第十五章──再会
再会
Ⅰ
「お前もここに来て三日だな」錫雅尊は草むらに寝ころんで狛犬に話しかけた。
「はい、おかげでこのとおり…。あなた様は恩人ですけん」狛犬は錫雅尊の横にちょこんと座っていた。
「私は弱い者がいたぶられるのを見ていられないだけだ…」寝ころんだまま、今度は流れる雲を目で追いかけながらそう答えた。
「わたくしはこれほどまで親切にしてもらったことがありません…」
「当たり前のことをしただけだ。お前達狛犬が狡狗であり、しかも奴隷だと知った時は驚いたがな…」
「わたくしの祖国〝拗隠の国〟の狛犬はすべて奴隷です。この国で生き残った狛犬達はそのことを口にしたくなかったのでしょう…」
はるか昔──拗隠の国と白の国に抜け穴ができた。それがもとで両国に争いが生じた。この戦いで狡狗は狛犬達を捨て駒として使ったのだった。いつしかその抜け穴は理由の分からぬまま閉ざされ、戦いは終息した。
「今も白の国にいる狛犬達は、その時の生き残りということか…」
「そうです。もともと拗隠の国では二本足の狡狗が高等種として用いられ、わたくしたち狛犬は同じ狡狗でも奴隷として蔑まされてきたのです」
「同じ魂なのに………奴隷とは酷い扱いよな…」
「…それが狛犬の宿命ですけん。ですがこんな身分のわたくしを助けてくだされた貴方様のことは決して忘れませんけん」
「……ふっ…。それで、これからどうするつもりだ?」
「わたくしは陰湿でずる賢いとされている狡狗種…その中でも身分の卑しい狛族です。どこかでひっそりと邪魔にならぬよう暮らしてまいります」
「ならば私のもとで暮らせ」
「貴方様の…?いいえなりません。わたくしのような奴隷が側にいるだけで貴方様は穢れてしまいますけん」
「お前は自分が穢れた存在だと?お前の素性がなんだって構わんではないか…お前はお前だ。これからは私と共に白の国を守るのだ」
「わたくしが…?この白の国を守る?」
「そうだ!私とこの国を守る手助けをしてくれ」
「貴方様はそのようにわたくしを…。ありがとうございます!ならば…これからは貴方様に従います。どうぞ下僕としてお使いくださいませ…ご主人様」
「下僕などではない…家来になってくれればよい」
「いいえ…勿体ないことです。わたくしを下僕としてお使いください」
「私はそういうのは苦手なのだ…」
「お側に置いてもらうのですから、それだけは譲れませんけん…」
「子供のくせに頑固な狛犬だ…気に入ったぞ!」錫雅尊は体を起こすと、左の手で狛犬の頭から背中にかけてゆっくりと撫でてやった。
「そうだ、お前の名前を決めてやらねばならんな──どんな名がよいかな…?そうだ!石のように頑固で堅物な狛犬だから〝いし〟というのはどうだ?」
「〝いし〟…………ですか!?」狛犬の目は潤んでいた。
「気に入らぬか?」
「そうではありません。わたくしたち狛犬は名前も持てぬ狡狗の奴隷です。そんなわたくしに…そんなわたくしに…」
「分かった………分かったからもう泣くな…」
「はい…。今はわたくしまだ子供ですが、じき体が大きくなりますれば、ご主人様を背に乗せて走ることができましょう。その時が参りましたら、このわたくしめを思う存分お使いくださいませ!」
「それは楽しみよな。その日を心待ちにしておくぞ…いし」
「は、はい!」初めて名前を呼んでもらって、いしは胸が熱くなった。
「ご主人様…?」。「ん…なんだ〝いし〟?」
「な、なんでもないですけん…」いしはわざと名前を呼んでもらい、照れながらゴロゴロと転がってじゃれ回った。
「おかしな奴だ…」錫雅尊は目を細めていしの姿を見守るのだった──。
Ⅱ
「浩子…どうして私のおじいちゃんは三輪山に来たの?それに狡狗から得たとんでもない情報って何?」
「うん…。一つ一つ説明してあげたいけど、もう白の国に着きそうなの…。白の国に入れば信枝も目を覚ますでしょうしね…」
「信枝は大丈夫なの?」
「えぇ。肉体と魂が別れただけ…今は元気のない信枝の魂も、白の国の霊気を取り入れれば元気になるでしょう。一番恐いのは…〝無〟になること…」
「〝無〟?………無になる?」
「そう。所謂幽霊とは、肉体を無くした魂が人前に現れることよ…。けれども無は違うわ。魂そのものが消滅するの…」錫は〝無〟に陥ることを想像することすら恐かった。
間もなく白龍は、人間界と白の国との境目である大きな川にさしかかった。その川を渡りきると真っ白な空間へと景色が変わった。
「あの日私が行った白い世界はここね?」
「えぇ。白の国は文字どおり白一色の平和な国よ。けれども白の国には秘密があるの。仮想することによって空間を造り出し、好きな物を映し出せるのよ。山も海も草原も、それを造り出すのは創造主にあるわ。例えばスンは海辺で私と日光浴をしながら──私は小さな部屋で静かにお茶を飲みながらお互い話をする…そんなことが可能なの」
「ひゃ~!そんなことができるの…?それで?」錫はもっと話を聞きたかったが、白龍がゆっくりと速度を落とし始めたので、浩子は話を変えた。
「スン、一つだけお願いしとくわね。信枝が目を覚ましても私たちの正体を明かさないで。説明するのに一苦労だし、何よりこの子に余計な知識を注いで憑物に狙われるのが可哀想だから…」
「分かったけど、この姿じゃバレバレでしょう?」
「そうでもないわ…」そういうと、錫の目の前でみるみる浩子の姿が変わっていった。透きとおるような白い素肌に、優しそうだがきりりと引き締まった顔立ち。淡い青色の羽衣を全身に纏い、艶やかな長い黒髪は風に揺れてサラサラと靡いているように見える。体の線は羽衣の上からでも、そのしなやかさが想像できそうだ。〝きゅっ〟と引き締まった足首は同じ女性の錫でも魅力を感じるほどで、形の良い素足は爪先から踵までとても白く柔らかそうだった。
「そ、それが本来の姿?」智信枝栄はこっくりと頷いた。錫があまりの美貌に見蕩れていると、いしがハッと大きく目を開けた。
「貴女様なら存じております。時折ご主人様を訪れて、わたくしの頭を撫でてくださったお方ですね?」智信枝栄はいしを包み込むような笑顔で微笑んだ。
「天女みたい…とっても綺麗…」。「あら…スンだって凛々しいわよ…ふふっ」
「えっ!?」錫は自分の体を見回した。「あっ!これは…?」それは錫が初めてこの国に来た時に見た自分自身だった。
「………この姿…この牛若丸擬き…………錫雅尊?」
「ご主人さま…そのお姿…お懐かしゅうございます…」いしは感極まって泣いた。
「大げさね、いしは…。でもなんでこの姿になっちゃったの?」
「意識しなければ白の国では錫雅尊、人間界では錫の姿になるのよ」
「へぇ~…でも、この姿もいいかも!結構モテたりしちゃって~」
「そんな冗談言ってる場合じゃ……ほら、信枝が目を覚ますわよ」今までピクリともしなかった信枝が、生気を取り戻したように動き出した。
「あっ、信枝気がついた!?」
「えっ!?…ここは…?あなた達は?」
「私だよ、ス…」。「ご主人様…」慌てていしが錫の言葉を遮った。
「あっ、ごめーん…もう忘れてた…」小声で謝りながら、後ろ頭をかいた。姿は錫雅尊だが、中身は錫のままだ。
「信枝様…落ち着いて聞いてください」智信枝栄は邪悪な霊に取り憑かれ、肉体から命を抜かれたことを信枝に説明した
「命を抜かれたって…死んじゃったってこと?」
「そうです…。ですが、一縷の望みをかけて生き返らせたいと思っています」
「じゃ…あなた達は幽霊?」
「ま、まあ…あながち間違いではありませんが、幽霊と言われると抵抗があります…。どうせなら霊体と言ってほしいのですが…」
「…なんにしても私は死んじゃったのね…?でも体が軽くてとってもいい気分…これでもいいかも」
「よくないわよ…絶対助けるわ!」話に割って入った錫に、信枝は怪訝な顔をした。
「……ご、ご主人様…今は姿も声も男ですけん…」いしが小声でまたこっそり錫に伝えた。錫はまたやってしまったという顔で頭をかいた。
「あぁ、すまぬ…そなたの気持ちをほぐしてやろうと思っただけだ」錫は苦し紛れにその場を繕った。
「あなたはどなたですか?」信枝は錫の顔から視線を外すことなく尋ねた。
「私は錫雅美妙王尊だ。錫雅と呼んでくれればいい」
「錫雅様…。で…そちらの方は…奥様?」信枝にはそんな風に映るのかと思うと、錫と智信枝栄は驚くよりも可笑しかった。
「ち、違うぞ…信枝殿!この者は智信枝栄之命……私の臣下だ」
「臣下…そうですかぁ…家来ですね!?うふっ…」臣下と聞いて微笑んだ信枝からは、なぜだかバラの花びらが舞い散りそうだった。
──「信枝の様子がなんだか変だなぁ…」それが何を意味するのか──錫はこれから付き纏う苦悩をまだ知る由もなかった。
「あら…天国には狛犬がいるのね?」信枝は別段驚くでもなく、いしの頭を撫でた。
「初めまして信枝殿…いしと申します」照れ屋のいしは、お手をして顔を赤らめた。
「ところで錫雅様、これからあるお方に会って頂きたいのです」
──「浩子は演技がうまいなぁ…。私はあんなに器用に切り替えられないわ…」
「ただそのお方が出払っていれば万事休すです…」
「万事休す…………それってつまり…」
「はい…信枝様は生き返りません…」
「そんなぁ…出払ってないことを祈るわ。……いやっ、…祈るぞ」
──「ややこしいなぁ…錫雅になりきるのは…」
「では参りましょう!どなたに会うかは道中お話しいたします」
Ⅲ
「景色が真っ白で変化がないから歩いていても退屈ね…いや、退屈だ。それで、誰に会うのよ?…いや、誰に会うのだ?」男口調に慣れない錫に、智信枝栄は笑いたいのを堪えて返答した。
「今からお会いする方は須勢理毘売様と申されるお方です」
「その名前知ってるわ…あ、いや…知ってるぞ!古事記に登場する女性だ…。もしかして領巾を貰いに?それを使って信枝殿を生き返らせるのか?」
「そのとおりです。よくお分かりになりましたね?」
「元はと言えば祖父が辞書を…………ん?…もしかして祖父は信枝殿が死ぬことも予測していたとか…?」
「それは考えられません…。錫雅様に領巾のことを教えようとした理由は分かりませんが、いくらあの方でも信枝様が死ぬことまでは予測できないかと…」二人のそんなやり取りなどどうでもよい体で、信枝はただじっと錫雅尊を見つめていたのだった。
Ⅳ
「もう少しで着きますよ」智信枝栄の言葉に一行がほっとした時だった。前方の宙に大きな穴が空き、そこから黒い陰が二体落ちてきた。
「あれはなんだ…?」錫が尋ねると、智信枝栄は抜け穴を通って白の国を乗っ取りに来た狡狗だと教えた。
「おっ!獲物第一号、しかも狛の奴隷付き。これは幸先良いなぁビビ」狡狗がギラギラした目を向けて近づいてきた。
「ほんにこれは儲けたなぁ…。こらお前ら、オレ達の餌食になれシーシー」
「お前達はヒとかハとか付けないと喋れんのか?」錫も徐々に男言葉に慣れてきたようだ。
「ナニ?生意気なヤツだ…。まずお前の霊気を全部吸い取ってやるシシシ」
「ご主人様、お気をつけて。あいつらのご馳走は恨み、妬み、そねみ、嫉妬などの悪しき心ですが、良心でもヒルの如く吸い取ろうとする奴らですけん…」
「ぶつぶつウルサイぞ」苛ついた一体の狡狗がいきなり錫に襲いかかってきた。咄嗟に斜め後ろに足を蹴った錫は五㍍は軽く宙に浮いた。
「なにこれ…?キャー…映画のワイヤーアクションみたい!」霊体となり身軽になった自分の跳躍力に驚き且つ感激だ。
「錫雅様、早く晶晶白露を!」智信枝栄の催促に、錫は宙に浮いたまま頷き、晶晶白露を出現させると一体の狡狗目がけて一直線に向かって行った。
「な、なんだ…熱いぞ…これは熱い…」狡狗が錫の一撃に気づいた時には、晶晶白露はもう胸に突き刺さってた。
「そのまま邪身玉に納まるがいい。さぁ次はお前だ!」言うが早いか錫はもう一体の狡狗に向き直り、たちまち間合いを詰めると、同じように晶晶白露を狡狗の胸に一刺しした。
「やめて…あつっ、あっつっ…」光を帯びた玉が狡狗を包み邪身玉になりつつある時、思いもよらぬ声が辺りにこだました。
「錫雅様カッコいいですぅ~~!私死んでも構いません…ずっとあなたのお側にいます~!」なんと信枝だった──。二人はその言葉に驚きを隠せない。
「男なんかに目もくれなかった信枝が…」智信枝栄が呟いた。「わ、私に恋したってこと…!?」錫が動揺した。「信枝殿はもう死んでおりますが…」ついでにいしも一言。
信枝が生まれて初めて恋をした相手────それは錫だった。
Ⅴ
狡狗を退治した一行が須勢理毘売に会うため再び歩を進めていた道中、錫は智信枝栄に邪身玉の行方について尋ねた。
「一度行き先を念じて邪身玉を放り上げれば、玉は自ら道を探してそこに向かいます。しかし、何も念じず放り上げれば、玉は天甦霊主様の住む神霊界に運ばれます。但し行き先が完全に封印されていれば、邪身玉は行き場を失い、いずれは無と化してしまうのです」
「邪身玉は宝玉だけに、扱える者はほとんどおりませんのですけん」
「じゃ、錫雅様はそれを扱える特別な方なのですね?さすが錫雅様!」たがの外れた信枝は、完全に恋する乙女丸出しだ。
「ねぇ浩子…クールな信枝はどこへ行ったの…?完全にキャラが変わってるんだけど…」錫がひそひそと智信枝栄に話しかけた。
「信枝は恋に免疫がないからスンに一途なのよ」
「やぁ~ん…よりによって初恋の相手がなんで私なの…しかも幽霊の…」
「モテますわね………錫雅さまは…うふふ」
「もう~っ…からかわないでっ!」錫は為す術もなく、ただ信枝の熱い視線を感じていた。
Ⅵ
それからどれくらい歩いただろう。智信枝栄は、ある一点を凝視し、そこを指さして錫に言った。
「錫雅様、ここからは、今私が指さしている方向にお一人でお進みください。幸い須勢理毘売様の強い気を感じます」
「一人で行くの?」。「あの方は複数で会うことを嫌いますから」
「わかった…」錫は素直に従い、言われたとおりの方向に歩き出した。信枝は切ない顔をしていたが、黙って見送るしかないと諦めた。
まるで雲の上を歩いているようだった。足下一面に広がる靄は、最初錫の踝の辺りまでだったが、歩くにつれてだんだん厚みが増していって膝の辺りまで深くなった。もう少し歩くと、靄の厚みが増しているのではなく、そこが緩やかな坂になっているのだと気づいた。地下鉄への入り口をゆっくり下りて行くような感覚でそのまま進んで行くと、やがて靄と目線とが一緒になり、更に進むと一面白一色のトンネルの通路が現れた。その五㍍ほど先には、これもまた靄でできた扉があった。錫は躊躇せずその靄の扉を通り抜けた。靄は八方に散りながら消えて無くなり、目の前にはとても広いドーム型の空間が一気に広がった。ちょうどプラネタリウムを思わせるようなその空間は、やはり一面が真っ白な靄でできている。中央には、雪国でお目にかかる〝かまくら〟よろしくお椀をひっくり返したような丸い小さな靄の造り物があり、人が出入りするぽっこりと空いた穴からは、ほんわかと優しい灯りが漏れていた。
錫はその灯りに誘われるように近づくと、中をそっと覗き込んでみた。物一つない部屋の奥に、女性が一人背を向けて座っているのが見える。錫の気配に気づいたその女性は、ゆっくりと後ろを振り返った。
目が合った瞬間、錫はそのまま吸い込まれるのではないかと思った。〝美しい〟などというありきたりの形容詞ではしっくりこない。
身に纏っているのは白を基調とした艶やかな薄手の絹衣で、裾に近くなるほど淡い水色が目立つ。その奥に透けて映る体のラインは、とてもしなやかで柔らかそうに見えた。
──「化粧っ気のない古風な顔立ちなのに、なんて綺麗なの…。きめ細かい白い肌、バランスの整った目鼻立ちもそれぞれが邪魔し合っていない。すべてに嫌みのない感じだわ。クレオパトラも楊貴妃も香神錫でも敵わない…。それに…見つめられるだけで癒されるようなこの感覚って…」
「あ、あの…須勢理毘売様………ですか?」恐る恐る尋ねてみた。黙ったまま頷いた須勢理毘売の顔に、ほんの少しだけ笑みが浮かんだように見えた。
「神話の世界の方が本当におられたのですね…ビックリしました…」
「神話のほとんどは脚色されています──ですが、実在の人物は多いですからね」物腰も静かで上品だ。悔しいけれど、自分には無いものがすべてが備わっている完璧な女性だと錫は感じた。
「…でもまさか本物にお会いできるなんて…」。「驚きましたか?」
「もちろんです」。「では…驚きついでにもう一つ」
「………?」。「錫…………久しぶりです」
「ひ、久しぶりって…!?私は知りませんけど──あ~っ!」錫はピンときた。「あなたも錫雅尊のお知り合いなんでしょ?」
「はい、もちろん錫雅様にはお世話になりました」
「やっぱり…そういうことね!…私きっとこっちの世界では顔が広いんだ」
「けれど、そういう意味の久しぶりではありません。私は錫に久しぶりと言ったのです…」須勢理毘売は悪戯っぽい目で錫を見た。
「錫って人間の私のこと?…あ~…また頭がおかしくなりそう…」錫は大きな目を左右にきょろきょろと動かしながら考えていたが、出てくる答えは同じだった。「ごめんなさい。何かの間違いだとしか考えつかないです」
「そうですか────ではこれならば分かりますか?」須勢理毘売は声色を変えて力強く叫んだ。「まだわからんのか!?このションベン臭い女が!」
「…………ぎょぇ~~~~っ!気障りのお婆さんっっ!?」錫は金魚のように口をパクパクさせて、その場にヘナヘナと座り込んだ。須勢理毘売は何事もなかったかのように声を元に戻して話しかけた。
「そう私です。きっとあなたは私を訪ねてここへ来ると思っておりました」
「そ、そうなの…?ほ、ほんとに?」錫は気の抜けた声で返答した。
「誰かが巻き込まれると思っていましたから…。この私のように…」
「私のようにって…それじゃ、やっぱりお婆さんは自殺じゃなくて殺されたのね?」
「いいえ、私は自殺したのです」
「またこれだ──頭から火を噴きそう…」錫はこんがらがって頭脳停止寸前だった。
須勢理毘売は錫を手招きして横に座らせると、琥珀色に光る綺麗なガラス玉を取り出した。
「これは高宮ハルの魂です」驚く錫に須勢理毘売は静かに語りだした。
〇
厳密に言えば須勢理毘売は気障りの婆に取り憑いていた存在だった。
何十年も前のこと──。拗隠の国の連中が白の国に押し寄せてきた。連中は須勢理毘売の持っている十種神宝〝領巾〟の匂いを嗅ぎつけ執拗に追いかけ始めた。錫雅尊は須勢理毘売を匿い、〝いし〟に護衛を託し、自らは狡狗退治に走り回っていたのだった。
「その話…いしから聞いたわ。匿ってた貴婦人って須勢理毘売様だっのね…」
「けれどそれも束の間、たちまち私は追い詰められたのです」
窮地に陥った須勢理毘売は二つの選択を強いられた。このままこの国を転々と逃げ回るか、それとも人間界に身を潜めるか、そのどちらかを──。
「それで人間界に行って気障りのお婆さんに取り憑いたってことね…」
須勢理毘売が気障りの婆、つまり高宮ハルに憑依したのには理由があった。彼女があまりにも純粋且つ強い霊力を持っていたからだ。中級程度の邪霊なら寄せつけない霊力を持っていた彼女は、隠れ蓑としては最適だった。
「ただ…」そこまで話して須勢理毘売は切なそうに目を伏せた。「ただ私は彼女にとても申しわけないことをしてしまったのです…」
「申しわけないこと?」言い辛そうな須勢理毘売に、錫は鸚鵡返しに聞き返した。
須勢理毘売が高宮ハルに憑依する時、彼女は火の道を渡るため、精神状態をかなり高揚させていた。そこへいきなり須勢理毘売が憑依したことで、彼女の精神は一時混乱をきたし、気を失ってしまったのだった。
「それでお婆さんは火の中に顔を突っ込み大火傷を負った…」
「そうです…。高宮ハルの人生を変えてしまったのは私なのです」
「でも…お婆さんの人生はそれ以前から波乱だったわよ」
「だからそこ私の不注意が高宮ハルをあそこまで歪めたのです…。波乱な人生であったからこそ…」須勢理毘売は辛そうに呟いた。「その後、私は彼女の奥深くに隠れ、絶対に表には出ませんでした。あなたが初めて高宮ハルを訪れた時も、私はじっとあなたを見ていただけだったのです」
「だから私がチャクラを開いてお婆さんを見ても、須勢理毘売様の姿が見えなかったのね…」
「しかしそれも結果としては凶と出たのです…。私は彼女の邪魔にならないように静かに隠れていたつもりだったのですが、それがあまりにも長すぎて、ほぼ同化した状態になってしまいました」
「それだと何がいけないの?」
「あなたが霊力を身につけてから、狡狗はあなたの霊気をずっと追いかけていたようです。秘宝の在処を探るために…」錫はそれを聞いただけでブルブルッと震えてしまった。
「あなたを追い詰めかけていた狡狗でしたが、高宮ハルとあなたが出会ったことで、鼻の利く狡狗の矛先が一旦私に向きました…領巾の匂いに気づいたのです。もともとこれも欲しがっていた代物でしたから、奴らは高宮ハルに身を潜めている私を狙ってきたのです。そしてもはやここまでと思った私は彼女の肉体を離れ、白の国に戻ろうとしたのですが──先ほど話したとおり、同化してしまっていて完全に抜け出せなくなっていたのです…」
「狡狗に捕まるってこと?」
「はい…。それを避けるために、私は苦渋の決断をせねばなりませんでした」
「それがお婆さんの自殺だったのね!?」錫は高宮ハルの自殺に漸く納得がいった。
「私は彼女から初めて主導権を握りました。そして自殺を図りここに戻ったのです」
「そういうカラクリだったのか…。お婆さんに限って自殺などあり得ないと思っていたの」
「要らぬ心配をかけましたね…」
「いいえ…。それよりやっぱりお婆さんの死には私が関係していたのね…。すごく責任を感じてしまう」
「そんなことを気にすることはありません。彼女は自分の人生を生き抜きました。それに…ここに帰ってきて漸く私と高宮ハルの魂が別れました」須勢理毘売はさっきの琥珀色の玉をもう一度錫の目の前に差し出した。玉の中はまるで小宇宙のようだった。ゆっくりと高宮ハルの魂が動いている。
「この魂がもう一度人間界を望むなら、幸多き人生を送れるよう天甦霊主様に願いを乞うつもりでこうして守っているのです」
「お婆さん…」目頭が熱くなって涙が出た。「あれ…体がないのに涙が出る…」
「あなたの思いがそうさせるのでしょう」そういう須勢理毘売ももらい泣きしていた。
錫は高宮ハルの魂が閉じ込められた玉を両手でさすり、それから静かに手を合わせて彼女の幸せを祈った。
「さて錫…あなたの目的は、私の持っている領巾でしょう?」
「あっ、そうだった。魂を抜かれた友人を生き返らせたくてここに来たの」
「そんなところでしょうね。ではこれを…」須勢理毘売は自分の首に巻いていた白い薄手のスカーフをゆっくりと外した。「これはあなたにあげましょう」
「えっ!?だってこれを守るために人間界に隠れたくらい大切な物でしょう?」
「それでももう私には必要ありません。あなたになら喜んで譲ります」
「でも…」
「いいから黙って受け取って。この領巾もその方が嬉しいのです」そこまで言われると、受け取らないわけにはいかない。
「じゃ…素直に頂きます」須勢理毘売から領巾を受け取った錫は、自分の首元にそっとまわしてみた。
「なんだか思っていたより現代風…」
「あなたのイメージに合わたのよ。十種神宝も、昔は文字通り十種類あったのですが、今はこの一つに纏まっているのです。最も大切なのは、この領巾を使うには呪文が必要だと言うことです」
「呪文?そんなものがあるの?」
「本当は〝ひふみの祓詞〟と言いますが、便宜上そういうことに。ふふ…」
「むずかしい呪文なの?」
「簡単です。〝一二三四五六七八九十 布留部 由良由良止 布留部〟たったこれだけ」
「むずかしいじゃん!──憶えられるかなぁ…」錫は何度も何度も呪文を反復した。
「忘れないで。領巾を振りながら、必ずその呪文を唱えるのです」
「はい!…須勢理毘売様、あのね…おじいちゃんがお婆さんにわざわざ領巾に導くための辞書を渡したということは、おじいちゃんはお婆さんに隠れていた須勢理毘売様の存在を知っていたということ?」
「えぇ、しかも領巾があなたの手に渡るよう、あんな手紙を残したのでしょう」
「あれはおじいちゃんの誘導作戦?」
「間違いないでしょう…。狡狗とて文字は読めますから、誰にも悟られぬよう領巾の存在を教えたかったのでしょう。それがあればいつか何かの役に立つと考えて……まさにこの度のように…」
「…これはもしもだけど…お婆さんが自殺してなかったらどうなっていたの?」
「遅かれ早かれ、いずれ高宮ハルはあなたに辞書を渡していたでしょう…香神虎の手紙と一緒に。やがてあなたは領巾に辿り着き、それが何を意味するのか知るために逆に高宮ハルを訪ねる。そうなったら…私が現れてあなたに領巾を渡したでしょうね…」
「そうか…おじいちゃんはそのパターンを考えていた気がする」
「私もそう思います。それにしてもあのお方はすごい方です。ご自分が死した後に十八歳になるあなたをどう導き、どう守るかを考えて、あらゆる所に布石を置いています。多少推測が外れることがあったにしても、結果は思惑どおり導き出されています…。大したお方です」錫はそう言われて誇らしかった。そしてここまで辿り着いたのは自分の力ではないと身に染みて感じるのだった。
「さぁ、もうお行きなさい錫」。「でももう少し聞きたいことが…」
「そのうち解ることもあるでしょう。あまりのんびりもしていられませんよ…」そう言って須勢理毘売は片手を軽く上げ、手の平をゆっくりと錫に向けて押し出した。すると錫の体は宙を舞い、ふと気づくとスロープを下りる前の場所に戻されていた。
「ここはたしか…」
「あっ、錫雅さまぁ~!」信枝が真っ先に駆け寄り錫にへばりついた。
──「あちゃー、さっそく…。ゴメンね信枝…気の毒だけど初恋は実らないよ…」信枝の乙女心に詫びを入れつつ錫はみんなに告げた。
「待たせたな。目的の物は手に入れた。長居は無用、戻るとしようか」
「お疲れ様でしたご主人様」いしが深々と頭を下げた。
「錫雅様、お帰りなさいませ」智信枝栄もほっとした表情で声をかけたのだった。




