へと急いだ。軒下には垂れ下がった二本の紐が、一㍍半ほどの細い棒を両端で支えている。そこにはネットに入れたまま吊されたタマネギや、数本を一纏めにして葉っぱごと紐で束ねた大根が棒に引っ掛けてあった。いしは行儀良く〝おすわり〟すると、錫から送られてきたメッセージの意味を解き始めた。
「軒下の干し物の場所………ここだな…。本物は一本だけ…。今あるのは大根とタマネギ…タマネギなら〝一個〟と数える──ということは…。そして脱ぎたがりの女に皮を剥かせる………か…。鳥かごとはおそらく牢のこと…下僕はこのわたくしだ…。化けて口の中に入らないと……近づ…け…ない………か…」それきりいしは口を噤んだが、ものの一分も経たないうちに小声でポツリと呟いた。「ふむ…そうか!」尻尾をくるりと立て、徐に立ち上がると凛として叫んだ。「ご主人様、いしはすぐに行きますけん!」
Ⅱ
常生拳空手道本部道場では、少年拳士たちが元気に稽古の真っ最中だ。もっとも少年拳士の3割は女の子で、どっこい男の子に引けを取らない逞しさで稽古に励んでいる。
道場の広さは畳にして百畳はありそうだ。床板はもちろんのこと、壁板の一枚一枚、柱の一本一本まで丁寧に磨かれていて、ワックスが塗られたように黒光りしている。道場の上座には床の間があり、そこには『鍛錬』と力強く書かれた掛け軸が掛けてあった。
その床の間を背にして、背中に定規を当てたように背筋を延ばして正座をし、黙って稽古を見届けているのが、この道場の総師範〝段乃原正立〟だ。
彼は高校時代まで趣味は読書という物静かな青年だった。将来は自分の手で沖縄の守護神〝シーサー〟を作ってみたいと、沖縄の芸術大学陶芸科に進んだ正立は、下宿をしながら勉学に励む傍ら、思い切って空手部に入部したのだった。最初は本場沖縄の空手を体験してみたいという軽い気持ちだったが、なんと彼は一年も経たぬ間に有段者の先輩達を全員倒してしまうほどの強さになっていた。
もちろん陶芸も学んだが、それ以上に大学の四年間で沖縄に伝わる古流派少林流空手を学び、すっかり魅了された正立は、就職活動もせず、空手バカのまま大学を卒業すると、その後三年間は武者修行に回り、故郷に帰ると〝常生拳〟という流派で空手道場を開いた。
常生拳は自らが学んだ少林流空手を基本にしているが、彼は今の荒んだ時代を武道によって正したいと精神面にも力を注いだ。
道場を開いて最初の二年間は入門者も少なく、学生時代から付き合っていた今の妻と結婚したものの、その妻に養ってもらうような貧困生活だった。〝このご時世にそんな辛気臭いことは流行らないから止めておけ〟と、正立の師匠は助言したが、彼は〝自らが正しい道を歩めば、その後を歩む人間も自ずと正しい道を歩む〟と自分の信念を曲げなかった。
結果──道場を開いて三年が経った頃から〝今の時代に負けないような強い精神力を身に付けたい〟とやって来る入門者が増えだした。その中から師範となって道場を開こうとする頼もしい弟子達も現れ、やがて常生拳はフランス、ブラジルといった国外にも広まった。今では年に一度、常生拳空手道大会が代々美体育館で開催されるほど大きな組織になっていた。
「よし、組み手やめ。これから型の稽古をする。師範代に一度模範演武をさせるからしっかり見ておくように」
「オスッ!」少年達の気合いの入った声が広い道場に響き渡る。
黒い帯を締めた師範代が道場の真ん中に立つと、早速演武が始まった。型は基本的に一人で行うのだが、様々な種類の突き、蹴り、受けを取り混ぜながら、恰も相手と戦っていることを想定しながら演武する。師範代の一挙動一挙動の見事な動作に少年達は釘付けだ。突きや蹴りを決めた瞬間に生じる〝バサッ〟という空手着の切れの良い音は、まだ初心者の拳士にとっては、それだけでも憧れなのだ。
演武を終えた時、注目すべきはその足下だ。始まりと同じ位置に立っていることが求められる。だがこれがなかなか至難の業だ。師範代は型を始めた時に立っていた位置と全く同じ位置で型を終えると、軽く息を整えて少年拳士達に言った。
「さぁ、みんな始めなさい!分からなかったら私を呼んでいいからね」
「オスッ!」師範代の見事な模範演武に見とれていた少年拳士達は、我に返って元気に返事をすると一斉に稽古を始めた。同時に床板が〝ドドドンドドドン〟と低音で鳴り響く。まるで足で奏でる和太鼓のようだ。
「もしもし…もしもし…」背後から早くも誰かが声をかけた。それにしても子供らしくない呼び方だと、師範代は変に感じながら振り向いた。
「今私を呼んだのは誰?」けれども少年達は誰も返事をしなかった。
「もしもし…もしもし…」その声に、またも師範代は素早く後ろを振り向いた。
「誰?誰が呼んでるの?」師範代が叫んでも少年達は知らん顔だ。
「もし…もしもし……」今度こそ間違いなく子供達の誰かがからかっているのだと確信した師範代は、後ろを振り返るなり少しくだけた口調で注意した。
「だーれ?練習中にふざけているのは?」
「わたくしです…いしです…いしですけん…」どうやら心の中で囁かれていることに気づいた。
「いし?…いしってあの狛犬君…?」
「そうですよ…。あの狛犬のいしですけん」師範代こと栗原信枝は目を輝かせた。
「…やっぱりあれは夢じゃなかったんだね!?錫雅様は実在のお方だったんだ」信枝にとって、そこが重要なポイントだ。
「信枝殿、わたくしの声が聞こえてくれただけでも助かりました」
「えぇ、姿は見えないけど、声は聞こえているわよ」
「それで充分ですけん。…実は信枝殿に助けて頂きたいのです」
「助ける?」
「はい。錫雅様の一大事なのです」それを聞いた途端、信枝の目つきが険しくなった。
「錫雅様に何かあったの?」
「錫雅様は信枝殿にも取り憑いた狡狗に捕まりました。助け出すためには信枝殿の力を借りなけ…」信枝はいしの話を最後まで聞かず、総師範のもとへ駆けて行った。
「総師範…急遽大事な用ができました。稽古を抜けさせてください…」総師範は、黙ったまま睨むように信枝の顔を見た。「私が初めて好きになったお方の生死に関わる大事件です」
「な…なんと…お前が…!?」総師範はそれまでの落ち着きを欠いてしまいそうだったが、なんとか平常心を保った。「分かった…今回は特別に許す…」
「ありがとうございます」信枝は一秒を惜しむ体で、きびすを返して走り出した。
「今度その男性を連れてきなさい」その言葉を背中で聞いた信枝は足を止め、振り向くことなく返事を返した。
「彼は恥ずかしがり屋で人前に姿を見せたがらないの。だけどとっても強いわ…」その後すぐ顔だけ振り返ると、総師範の目を見て悪戯っぽく囁いた。「お父さんよりも…」
〇
信枝は物心がつく頃から厳格な父に空手の指導を受けて育てられた。
父の本名は栗原隆夫といったが、常生拳の総師範としては今一つ力強さに欠けるという理由から、その名を〝段乃原正立〟と改めたのだった。
幼い頃の信枝はひたすら道場の雑巾がけと基本鍛錬法の繰り返しだった。それを嫌だと感じたことはなかったが、道場に通う仲間と同じように、早く〝組み手〟や〝型〟の稽古をしたいと羨ましく思ったことは何度もあった。八歳になって漸く実践組み手を許された信枝は、それまでの基礎鍛錬と雑巾がけの精神修行の賜物であろうか──どんどん頭角を現して強くなっていった。
信枝が男の子達を頼りなく感じるようになったのはこの頃だ。男の子を嫌っていたわけではなかったが、少なくとも魅力を感じるような強い男の子が信枝の周りにはいなかった。
〇
道場を出ると、信枝は着替える時間さえ惜しんで何をすればよいかをいしに尋ねた。
「まずはご主人様の家に。私が案内しますので」信枝は黙って頷くと、いしの声を頼りに目的の場所へと急いだ。
信枝が連れて来られた家は、あまりにも見覚えのある家だった。
「ねぇ…ここってスンの家よ…」
「あの…じ、実は…」漫画であれば汗をタラタラ流している絵が描かれているところだ。「実は…錫雅様は…。そ、そうです…錫雅様は錫殿の守護神なのですはい」いしはとりあえずその場を取り繕った。
「えっ!?錫雅様はスンの守護神?」
「そ、そうなのです…。ですからあの時も錫雅様は、自分が守護している錫殿の親友である信枝殿を助けようとしたわけです…」いしは上手く辻褄を合わせた。
「そうだったの。…とすると…スンの側にはいつも錫雅様が…?」
「錫雅様もお忙しいので付きっきりではありませんです…」錫雅尊の正体がバレなかっただけでもいしには御の字だった。「信枝殿…家の裏手に回ってください」信枝は言われるまま裏手に回った。
「信枝殿…ここに吊してある野菜をすべて下ろしてもらえますか?」
「お安いご用よ」信枝は言われるまま吊してあったタマネギと大根を下ろした。
「さて…本物は一本だけ。…信枝殿、お耳を…。今から話すことを万が一奴らに聞かれたらなりませんから…」信枝はいしの声のする方向へしっかり耳を欹てた。
「…うん、分かった。持って帰るのはその一本だけね?」
「そうです…。肉体のないわたくしには、形ある物は持てませんので…」
「コレでいいのね!?じゃ、戻ろう!」信枝はいしから指示された一本を手にすると、足早に自分の家へと急いだ。
信枝の部屋は二十歳前の女性の部屋とは思えないほど飾りっ気がなかった。部屋の造りが純和風なのは仕方ないにしても、ぬいぐるみやアイドルのポスター、鏡台も化粧道具もこの部屋には見当たらない。その代わりと言ったらおかしいが、空手道大会で手にしたトロフィーや賞状が所狭しと並べてあった。
畳敷きの信枝の部屋は塵一つ落ちていない。部屋の隅に置いてある一組の布団は、角をきちんと揃えてたたんであった。これだけでも信枝の生活ぶりを垣間見ることができる。
部屋に入って早々、信枝は錫雅尊を助けるために何をすればよいのかをいしに尋ねた。
いしが次にしなければならない事は決まっている。
──「脱ぎたがりの女に皮を剥かせる…か…。ご主人様は凄い表現をされたものだ」
「信枝殿は自由に幽体離脱ができますよね?」
「うん。錫雅様にお会いしたい一心で何度も試して覚えた技よ」
「では今すぐに離脱してください。けれど先ほどご主人様の家から持って帰ったソレを手に握ったまま離脱しなければ意味がないのです」
「コレを手に持って幽体離脱すればいいのね?」
「はい。そうすれば信枝殿の離脱と一緒に身についている物はすべて抜け出ます」
──「ご主人様は離脱を試み続けた信枝殿を〝脱ぎたがりの女〟と例えた。さらに中身を抜き取ることを〝皮を剥かせる〟と表現された…。お見事ですけん…ご主人様」
信枝は部屋の真ん中で仰向けに横たわって目を閉じた。それから二呼吸ほど間を置いて、上半身だけをゆっくり起こした。言うまでもなく起きあがったのは信枝の魂だけだ。
「あっ、今度は見えるわよ。改めてお久しぶり…狛犬君」
「こ、これはどうもですはい」姿を見られてテレるいしだった。
「信枝殿…ここまでは順調です。これからが大変なのですが、時間が惜しいので道中お伝えします。とにかくわたくしの背中にお乗りください」いしがそう言うと、なぜだか信枝は目を輝かせていしの背に乗った。いしは鬼門の方向を目指して翔け出した。
「君の背中に乗せてもらえて感激だわ!」信枝に喜んでもらえて気を良くしたいしは、足の運びがいきなり軽くなった。「だってこの背中は錫雅様もお乗りになるんでしょ!?」
──「そっちでしたか…」失速しそうになった。
「信枝殿…今向かっているのは狡狗の棲む拗隠の国です。向こうへ着いて大きな岩山の麓までは害はありませんが、いったん岩山を登り始めると、奴らの強さは格段に違ってきます」
「それで…私はどうすればいい?」信枝はいしの説明に臆することなく尋ねた。
「信枝殿が岩山を登る前に、まずわたくしが先陣をきります。狡狗どもが居なくなったのを見計らってから、信枝殿は一気に岩山を登ってください。暫くすると道が二つに分かれておりますから、そこを必ず左に進んでください。更に奥へと参りますと牢が二つ見えてきます。その牢に錫雅様が…ご主人様が囚われています。ご主人様とお会いできましたら、その後はご主人様の指示に従ってくださいませ…」
「分かった!必ず錫雅様をお助けするわ!」信枝は力強く応えた。
──「鳥かご…つまり牢だ。あそこまで目的の物を届けるのは至難の業だ。ですがご主人様…もうすぐです……もうすぐ助けに行きますけん」
拗隠の国に到着した二人は、錫達が捕らえられている大きな岩山の麓で足を止めた。
「ここで一旦お別れです。信枝殿…手はずどおりに…そしてどうぞご無事で…」
「えぇ…いしもね…。必ずみんなで再会しましょう!」いしは信枝の言葉に笑顔で応えると、山を一気に登り始めた。
一度山には入ると狡狗の強さは段違いだ。しかもいしの気配を感じ取った狡狗達が次々と追いかけてくる。
「もっともっと集ってこい!」いしはわざと自分の霊力を高めて、右に左に駆け抜けた。
──「岩山ではあちこちに蔓延る狡狗に邪魔されて信枝殿は牢に近づけない。だから下僕が化けて口の中に入る…ちょっと時間がかかったが謎が解れば簡単なことだった。化けるという字が口の中に入れば〝囮〟となる。下僕であるわたくしが囮になれという意味だ…。囮となって狡狗の気を引いている隙に信枝殿を牢へ向かわせろ…それがこのメッセージの答えだ。そして…そうまでして信枝殿に届けさせる代物……それは秘宝以外には考えられない。ご主人様はとうとう見つけなさったんだ。絶対絶対失敗は許されん」
信枝は岩山を走り出した。いしのおかげで狡狗の姿はない。信枝はひたすら走った。坂道なのに息が切れない。重力も感じないので延々と走ることができそうだった。
やがていしの説明どおり別れ道に差しかかった。「ここを左ね…」指示どおり左に進むと、先に一体の狡狗が寝そべっていた。どこの世界にも怠慢な奴はいるものだ。だが信枝に選択の余地はない。ここしか通る道はないのだ。性格上コソコソ通ることをしたくない信枝は、狡狗を避けることなく、逆に睨みつけながら道の真ん中を進んだ。狡狗も信枝の気配を感じ取り、道の真ん中で仁王立ちになって信枝の行く手を阻んだ。信枝は狡狗との間合いを充分に保ってその歩みを止めた。
「ここを通してくれない…?」月並みな言葉しか出てこない。
「たかが狛犬一匹を追いかけても仕方ないから休んでいたのに…」
「私を通すの…?通さないの…?」
「あ~…違う場所で休めば良かったなぁ…」狡狗は面倒臭そうに呟いた。
「話が噛み合わないわね…。勝手に通るわよ」信枝は、狡狗を無視して道の端を通りかけた。
「バカ…誰が通すと言った…?」
「あんたが私の質問に答えないから行こうとしたんでしょ」
「生意気な女だ…。まぁいい…オレ様が不味そうなお前の霊気を吸い取ってやる…」狡狗は黒い毛で覆われた太い両腕を信枝の首に伸ばしてきた。信枝は素早く左に体を躱しつつ、右掛け手受けで狡狗の手を流すように払うと同時に、左手で顔面に正拳をお見舞いしてやった。狡狗は一瞬怯んだもののダメージはなさそうだった。
「バカな奴だ。霊力のない打撃などオレ様には通用しない。少しばかり動きを止められるだけだ…ククッ」信枝は苦々しく思ったが、どうすることもできなかった。
執拗な狡狗の攻撃はなおも続いた。信枝はその度にさらりと体を躱し、二~三発当て身を食らわせてやった。あまりに身軽すぎて、相手の動きが止まって見える。
──「これが試合なら全戦全勝だわ…」しかし悲しいかな、信枝に霊力が無い限り狡狗は倒せない。これでは永遠に決着がつかないと悟った信枝は、身の軽さを利用し、タイミングを見計らって走り去ろうと考えた。
──「あと二回…コイツがあと二回襲いかかって来たら逃げる」信枝はそう決めた。
狡狗が信枝の首を捕まえに来た。「まず一回…」襲いかかる狡狗の腕を払うと、軽く顔面に裏拳を当てた。
──「次に仕掛けてきたら──────来た!」狡狗が伸ばしてきたその腕を払い、信枝は拳に全神経を集中させて渾身の一撃を見舞ってやった。ところがその一撃で狡狗の頭が消えて無くなり、そのまま前のめりに倒れて動かなくなった。
「えっ!?今の一撃そんなにきいた…?」たとえ力を込めたとはいえ、物理攻撃の効かない相手が、一発の拳で瞬時に倒れたのだから驚くのも無理はない。訳が分からず立ちつくしていると、いきなり信枝の背後から誰かが話しかけてきた。
「あたいがお節介をいたしました」驚いて振り返った信枝の足下には、なんと一匹の狛犬がいた。
「いし…?いや…いしとは違う…」よく見るといしより顔つきが色っぽい。何より声色が女…いや雌の声だった。
「狛犬さんよね…?」。「はい…」
「あんたが狡狗をやっつけたの?」。「はい……」
「あんた強いんだね?」。「はい………」
「…〝はい〟ばっかりだね?」。「はい…………」
「………。どうして私を助けてくれたの?」
「あたいはずっと悩んでいました…。どうしてこんな国に生まれたのか…どうして狛犬は狡狗の奴隷なのかと…。先ほどもそう思いながら彷徨っておりましたら、あろうことか牡の狛犬が人間のあなた様と親しくお話しされているではありませんか…。古より狛犬は人間の守護神として仕えていると耳にしてはおりましたが、実際に人間と狛犬が親しげにしている姿を目の当たりにした瞬間、あたいの中に稲妻が走りました。そして気がついたら…あたいはあなた様の後を追いかけていたのです…」
「狛犬さん達も、何かとご苦労があるのね…」
「…。あなた様を助けたのは、あたいをここから連れ出してほしかったからです。どうぞこの国からあたいを逃がしてください!このとおり……後生ですから!」狛犬は行儀よくおすわりして大きな頭を垂らしたままだ。信枝は自分の独断で狛犬を連れ出して良いものかどうか判断に困った。かといってここまで縋ってくる狛犬を放ってはおけない。考えていても先に進めないと思った信枝は、思いの内をそのまま言葉にした。
「分かった。助けてくれたお礼に連れ出すことを約束するわ。でもその前に…私は今から大事なお方を助けなければならないの。その方を無事助け出したら一緒にこの国を出ましょう!」
「ありがとうございます!」狛犬は尻尾を大きくピンピンと振りながら、信枝の足もとを駆けずり回った。
「そうと決まったらのんびりはしていられないわ──行きましょう!」
「はい!」信枝と狛犬は錫雅尊の待つ牢へと急ぐのだった。
「そういえば、あんた名前は?」走る速度を緩めることなく信枝は狛犬に尋ねた。
「あたいは奴隷です…名前なんてありません」
「ふうん…奴隷は名前がないのか…。じゃぁ当面は狛犬Bね…」
「…………?」




