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第二十章──決断Ⅰ

決断(けつだん)──Ⅰ

 

 


     Ⅰ

 

いしは錫の(ねむ)っている枕元(まくらもと)の前に()したまま涙をこぼしていた──。

「ご主人様…もしこのまま(しばら)く待って戻られぬ時は、やはりいしはお(むか)えに参りますけん…」錫に残された(わず)かな霊気が徐々(じょじょ)(うしな)われてゆくのをただ(だま)って見守るしかできないいしは、心痛(しんつう)(むね)()()けそうだった。

「いし…」

「はい、ご主人様…………えっ!?」(あた)りを見渡(みわた)したが空耳(そらみみ)のようだった。いしは(ふたた)び錫の枕元に伏した。

「いし……」

「えっ!?…ご主人様…お帰りになられたのですか?」眠っている錫が間もなく目を()ますのかもしれない。高ぶった気持ちで錫の顔を見つめていたが、その気配はなかった。錫を気にするあまりの幻聴(げんちょう)だろうと、いしはがっかりしてまた枕元に伏した。

「私よ…。この声がお前に(とど)いていたら、一度だけ私に強い念を送り返して…」

「念だ!ご主人様は念をわたくしに送っているんだ」いしはすぐに力の限り強い念を錫に送り返した。その念が錫に届いたのだろう──(しばら)くすると錫から返事が返ってきた。

「いし、これから言うことをよく聞いてちょうだい…」。

「はい、ご主人様!」いしは力強く返事をすると、錫の言葉に耳を(かたむ)けた。

軒下(のきした)()(もの)の場所には本物が一本。()ぎたがりの女に(かわ)()かせたら、一緒に鳥かごまで届けておくれ。だけど下僕(しもべ)()けて口の中に入らないと女が鳥かごまで近づけない…。(たの)んだわ」

──「…これは(まん)(いち)狡狗に聞かれた時のことを考えて配慮(はいりょ)されたメッセージだ」いしは考える()()しむように家の(うら)軒下(のきした)へと(いそ)いだ。軒下には()()がった二本の(ひも)が、一㍍半ほどの(ほそ)(ぼう)両端(りょうはし)(ささ)えている。そこにはネットに入れたまま(つる)されたタマネギや、数本を一纏(ひとまと)めにして葉っぱごと紐で(たば)ねた大根(だいこん)が棒に引っ掛けてあった。いしは行儀(ぎょうぎ)()く〝おすわり〟すると、錫から送られてきたメッセージの意味を()き始めた。

「軒下の干し物の場所………ここだな…。()()()()()だけ…。今あるのは大根とタマネギ…タマネギなら〝一個〟と数える──ということは…。そして脱ぎたがりの女に皮を剥かせる………か…。鳥かごとはおそらく(ろう)のこと…下僕はこのわたくしだ…。化けて口の中に入らないと……近づ…け…ない………か…」それきりいしは口を(つぐ)んだが、ものの一分も()たないうちに小声でポツリと(つぶや)いた。「ふむ…そうか!」尻尾(しっぽ)をくるりと立て、(おもむろ)に立ち上がると(りん)として(さけ)んだ。「ご主人様、いしはすぐに行きますけん!」




     Ⅱ


常生拳(じょうせいけん)空手道(からてどう)本部(ほんぶ)道場(どうじょう)では、少年(しょうねん)拳士(けんし)たちが元気に稽古(けいこ)()最中(さいちゅう)だ。もっとも少年拳士の3割は女の子で、どっこい男の子に引けを取らない(たくま)しさで稽古に(はげ)んでいる。

道場の広さは(たたみ)にして百畳(ひゃくじょう)はありそうだ。床板(ゆかいた)はもちろんのこと、壁板(かべいた)の一枚一枚、柱の一本一本まで丁寧(ていねい)(みが)かれていて、ワックスが()られたように黒光(くろびか)りしている。道場の上座(かみざ)には(とこ)()があり、そこには『鍛錬(たんれん)』と力強く書かれた()(じく)が掛けてあった。

その床の間を()にして、背中に定規(じょうぎ)を当てたように背筋(せすじ)()ばして正座(せいざ)をし、(だま)って稽古を見届(みとど)けているのが、この道場の総師範(そうしはん)段乃(だんの)原正立(はらせいりゅう)〟だ。

彼は高校時代まで趣味(しゅみ)読書(どくしょ)という物静(ものしず)かな青年(せいねん)だった。将来(しょうらい)は自分の手で沖縄(おきなわ)守護(しゅご)(しん)〝シーサー〟を作ってみたいと、沖縄の芸術大学陶芸科に進んだ正立は、下宿(げしゅく)をしながら勉学(べんがく)(はげ)(かたわ)ら、思い切って空手部に入部したのだった。最初は本場沖縄の空手を体験してみたいという軽い気持ちだったが、なんと彼は一年も()たぬ(あいだ)有段者(ゆうだんしゃ)先輩(せんぱい)(たち)全員(ぜんいん)(たお)してしまうほどの強さになっていた。

もちろん陶芸も学んだが、それ以上に大学の四年間で沖縄に伝わる古流派(こりゅうは)少林流(しょうりんりゅう)空手(からて)を学び、すっかり魅了(みりょう)された正立は、就職(しゅうしょく)活動(かつどう)もせず、空手バカのまま大学を卒業すると、その後三年間は武者(むしゃ)修行(しゅぎょう)に回り、故郷(こきょう)に帰ると〝常生拳(じょうせいけん)〟という流派(りゅうは)で空手道場を開いた。

常生拳は(みずか)らが(まな)んだ少林流空手を基本(きほん)にしているが、彼は今の(すさ)んだ時代を武道(ぶどう)によって正したいと精神面にも力を(そそ)いだ。

道場を開いて最初の二年間は入門者(にゅうもんしゃ)も少なく、学生時代から付き合っていた今の妻と結婚したものの、その妻に(やしな)ってもらうような貧困(ひんこん)生活(せいかつ)だった。〝このご時世(じせい)にそんな辛気臭(しんきくさ)いことは流行(はや)らないから()めておけ〟と、正立の師匠(ししょう)助言(じょげん)したが、彼は〝(みずか)らが正しい道を(あゆ)めば、その後を歩む人間も(おの)ずと正しい道を歩む〟と自分の信念(しんねん)()げなかった。

結果──道場を開いて三年が()った(ころ)から〝今の時代に負けないような強い精神力を身に付けたい〟とやって来る入門者が増えだした。その中から師範(しはん)となって道場を開こうとする(たの)もしい弟子(でし)(たち)(あらわ)れ、やがて常生拳はフランス、ブラジルといった国外(こくがい)にも広まった。今では年に一度、常生拳空手道大会が代々美(よよみ)体育館で開催(かいさい)されるほど大きな組織(そしき)になっていた。


「よし、()()やめ。これから(かた)の稽古をする。師範代(しはんだい)に一度模範演武(もはんえんぶ)をさせるからしっかり見ておくように」

「オスッ!」少年達の気合(きあ)いの入った声が広い道場に(ひび)(わた)る。

黒い(おび)()めた師範代が道場の真ん中に立つと、早速(さっそく)演武が始まった。型は基本的(きほんてき)に一人で行うのだが、様々(さまざま)種類(しゅるい)()き、()り、受けを取り()ぜながら、(あたか)も相手と戦っていることを想定(そうてい)しながら演武する。師範代の(いっ)挙動(きょどう)一挙動の見事な動作(どうさ)に少年達は釘付(くぎづ)けだ。突きや蹴りを決めた瞬間に生じる〝バサッ〟という空手着の切れの良い音は、まだ初心者(しょしんしゃ)の拳士にとっては、それだけでも(あこが)れなのだ。

演武を終えた時、注目(ちゅうもく)すべきはその足下(あしもと)だ。始まりと同じ位置(いち)に立っていることが(もと)められる。だがこれがなかなか至難(しなん)(わざ)だ。師範代は型を始めた時に立っていた位置と全く同じ位置で型を終えると、軽く息を(ととの)えて少年拳士達に言った。

「さぁ、みんな始めなさい!分からなかったら私を呼んでいいからね」

「オスッ!」師範代の見事な模範演武に見とれていた少年拳士達は、(われ)(かえ)って元気に返事をすると一斉(いっせい)に稽古を始めた。同時に床板(ゆかいた)が〝ドドドンドドドン〟と低音(ていおん)()(ひび)く。まるで足で(かな)でる和太鼓(わだいこ)のようだ。


「もしもし…もしもし…」背後(はいご)から早くも誰かが声をかけた。それにしても子供らしくない呼び方だと、師範代は変に感じながら振り向いた。

「今私を呼んだのは誰?」けれども少年達は誰も返事をしなかった。

「もしもし…もしもし…」その声に、またも師範代は素早(すばや)く後ろを振り向いた。

「誰?誰が呼んでるの?」師範代が叫んでも少年達は知らん顔だ。

「もし…もしもし……」今度こそ間違いなく子供達の誰かがからかっているのだと確信(かくしん)した師範代は、後ろを振り返るなり少しくだけた口調(くちょう)で注意した。

「だーれ?練習中にふざけているのは?」

「わたくしです…いしです…いしですけん…」どうやら心の中で(ささや)かれていることに気づいた。

「いし?…いしってあの狛犬君…?」

「そうですよ…。あの狛犬のいしですけん」師範代こと栗原信枝は目を(かがや)かせた。

「…やっぱりあれは夢じゃなかったんだね!?錫雅様は実在(じつざい)のお方だったんだ」信枝にとって、そこが重要なポイントだ。

「信枝殿、わたくしの声が聞こえてくれただけでも助かりました」

「えぇ、姿は見えないけど、声は聞こえているわよ」

「それで充分(じゅうぶん)ですけん。…実は信枝殿に助けて頂きたいのです」

「助ける?」

「はい。錫雅様の一大事(いちだいじ)なのです」それを聞いた途端(とたん)、信枝の目つきが(けわ)しくなった。

「錫雅様に何かあったの?」

「錫雅様は信枝殿にも取り憑いた(こう)()(つか)まりました。助け出すためには信枝殿の力を()りなけ…」信枝はいしの話を最後まで聞かず、総師範のもとへ()けて行った。

「総師範…急遽(きゅうきょ)大事な用ができました。稽古を抜けさせてください…」総師範は、黙ったまま(にら)むように信枝の顔を見た。「私が初めて好きになったお方の生死(せいし)(かか)わる大事件です」

「な…なんと…お前が…!?」総師範はそれまでの落ち着きを()いてしまいそうだったが、なんとか平常(へいじょう)(しん)(たも)った。「分かった…今回は特別に(ゆる)す…」

「ありがとうございます」信枝は一秒を()しむ(てい)で、きびすを返して走り出した。

「今度その男性を連れてきなさい」その言葉を背中で聞いた信枝は足を止め、振り向くことなく返事を返した。

「彼は()ずかしがり屋で人前に姿を見せたがらないの。だけどとっても強いわ…」その後すぐ顔だけ振り返ると、総師範の目を見て悪戯(いたずら)っぽく(ささや)いた。「お父さんよりも…」

 

    〇

    

信枝は物心(ものごころ)がつく頃から厳格(げんかく)な父に空手の指導(しどう)を受けて育てられた。

父の本名は栗原(くりはら)隆夫(たかお)といったが、常生拳の総師範としては今一(いまひと)つ力強さに()けるという理由から、その名を〝段乃(だんの)原正立(はらせいりゅう)〟と(あらた)めたのだった。

幼い頃の信枝はひたすら道場の雑巾(ぞうきん)がけと基本(きほん)鍛錬法(たんれんほう)の繰り返しだった。それを(いや)だと感じたことはなかったが、道場に(かよ)(なか)()と同じように、早く〝組み手〟や〝型〟の稽古をしたいと(うらや)ましく思ったことは何度もあった。八歳になって(ようや)(じっ)(せん)()()を許された信枝は、それまでの基礎鍛錬と雑巾がけの精神修行の賜物(たまもの)であろうか──どんどん頭角(とうかく)(あらわ)して強くなっていった。

信枝が男の子達を(たよ)りなく感じるようになったのはこの頃だ。男の子を嫌っていたわけではなかったが、少なくとも魅力(みりょく)を感じるような強い男の子が信枝の(まわ)りにはいなかった。


    〇


道場を出ると、信枝は着替(きが)える時間さえ()しんで何をすればよいかをいしに尋ねた。

「まずはご主人様の家に。私が案内しますので」信枝は黙って(うなず)くと、いしの声を頼りに目的の場所へと急いだ。


信枝が連れて来られた家は、あまりにも見覚(みおぼ)えのある家だった。

「ねぇ…ここってスンの家よ…」

「あの…じ、実は…」漫画であれば(あせ)をタラタラ流している絵が(えが)かれているところだ。「実は…錫雅様は…。そ、そうです…錫雅様は錫殿の守護(しゅご)(しん)なのですはい」いしはとりあえずその場を取り(つくろ)った。

「えっ!?錫雅様はスンの守護神?」

「そ、そうなのです…。ですから()()()()錫雅様は、自分が守護している錫殿の親友である信枝殿を助けようとしたわけです…」いしは上手(うま)(つじ)(つま)を合わせた。

「そうだったの。…とすると…スンの(そば)にはいつも錫雅様が…?」

「錫雅様もお(いそが)しいので付きっきりではありませんです…」錫雅尊の正体がバレなかっただけでもいしには(おん)の字だった。「信枝殿…家の裏手(うらて)に回ってください」信枝は言われるまま裏手に回った。

「信枝殿…ここに(つる)してある野菜をすべて下ろしてもらえますか?」

「お安いご用よ」信枝は言われるまま吊してあったタマネギと大根を下ろした。

「さて…本物は一本だけ。…信枝殿、お耳を…。今から話すことを万が一奴らに聞かれたらなりませんから…」信枝はいしの声のする方向へしっかり耳を(そばだ)てた。

「…うん、分かった。持って帰るのはその一本だけね?」

「そうです…。肉体のないわたくしには、形ある物は持てませんので…」

()()でいいのね!?じゃ、戻ろう!」信枝はいしから指示(しじ)された一本を手にすると、足早(あしばや)に自分の家へと急いだ。

 

信枝の部屋は二十歳前の女性の部屋とは思えないほど(かざ)りっ()がなかった。部屋の(つく)りが純和風(じんわふう)なのは仕方ないにしても、ぬいぐるみやアイドルのポスター、鏡台(きょうだい)化粧(けしょう)道具(どうぐ)もこの部屋には見当たらない。その代わりと言ったらおかしいが、空手道大会で手にしたトロフィーや賞状(しょうじょう)所狭(ところせま)しと並べてあった。

畳敷(たたみじ)きの信枝の部屋は(ちり)一つ落ちていない。部屋の(すみ)に置いてある一組の布団(ふとん)は、(かど)をきちんと(そろ)えてたたんであった。これだけでも信枝の生活ぶりを垣間(かいま)見ることができる。


部屋に入って早々(そうそう)、信枝は錫雅尊を助けるために何をすればよいのかをいしに尋ねた。

いしが次にしなければならない事は決まっている。

──「脱ぎたがりの女に皮を()かせる…か…。ご主人様は(すご)表現(ひょうげん)をされたものだ」

「信枝殿は自由に幽体(ゆうたい)離脱(りだつ)ができますよね?」

「うん。錫雅様にお会いしたい一心(いっしん)で何度も(ため)して(おぼ)えた(わざ)よ」

「では今すぐに離脱してください。けれど先ほどご主人様の家から持って帰った()()を手に握ったまま離脱しなければ意味がないのです」

「コレを手に持って幽体離脱すればいいのね?」

「はい。そうすれば信枝殿の離脱と一緒に身についている物はすべて抜け出ます」

──「ご主人様は離脱を(こころ)み続けた信枝殿を〝脱ぎたがりの女〟と(たと)えた。さらに中身を抜き取ることを〝皮を剥かせる〟と表現された…。お見事ですけん…ご主人様」

信枝は部屋の真ん中で仰向(あおむ)けに横たわって目を閉じた。それから(ふた)呼吸ほど間を置いて、上半身だけをゆっくり起こした。言うまでもなく起きあがったのは信枝の魂だけだ。

「あっ、今度は見えるわよ。改めてお久しぶり…狛犬君」

「こ、これはどうもですはい」姿を見られてテレるいしだった。

「信枝殿…ここまでは順調(じゅんちょう)です。これからが大変なのですが、時間が()しいので道中お伝えします。とにかくわたくしの背中にお乗りください」いしがそう言うと、なぜだか信枝は目を輝かせていしの背に乗った。いしは鬼門(きもん)の方向を目指(めざ)して()け出した。

「君の背中に乗せてもらえて感激(かんげき)だわ!」信枝に喜んでもらえて気を良くしたいしは、足の運びがいきなり軽くなった。「だってこの背中は錫雅様もお乗りになるんでしょ!?」

──「そっちでしたか…」失速(しっそく)しそうになった。


「信枝殿…今向かっているのは狡狗の()拗隠(よういん)の国です。向こうへ着いて大きな岩山の(ふもと)までは(がい)はありませんが、いったん岩山を登り始めると、奴らの強さは格段(かくだん)に違ってきます」

「それで…私はどうすればいい?」信枝はいしの説明に(おく)することなく尋ねた。

「信枝殿が岩山を登る前に、まずわたくしが先陣(せんじん)をきります。狡狗どもが居なくなったのを見計(みはか)らってから、信枝殿は一気に岩山を登ってください。(しばら)くすると道が二つに分かれておりますから、そこを必ず左に進んでください。(さら)に奥へと参りますと牢が二つ見えてきます。その牢に錫雅様が…ご主人様が(とら)われています。ご主人様とお会いできましたら、その後はご主人様の指示(しじ)(したが)ってくださいませ…」

「分かった!必ず錫雅様をお助けするわ!」信枝は力強く(こた)えた。

──「鳥かご…つまり牢だ。あそこまで目的の物を届けるのは至難(しなん)(わざ)だ。ですがご主人様…もうすぐです……もうすぐ助けに行きますけん」



拗隠の国に到着(とうちゃく)した二人は、錫達が捕らえられている大きな岩山の麓で足を止めた。

「ここで一旦(いったん)お別れです。信枝殿…手はずどおりに…そしてどうぞご無事で…」

「えぇ…いしもね…。(かなら)ずみんなで再会(さいかい)しましょう!」いしは信枝の言葉に笑顔で(こた)えると、山を一気に登り始めた。

一度(ひとたび)山には入ると狡狗の強さは段違(だんちが)いだ。しかもいしの気配を感じ取った狡狗達が次々と追いかけてくる。

「もっともっと(たか)ってこい!」いしはわざと自分の霊力を高めて、右に左に()()けた。

──「岩山ではあちこちに蔓延(はびこ)る狡狗に邪魔(じゃま)されて信枝殿は牢に近づけない。だから下僕(しもべ)が化けて口の中に入る…ちょっと時間がかかったが(なぞ)(とけ)れば(かん)(たん)なことだった。化けるという字が口の中に入れば〝(おとり)〟となる。下僕であるわたくしが囮になれという意味だ…。囮となって狡狗の気を引いている(すき)に信枝殿を牢へ向かわせろ…それがこのメッセージの答えだ。そして…そうまでして信枝殿に(とど)けさせる代物(しろもの)……それは秘宝以外には考えられない。ご主人様はとうとう見つけなさったんだ。絶対絶対失敗は許されん」



信枝は岩山を走り出した。いしのおかげで狡狗の姿(すがた)はない。信枝はひたすら走った。坂道(さかみち)なのに息が切れない。重力(じゅうりょく)も感じないので延々(えんえん)と走ることができそうだった。

やがていしの説明どおり別れ道に差しかかった。「ここを左ね…」指示(しじ)どおり左に進むと、先に一体の狡狗が寝そべっていた。どこの世界にも怠慢(たいまん)な奴はいるものだ。だが信枝に選択(せんたく)余地(よち)はない。ここしか通る道はないのだ。性格上コソコソ通ることをしたくない信枝は、狡狗を()けることなく、逆に(にら)みつけながら道の真ん中を進んだ。狡狗も信枝の気配を感じ取り、道の真ん中で仁王立(におうだ)ちになって信枝の行く手を(はば)んだ。信枝は狡狗との間合いを充分に(たも)ってその(あゆ)みを止めた。

「ここを通してくれない…?」月並(つきな)みな言葉しか出てこない。

「たかが狛犬一匹を追いかけても仕方(しかた)ないから休んでいたのに…」

「私を通すの…?通さないの…?」

「あ~…違う場所で休めば良かったなぁ…」狡狗は面倒臭(めんどうくさ)そうに(つぶや)いた。

「話が()み合わないわね…。勝手に通るわよ」信枝は、狡狗を無視(むし)して道の(はし)を通りかけた。

「バカ…誰が通すと言った…?」

「あんたが私の質問に答えないから行こうとしたんでしょ」

(なま)意気(いき)な女だ…。まぁいい…オレ様が不味(まず)そうなお前の霊気を吸い取ってやる…」狡狗は黒い毛で(おお)われた太い両腕(りょううで)を信枝の首に()ばしてきた。信枝は素早(すばや)く左に体を(かわ)しつつ、右掛(みぎか)()()けで狡狗の手を流すように払うと同時に、左手で顔面に正拳(せいけん)をお見舞(みま)いしてやった。狡狗は一瞬(ひる)んだもののダメージはなさそうだった。

「バカな奴だ。霊力のない打撃(だげき)などオレ様には通用しない。少しばかり動きを止められるだけだ…ククッ」信枝は苦々(にがにが)しく思ったが、どうすることもできなかった。 

執拗(しつよう)な狡狗の攻撃はなおも続いた。信枝はその(たび)にさらりと体を躱し、二~三発当()()を食らわせてやった。あまりに身軽(みがる)すぎて、相手の動きが止まって見える。

──「これが試合なら全戦(ぜんせん)全勝(ぜんしょう)だわ…」しかし悲しいかな、信枝に霊力が無い限り狡狗は(たお)せない。これでは永遠(えいえん)決着(けっちゃく)がつかないと(さと)った信枝は、身の軽さを利用し、タイミングを見計(みはか)らって走り()ろうと考えた。

──「あと二回…コイツがあと二回襲いかかって来たら逃げる」信枝はそう決めた。

狡狗が信枝の首を捕まえに来た。「まず一回…」襲いかかる狡狗の腕を払うと、軽く顔面に(うら)(けん)を当てた。

──「次に仕掛(しか)けてきたら──────来た!」狡狗が伸ばしてきたその腕を払い、信枝は(こぶし)全神経(ぜんしんけい)集中(しゅうちゅう)させて渾身(こんしん)一撃(いちげき)見舞(みま)ってやった。ところがその一撃で狡狗の頭が消えて無くなり、そのまま前のめりに倒れて動かなくなった。

「えっ!?今の一撃そんなにきいた…?」たとえ力を込めたとはいえ、物理(ぶつり)攻撃(こうげき)()かない相手(あいて)が、一発の(こぶし)瞬時(しゅんじ)に倒れたのだから驚くのも無理はない。(わけ)()からず立ちつくしていると、いきなり信枝の背後(はいご)から誰かが話しかけてきた。

()()()がお節介(せっかい)をいたしました」驚いて振り返った信枝の足下(あしもと)には、なんと一匹の狛犬がいた。

「いし…?いや…いしとは違う…」よく見るといしより顔つきが()()()()。何より声色(こわいろ)が女…いや(めす)の声だった。

「狛犬さんよね…?」。「はい…」

「あんたが狡狗をやっつけたの?」。「はい……」

「あんた強いんだね?」。「はい………」

「…〝はい〟ばっかりだね?」。「はい…………」

「………。どうして私を助けてくれたの?」

「あたいはずっと(なや)んでいました…。どうしてこんな国に生まれたのか…どうして狛犬は狡狗の奴隷(どれい)なのかと…。先ほどもそう思いながら彷徨(さまよ)っておりましたら、あろうことか(おす)の狛犬が人間のあなた様と(した)しくお話しされているではありませんか…。(いにしえ)より狛犬は人間の守護(しゅご)(しん)として(つか)えていると耳にしてはおりましたが、実際(じっさい)に人間と狛犬が親しげにしている姿を()の当たりにした瞬間、あたいの中に稲妻(いなずま)が走りました。そして気がついたら…あたいはあなた様の後を追いかけていたのです…」

「狛犬さん達も、何かとご苦労があるのね…」

「…。あなた様を助けたのは、あたいをここから連れ出してほしかったからです。どうぞこの国からあたいを逃がしてください!このとおり……後生(ごしょう)ですから!」狛犬は行儀(ぎょうぎ)よくおすわりして大きな(こうべ)()らしたままだ。信枝は自分の独断(どくだん)で狛犬を連れ出して良いものかどうか判断(はんだん)(こま)った。かといってここまで(すが)ってくる狛犬を放ってはおけない。考えていても先に進めないと思った信枝は、思いの(うち)をそのまま言葉にした。

「分かった。助けてくれたお礼に連れ出すことを約束(やくそく)するわ。でもその前に…私は今から大事なお方を助けなければならないの。その方を無事助け出したら一緒にこの国を出ましょう!」

「ありがとうございます!」狛犬は尻尾を大きくピンピンと振りながら、信枝の足もとを駆けずり回った。

「そうと決まったらのんびりはしていられないわ──行きましょう!」

「はい!」信枝と狛犬は錫雅尊の待つ牢へと急ぐのだった。


「そういえば、あんた名前は?」走る速度を(ゆる)めることなく信枝は狛犬に尋ねた。

「あたいは奴隷です…名前なんてありません」

「ふうん…奴隷は名前がないのか…。じゃぁ当面(とうめん)は狛犬Bね…」

「…………?」


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