第十四章──解ける糸
解ける糸
Ⅰ
白の国は争いのない穏やかな国だ。だからそこ、その平和を羨まみ欲しがる者が現れる。結果──平和のバランスが崩れるという奇妙な現象が生じる。
この国に住む魂は欲を持ってはいない。なまじ肉体があれば、暑さ寒さを感じ、病気にもなる。身体を自由に動かして遊ぶ楽しさも覚え、食も快楽も道楽も欲する。生きている人間は我が身の肉体を自由に扱っているようだが、結局肉体に縛られていることに気づかないでいる。やっと本当の解放を手に入れることができるのは、肉体から魂が抜け出た時──つまり死した時だ。
白の国で暮らすことを許されるのは、人生を正しく全うした魂に限る。彼らは自分のイメージどおりの空間や建物を造り出して暮らしている。もちろん実態はないので大きさに制限はない。何もかもが思うとおりなのだ。ゆえに欲に囚われることもなく争う要因もない。白の国はそういう世界なのだ。
ただし、魂には魂を苦しめる力が存在する──それこそが霊力だ。魂は霊力を以てのみ苦痛を感じる。聖霊師が悪霊に苦しみを与えるのは正にこれだ。
☆
「天甦霊主様…状況は少しずつ悪化しています。すみません…」
「そなた達のせいではありません…」
「今は我々だけで食い止めていますが、じきに限界がくるでしょう。せめて錫雅様がいてくだされば…」
「たしかに以前は錫雅達が食い止めましたが…今は留守。やはり根元を絶たない限り切りがありません…。すまないが今は攻めてくる奴らをなんとしても阻止しておくれ…」
「それしか方法がございませんか…?」
「交渉できれば良いのですが……残念ながら狕隠の国の奴らには…」
「仰るとおりです…」
「この白の国を人間界では天国と呼び、楽園とされています。そんな理想郷を奴らが欲しがるのは分かりますが…秩序あっての楽園。奴らがここを占領すればたちまち白の国はそのバランスを失い、崩壊するのは明らかです」
「はい。今のところ抜け穴があることに気づいている者も少ないようですから、できるだけ食い止めます」
「頼みましたよ。今後、奴らが攻め入る数は増す一途でしょう。しかし一縷の望みはあります。諦めずに祈りましょう」
Ⅱ
「コイツは…まさか…?」チャクラを開いて東田利馬を見た錫はゾッとした。
「はい…狡狗ですけん」いしがさらりと答えた。全身は獣のような黒い毛に覆われ、ギラギラと光る目は吸い込まれそうで気味が悪かった。錫にとっては通り魔より恐怖だ。
「あれ?君…とうとう本性を出しましたね?」
「ご主人様がチャクラを開いたことを言うとりますですけん」
「ちょうどいい。二人とも転落して邪魔者はいなくなりましたから、例のモノの在処を教えてもらいましょうか?」
「例のモノなんて知らないわよ」
「君は本当に賢くないですね…。トボけると為になりませんよ?」
「悪かったわね。どうせあんたは学者だから賢いんでしょうよ!」
「賢くないなら単刀直入にいきましょう…。タカラモノはどこだ?…ギギ」狡狗は東田利馬から主導権を握った。途端に霊力が大きくなるのを錫は感じた。
「あ~…これこれ。このしゃべり方…狡狗だわ。気持ちワル~イ」
「お気をつけて。コイツはご主人様が以前退治した奴より強いです」
「ほ~…狛か。オマエ達は人間にカワイがってもらえていいなぁ…ギギギ。同じ狡狗でもこんなに待遇がチガウのか」いしはピクリと顔を顰めた。
「…同じ狡狗?コイツ何を言ってるの?」
「ギッシシ…オマエ知らないのか?コイツは狡狗だ。しかもオレさま達と違って汚らしい奴らよ…」
「ご、ご主人様…」いしは何も言えずに黙って下を向いた。
「いしが狡狗ってどういうことなの?」
「ギヒヒ…コイツはオレさま達と同じ種ということだ。だがオレさま達二本足の狡狗と違って、コイツらは狛族という四本足の奴らだ。下等な奴らでオレさま達の国では奴隷の種族だ…ギギ」
「ご主人様…コイツの言うとおりですけん…。いしは…このいしは…」
「いしは黙ってて!」何時になく厳しい口調だった。錫に狡狗だと知られて嫌われたと思った。「ギヒヒ感じるぞ…狛からオレさまへの憎悪を感じる…これはウマそうな気だ。〝汚らわしい狛の憎悪〟これはゴチソウだぁ」狡狗の戯言を黙って聞いていた錫だったが、上目使いで睨んだまま吐き捨てるように言った。
「汚らわしいのはお前よ!────私といしはずっとずっと、ずぅ~~っと一緒に暮らしてきたの。…そう……私が生まれる前からずっと一緒にね。この子は奴隷でも下僕でもない。それ以上この子をバカにしたら私は絶対お前を許さない!」両手で握っていた杖が撓りそうなほど錫は怒りを顕わにした。
「ご、ご、ご主人さまぁ…こんないしを…こんな汚らわしいいしを…それほどまで…」
「あんたの素性なんて関係ないのよ。いしはいしなのよ」
「やっぱり…やっぱりご主人様です…あの時と…あの時と一緒ですけん」いしのその言葉がなんなのかは、当然錫には分からなかった。
「うるさい、オマエらうるさいぞ!早くタカラモノの場所を教えろ」
「だから本当に知らないってば」
「まだシラを切るのか…?オレさまは東田ほど甘くないぞ」
「あんたが東田に取り憑いて通り魔犯罪を繰り返していたの?」
「あっ?…チガウ。オレさまはコイツが黒心を持った通り魔だったから取り憑いてやったのだ。知識もあって格好の条件だったからな」
「じゃ、もともと通り魔だったってこと?…最悪だわ」またしても錫はこんな男に少しでも心を奪われそうになった自分に嫌悪した。
「オマエたちが受付した時に取り憑いた…タカラモノを奪うために」
「ご主人様、コイツはご主人様が秘宝を隠していると思い込んでいますけん。どんな手段を使ってでも秘宝を奪う気でいます」
「はぁ…?迷惑もいいところだわ…。ねぇ、いし…どうしよう?」いしは僅かな時間の中で自分に何かを問いかけた。やがて自らの問いに承服すると霊気を滾らせ始めた。
「ご主人様…わたくしが狡狗と戦いますけん!」
「いしが?…そりゃあんたの霊力は私よりもずっとスゴイけど…でも…」
「ご主人様…今は黙って戦わせてください。後生ですけん…」錫はいしの必死な願いに対して、首を縦に振るしかなかった。
「ありがとうございます!では狡狗を…東田を、どうにかしてこの斜面に突き落としてください。突き落としたらご主人様はお二人を助けに向かってください」
「うん…。でもホントにあんただけで大丈夫?」錫は気負いのあるいしに対して逆に不安を憶えた。
「わたくしは大丈夫ですけん…隙をみて早く東田を…」錫は黙って頷き、東田を正面にしてしゃがみ込むと、片方の靴ひもを結び直すふりをした。それから今度はもう片方の靴ひもを結ぶふりをして半歩前に出た。そうしながら東田の足下に体当たりをする間合いとタイミングを窺った。
「遅いぞハヤくしろ」
「…もう終わったわ────よっ!」錫は立ち上がりながら勢いよく東田に体をぶつけた。
「ナニ…ナニ…?」さすがの東田も不意を突かれバランスを失い後ろによろめいたが、そこに足場はない。東田は山の斜面を一直線に転がりながら落ちていった。宙に浮いたままのいしは、その後をすべるように追いかけた。
「ご主人様…こんないしを子供の時から可愛がってくださりありがとうございました。いしは幸せだったですけん。必ず必ず秘宝を見つけ出してください。願わくば…もう一度…もう一度ご主人様をこの背中に乗せて走りとうございました…」いしの言葉は錫の耳に届くことなく、三輪山の静穏な空気の中に虚しく吸い込まれていった──。
Ⅲ
錫は信枝と浩子が転がり落ちた場所から、斜面にお尻を付けながら慎重に下りていった。二人の安否を気にしながらも、いしのことが脳裏から離れない。
──「いしは大丈夫…私よりずっと強いもの…」そう自分に言い聞かせながら、落ち葉が岩を覆った斜面をさらに下るのだった。
急だった斜面がなだらかになると、錫は立ち上がって周囲を見渡し浩子を見つけ出した。息はしているが意識はない。
「浩子…浩子!…どうしよう、こんな山の中で…」
「浩子は心配ないよ。気を失っただけ」後ろから信枝がいきなり現れた。
「ビックリした~!…信枝大丈夫なの?」
「私は見てのとおり!…あんたここから下りてきたの?」
「そうよ、お尻を付けてゆっくりとね」
「スンの大きなお尻も意外なところで役に立つのね」
「なにそれ!?人が命がけで助けに来てあげたのにぃ」
「お生憎さま、私はスンに助けてもらわなくても大丈夫。それよりスン、この先にすごい場所を見つけたわ。ついて来て!」信枝に先導されて道の無い山中を少しばかり歩いた。
「ここよ…」信枝が足を止めて指さした先は、大人が中腰で入れるくらいの洞穴だった。入り口に注連縄が張ってあることを考えると、自然の洞穴を祠にしたようだ。「中は意外に広いのよ。さっ…入るわよ」錫は信枝の背中にピッタリと張りついて中に入っていった。
祠の中はそこそこ広かった。天井がかなり高いので余計に広く感じる。中央にはドラム缶ほどの大きな岩が、やはり例外なく二つに割れて転がっていた。
「ここでも神様を祀る儀式をしていたのかなぁ…?」
「そうかもね…。ねぇスン、ちょっと話があるの。その岩に腰掛けよう」信枝はなんの躊躇いもなく中央の岩に腰を下ろした。
「これも磐座でしょう?…罰が当たりませんように…」錫が恐る恐るもう一つの岩にお尻を置くと、信枝は落ち着いた口調で錫に話しかけた。
「スン、もういいよ。ホントのことを言っても…」
「なぁに、やぶから棒に…?」意味が分からず錫は怪訝な顔をした。
「あんたのことは分かってる。もう隠さなくてもいいのよ」
「信枝…なんか変よ…。だから何を言ってるの…?」
「私にはスンの霊気がよく分かってるってこと」その一言に錫は戸惑った。
「信枝!?…ち、ちょっと待って…頭の整理が…」。「スン、すべてを聞かせてちょうだい」
「すべてって…?」。「あんたの秘密…。宝物がどこにあるかってことも…」
「信枝…どうしてそのことを!?…いったいどうなってるの?」
「私はあんたの味方よ。とにかく今は時間がないの。私を信じて宝物のことを教えてほしいの…」錫はどうにかなりそうな頭を正常に戻そうと必死だった。
「信枝よね?あんたは私の知ってる信枝よね?」。「そうよ…だからちゃんと話して」
大きく深呼吸をして、錫はなんとか気持ちを落ち着かせた。「あ~…気が抜けちゃった…。やっぱり信枝のチャクラは伊達じゃなかったんだ──私の中で一つ謎が解けたわ。で…何から話せばいい?」
「そうね…結論から教えて。宝物の在処を知ってるんでしょう?」
「宝物って秘宝のことよね…?それがどこにあるかは知らないわ…。ただ秘宝については私のおじいちゃんが詳しかったみたい…」
「そうなの…?それで、おじいさんはどれくらい詳しいの?」錫がその質問に答えかけた時、祠の入り口から誰かが叫んだ。
「それ以上話してはなりません!」いつになく厳しい口調だったが、それが誰の声なのかはすぐに判断できた。
Ⅳ
三輪山の清閑な空気に包まれて、いしと──そして東田に取り憑いた狡狗は、互いに体をピクリとも動かすことなく対峙していた。
「ギギ…勝てもしない狛族が、なぜオレさまにタタカイを挑む?」。「勝てないと決まってはいない…」
「ギヒヒ…では勝てると思っているのか?あの女ではオレさまに勝てないと分かっているから、お前が犠牲になりに来たんじゃないのか?」
「どうでもいいだろう…そんなことは」。「図星だなぁギヒヒ!」
「ご主人様は秘宝の在処を知らない。執拗に追いかけるのはよせ」いしは体を微動だにもせず、いつでも飛びかかれる前傾姿勢のまま狡狗を睨みつけていた。
「奴隷のくせにうるさいぞ…。オレさまは阿仁邪様から、醜長様の欲しがっているタカラモノを探せと命令されているだけだ。それを探したらたんまり褒美をもらえるのよ」
「だったら褒美は諦めろ。ご主人様は何も知らない」
「ダマれ奴隷…気に食わんヤツだ。さぁ従え…オレさまには絶対に逆らえまい」狡狗は不敵な面構えでにニヤいている。
「従わない………従うものか…」
「ギギギ…どうかな?キサマ達狛族は、遥か昔からオレさま達狡狗の奴隷として飼われてきた卑しい四本足の獣型ではないか。最早それが狛族の本能と化して、オレさま達を主人として受け入れ跪くしかできないのだからなぁ、ギシシシ」
「ならばその本能に逆ってみせる」
「本能はお前の意思ではどうにもならん。試してやろう…さぁ従え。その攻撃的な構えをやめてそこに伏せろ」狡狗はどこからか鞭を取り出し軽く地面を叩いた。ほのかだが不気味に青白く光るその鞭はそれほど長くはない。「さあ、従うか?」
「……………」いしは無言を以って答えた。
「ふん…ではこれでどうだ」今度はいしに向かって鞭を振り上げた。短かった鞭は長さを変化させ、〝ビュビューン〟と唸りながら伸びてゆくと、いしの目の前で地面を叩いた。恐怖を煽るような冷たい音に、いしの体は強ばった。
「伏せろ狛め!向かってこれないだろう?それが本能だ…」狡狗の言うとおりだった。鞭を一振りされただけで、〝狡狗に従わねば〟と心が叫ぶのだった。
「どんなにオレさまに歯向かおうとしても、本能には勝てないギヒヒ…さぁ伏せろ」それでもいしは狡狗を睨んだまま構えていた。
「まだ分からんようだな…喰らえ!うすギタナイ奴隷めが」またしても鞭が唸りを挙げる。今度はいしの背中を直撃した。
「ぐっ…」狡狗は苦痛に耐えるいしを見て楽しんでいる。
「さぁ、言え。誰がご主人様だ?」もう一発──まるで牙を剥いて襲いかかる大蛇のようにいしを襲った。生身ならば肉が削げ、血が噴き出るに違いなかった。
「奴隷のくせに人間をかばってオレさまに盾突くからだギギ。もう分かっただろう?さぁ、誰がご主人様なんだ?」
「あ………あ………………あなた様…です…」
「ギッギッギッ…そうだ!やっと分かったようだな。キサマのような狛は、オレさまの言うことさえ聞いていればそれでいいのだ」
「はい…旦那様」いしは狡狗に従うことが悔しくてならなかった。だが、いしの心とは別に、本能という意思が心の奥底でいしを支配した。それは遠い遠い昔から、狡狗を主として迎え、どんなに蹂躙されようとも、絶対服従の忠誠心を持とうとする狛族に染みついた悲しい性だった。
Ⅴ
「いけません…それ以上話しては────スン」
「浩子…」まばたき一つせず、浩子はゆっくりと祠の奥へと入ってきた。錫は何が起きているのか理解できない。意識を失っていたはずの浩子が突然現れたかと思ったら、信枝との知り得ない話にいきなり割って入り錫に忠告しているのだから無理からぬ話だ。
「浩子…目を覚ましたのね?」信枝は錫とは違い冷静だった。
「大丈夫よ。始めから意識なんて失っていなかったもの…」いつになく浩子は突っ慳貪な態度だ。
「えっ!?浩子ってば…何を言ってるの?」錫は困惑するばかりだ。
「頭を打って一時的に混乱してるんだわ…」信枝は至って冷静だ。
「生憎だけど、私は混乱なんかしていないわ。スン、信枝の言うことを聞いてはなりません」
「私の言うことを聞くなってどういうことよ?」
「とぼけるのはやめなさい!」
──「おかしな展開になってきたなぁ…」錫はますます困惑した。
「うまく騙したつもりでも私には分かります。本性を現しなさい憑物」
「ぐぇっ…憑物って!?」
「スン、信枝には何かが取り憑いています…」
「信じちゃ駄目よスン…浩子は頭がおかしくなってる」
──「これじゃ埒が明かない…。斯くなるうえは…」錫はチャクラを開いてみた。信枝からは何も感じない。でも浩子は違っていた。たしかに何かが取り憑いている。
「浩子…憑いてるのは……あなたの方よ…」錫は正直に答えた。
「これではっきりしたわね?」信枝が一歩下がって浩子を睨んだ。
「うまく隠れたのですね…」浩子が呆れ顔で信枝を睨み返した。
「まだシラを切るつもり?」信枝も負けじと浩子を睨み返す。
「ねぇ浩子…どうして憑物のことが分かるの?信枝にはチャクラがあるわ…。でもあなたには…」錫の疑問に、浩子は少し間を置いてから答えた。
「……そうですね…。では私から質問しましょう…。信枝、スンの本当の名前を言ってごらんなさい」
「はぁ?…やっぱり頭が混乱してのね──決まってるでしょ…香神錫よ」
「そんなことは信枝の記憶を覗けば簡単にわかります…。もう一度聞きます…スンの本当の名前を言ってごらんなさい」
「だから香神錫だってば。スン、浩子は私たちを混乱させるつもりよ。二人で憑物を退治してしまおう」信枝はそう言って錫を煽った。
「ちょっと待って信枝…」錫は信枝を遮ると浩子に厳しい口調で尋ねた。
「ねぇ浩子…私の本当の名前が香神錫じゃないなら…いったいなんなの?」
「それはねスン…今のあなたなら分かる名前のことです…」
「…今の私なら?…………」それから僅かな沈黙があった。「まさ…か…!?……ひ…ろこ………まさか…もしかして…そんな…」
「そう…あなたの本当の名前は────────錫雅美妙王尊」
「ひろ…っこ……なんで…その名前を…?」錫の全身に鳥肌が立った。
「私はあなたを知る者です…ですがすべての説明は後。今は信枝に取り憑いている邪悪な憑物をなんとかしなくてはなりません」
「そ、そうみたいね…」背筋を伸ばした錫は、両手にギュッと力を入れた。
「どうやら決着がついたようね…信枝」錫が静かな声で信枝に言うと、今度こそ観念したのか、信枝は不気味に笑った。
「チクショウめが…うまくいっていたのに…」霊気を消し去って信枝に隠れていた憑物が姿を現した。その憑物を見た錫はまたも驚いた。
「お前も狡狗!?」
「ヒヒヒそうだ!コイツを利用してお前からタカラモノの在処を聞き出そうと思ったのに」
「東田に憑いてた狡狗もお前の仲間?」
「そうだ。賢いオレさまは〝二段構え作戦〟をとった、ヒヒ」
「でもどっちも失敗した」小馬鹿にした錫の物言いに狡狗は腹を立てた。
「錫雅様…狡狗を挑発してどうするのですか…」浩子に叱られて、錫は舌をペロッと出した。浩子はそんな錫の仕草にクスッと笑った。
「オマエら…このオレさまをバカにしてるな…もう許さん」浩子まで笑ったことで、狡狗は本気で怒った。頭の天辺から湯気を噴きそうな勢いだ。
「浩子も同罪みたいよ」。「私はそんなつもりで笑ったわけでは…」
「うるさい。…許してほしければタカラモノの在処を吐け」
「だから何度も言わせないで。私は何も知らないってば」
「さっきオマエのジジイがタカラモノに詳しいと言ってただろう?そのことを教えろ。……ん!?……待てよ。もしかするとあいつがオマエのジジイか…!?ヒーヒッヒッヒこれは収穫だ!オマエを捕らえてあいつにタカラモノの在処を吐かせる…やっぱりオレさまは賢いなぁ」
「…!なんと…そういうことでしたか!!」
「…こいつ何を言ってるの?おじいちゃんがなんですって?それに浩子も一人で何を納得しているのよ?…私にはさっぱりだよ」
「説明は後です。錫雅様、気をつけて…こいつはあなた様の命を狙ってます」
「強いの?こいつ…」相変わらずちょっと恐がっている。
「今の錫雅様には手強い相手です…。けれど力を合わせれば退治できるかも…」
「ホントに…!?」。「かも…」
「うるさいぞ…オレさまに命を渡せ!オマエに取り憑いて命を抜き取るか、信枝を使ってオマエを絞め殺すかのどっちかだ」
「そんなのどっちもゴメンよ!」
「では絞め殺す…」信枝に取り憑いた狡狗はゆっくりと錫に迫ってきた。
「錫雅様、信枝と思ってはいけません。そいつは狡狗です」そう言われても見た目は信枝だ。あたふたしているうちに、たちまち錫は信枝に押し倒され首を絞められた。
「く、苦しいよ…」錫は川手治に取り憑いていた狡狗の馬鹿力を思い出した。信枝の手が女とは思えないような力で首を締めつけてくる。
「やめなさい!」浩子の声が祠に響いた。とたん、何かが狡狗目がけて飛んできた。
「グガァー…」狡狗は錫の首から手を放して藻掻きまわった。すかさず錫は信枝を押し退けると、素早く立ち上がり浩子のもとに逃げ込んだ。
「錫雅様大丈夫ですか?今のは私の霊気を集めて飛ばしたものです。威力は無いので、すぐ体勢を立て直すでしょう」
「う、うん…今度は私も戦う…」錫は首をさすりながら呼吸を整えた。それからいつものように右の手の平に霊気を集めると、見事な短刀がゆっくりと迫り出してきた。それを左手でしっかり握ると、暗い祠に明かりが灯った。狡狗に油断することなく、その短刀にチラリと視線を向けた浩子は微かに笑みを浮かべた。
「晶晶白露…久しぶりに拝ませてもらいました…」
「浩子…何者?」今や謎の浩子に錫はブルッと身震した。
「錫雅様、くどいようですが説明は後…。ほら、そろそろ狡狗が…」
「くっそー…よくもオレさまを痛い目に合わせたな」
「今度は私よ!もう一度痛い目に合わせてやる」
「むっ…そ、それは…晶晶白露か…?」そう言って狡狗が怯えた表情をしたのを、錫も浩子も見逃さなかった。
「こいつ、どうして晶晶白露を知ってるの?」
「なぜオマエが晶晶白露を持っている…?考えても仕方ない…ここは一旦引き下がるが、これで終わったと思うなよ…」
ちょうどその時だ──。「…阿仁邪様」祠の入り口から東田利馬の声がした。
「おい。キサマせいでオレさままで危なくなったではないか」
「すみません…。でも阿仁邪様、手みやげを持ってきましたぜ」
「手みやげ?」
「これです……おい、中へ入れ!」東田は祠の外を向いて手招きした。言われるままに入ってきたのは、一匹の狛犬だった。
「いし?いし、一体どうしたの?何があったの?」いしなのは明らかだった。だがいつも錫を力づけてくれていた明るい目は輝きを失い、和ませてくれていた豊かな表情もどこかに置き去りにされていた。錫はその姿に思わず涙がこぼれた。
「ギギ、こいつはもうオレさまの奴隷だ!悔しいか?悔しいだろ?」
「お~そうだ…この阿仁邪様はまたヒラメいた。おい狛…この女に取り憑け。そして魂を奪え」狡狗はニヤついた顔で周りの反応を楽しんだ。
「旦那様、この方は元のご主人様なのです。それだけはお許しを…」
「早くも口答えか…?ニンゲンなんかに飼われるからなまくらになるんだ。鍛え直してやるヒヒヒ」阿仁邪と呼ばれていた狡狗は、鞭を振り上げいしの背中に力いっぱい叩きつけた。
「やめてっっ!」錫は目の前で起こっている惨い仕打ちに思わず目を伏せた。
「やめてほしいか?ではオマエの命を差し出せ」卑劣なやり方で錫を追い込んでゆく。返す言葉が見つからない錫は、下唇を〝ぎゅっ〟と噛みしめた。
「なんて汚いまねを…」浩子も拳を振るわせ憤りを表わにした。
「オレさまは賢いなぁ…。晶晶白露を持った奴と戦いたくはないからなぁ…」
「ギギギさすが阿仁邪様、自分の手を汚さずに魂を奪うとは…。おい狛、早く元の主人に取り憑け」この時いしは自身の本能と戦っていた。狡狗の命令に突き動かされ、錫を襲わなければならないという衝動を必死に抑えていたのだ。
「まだ分からんようだな。これでもか!」撓る鞭が容赦なくいしを襲った。いしの顔は苦痛で歪み、足は小刻みに震えた。「奴隷のくせに生意気な…そりゃ!」またも鞭の攻撃を受け、とうとういしは前足を折り曲げてしまった。
いしは自分の出生を知らない。どういうわけか気づけば幼い狛犬だった。狛犬には狡狗への奴隷の意識が本能的にある。それはいしも同じだったが、それ以上にいしは自尊心が強かった。
錫雅尊と出会う前、いしはまだ子供だったにも関わらず、狡狗に鞭で打たれた回数は、他の狛犬とは比べものにならないほど多かった。すべてはいしの自尊心が原因だった。どこまでも狡狗に尻尾を振って服従しなければという本能とは別に、どうして狛族だけこれほどまで虐げられなければならないのか?──という理不尽さを常に感じていた。
狡狗に服従する一方で、どうして逆らう心を持ち合わせているのか──それはいし自身にも分からなかった。
そんないしが錫雅尊に拾われ、共に暮らすようになってからは、ただ一筋に錫雅尊に尽くしたいという忠誠心しか湧いてこなかった。
それなのに今再び狡狗に従いたいとの本能が蘇ってしまったいしは、自分の宿命を恨み、恩義ある主人に牙を剥こうとする心を恥じ、それでも本能に逆らえない自分が腹立たしくてならなかった。
「もう一度だ!」またも鞭は唸りを挙げていしを襲った。
〝ビシッッ!〟「………グッ…」
「いしぃ──!」錫が泣きながら叫んだ。
「いし…ありがとう。私のために耐えてくれて。でももういいよ…もう十分だよ…」こぼれる涙を拭うこともせず、錫は信枝に向き直った。
「あんた達の目的は私でしょ?秘宝を手に入れたいだけでしょ?だったら私の命をどうにでもしていいから…そのかわりその子に手を出さないでっ!」
「ヒヒヒ、最初からそう言えばよいものを。よし…いいだろう」
「いけませんご主人様、捕らえられたら目的が果たせなくなりますけん…」
「私を命がけで守ってくれようとしているあんたを見殺しにして目的が果たせたって、ちっとも嬉しいわけないでしょ?それより私の命であんたを救えるなら…たとえ志半ばで死んだとしても悔いはない。そうよ…〝あんたを助けるために死んでゆくことが私の生まれてきた目的だった〟そう胸を張って人生を誇れるわ…。きっと…きっと錫雅尊だって…私と同じことを思うはず…」
「ご、ご…主人様……なんと、そこまで…。そうですとも…今のご主人様は錫雅様でございます。いしのお慕いしている錫雅尊様そのものでございます」そう呟いて、いしはほんの数秒間だけ目を閉じた。だがその僅かな時間はいしにとって充分すぎる時間だった。やがてそっと目を開けたいしは、折っていた前足をしっかり伸ばして立ち上がった。なぜだが錫にはそのいしの姿が一回りも二回りも大きく映り、今までにない勇猛さを感じたのだった。いしは全身に受けた痛みを堪えながらも、力強い声で錫に自分の思いを伝えた。
「いしはご主人様に二度救われました。一度目はご主人様と初めて出会った時です。三体の狡狗に無にされそうになったわたくしを助けてくださいました。奴隷だったわたくしに、ご主人様はこう仰いました『お前の素性がなんだって構わんではないか…お前はお前だ』と…。先ほどご主人様はあの時と同じ言葉をかけてくださったのです…やっぱりご主人様は錫雅様です。そして二度目は──まさに今この時です。狡狗の命令とあらば〝ご主人様の命であろうと捕らえねば〟という本能がわたくしを襲い、鞭打たれる度にその本能に呑み込まれそうでした。けれども漸く今──断ち切れたのです。ご主人様は、たかが下僕のために命を擲つことを厭わず、〝私の生まれてきた目的だったと誇れる〟とまで言ってくださいました。それほどまでに深いご主人様のお心が、わたくしの悲しき本能を打破してくださったのです。本能や力による忠誠心は真のものではありません。真の忠誠心とは自らが生み出すものだと悟りました。ご主人様は、ご自身の意思でこんな身分のわたくしに命を擲ってくださろうとしたのです。わたくしも、そのご主人様のお心に、自分自身の意思で応えたいのです。もう本能などに惑わされません…。これからこのいしは、どこまでも貴方様に忠誠を尽くしますけん」
「いし……ぐすっ…ありがと……」錫は涙と鼻水でグシュグシュになった顔を、左手の甲で拭った。
「錫雅様といしの絆を何人も邪魔することはできないようです。もっとも奴は人ではなく狡狗ですが…」浩子も涙でくしゃくしゃになりながらそう呟いた。
「奴隷のくせにぐだぐだと…。誰がご主人様なのかはっきりさせてやる」狡狗は力に任せて鞭を振り下した。撓る鞭が大きな唸りを挙げていしの背中に喰らいつくその瞬間、いしは俊敏に体をひらりと左に躱すと、隙を作ることなく狡狗に攻撃態勢をとった。
「いしステキー!」俄然強くなったいしに、錫は黄色い声援を贈った。
「ご主人様、いしはこのとおりですけん…遠慮なく晶晶白露を振るってくださいませ」
「ヒヒ…キサマらの話で分かったわ。このオンナあの時の奴だな?そしてオマエはあの時の狛だったんだな?」
「なにっ!?…ではお前はあの時の狡狗か…」
「えっ、あの時って?…みんな知り合い?──あの時?どの時?いつの時…?」
「阿仁邪様…たしかにコイツの霊力は我々には悍しいですが、戦って勝てない相手じゃなさそうですぜギギギ」
「お前は晶晶白露の恐さを知らんからそんなことが言えるんだ」
「しかし我々だってもう後がありません…お任せください。コイツの命を捕らえてご覧に入れます」
「ほう…頼もしいな…ではやってみろ。うまくいけば晶晶白露も手に入る」東田は自信たっぷりに頷くと、鞭を振り回しながら、誰を狙うか迷っているようだった。
「ご主人様、浩子殿、気をつけてください。あの鞭を一打ち喰らえば、地獄の苦痛を味わうことになりますけん…」
「ど、どうすればいいの?」錫が弱々しく尋ねた。
「残念ですが今のご主人様の霊力ではまだ奴を捕らえるまで弱らせることはできないでしょう…。ですからひたすら躱してください」いしがそこまで説明したとき、狡狗の鞭が乾いた音を立てながら錫目がけて飛んできた。錫には到底避けきれそうにない──。そこへいしがまるでコブラの攻撃を的確に捕らえるマングースのように鞭に喰らいついた。
「ありがとういし」そう言うのも束の間、間髪を容れず次の鞭が唸りを挙げた。いしがその音に気づき飛びついたが一瞬遅かった。
「うぐっ…」浩子が声にならない苦痛な叫びとともに倒れ込んだ。
「ひろこぉ!」錫は浩子の懐に駆け寄って抱き抱えた。
「大丈夫です…。いしの苦しみに比べれば…これくらいのこと…」
「ギッギ…やっぱりコイツら大したことないな…」東田は得意気に笑った。錫は無言でスッと立ち上がると晶晶白露をしっかりと握り直した。
「よくも………よくもこんなことを…」怒りは心頭に発している。錫の真紅の霊気は、今にも〝メラメラ〟という音を立てそうなほど燃え盛っていた。「絶対に許さない…。優しいいしを苦しめ…大切な親友をこんな目に合わせるなんて…」錫は狡狗を〝ぎっ〟と睨んだまま、臆することなく一歩一歩近づいた。
「ウルサイ…これでも喰らえ!」青白く光る鞭が唸りを挙げて錫の顔面目がけて飛んできた。錫は身を躱そうともせず、晶晶白露を楯にした。鞭が晶晶白露に触れた途端、青白い光は消え、狡狗の手から鞭が消え去った。狡狗は驚き、なおも近づいてくる錫に尻込みしていたが、錫はお構いなしに狡狗の懐まで間合いを詰めると、晶晶白露を狡狗の右の脇腹から左の肩にかけて切り上げた。
「…アツい!ナニした…アツい焼ける…焼けるぅ~…ギャー」晶晶白露の刃が狡狗を切り裂くと、そこから放たれた光を帯びた玉は大きく膨らみ、やがて狡狗を完全に呑み込むと、今度は縮まりながら微光になり、完全に発光を終えたとき邪身玉となって転がった。
「……まさか…」ポソリと呟いたのはいしだった。
「どうしたの…?狐に抓まれたような顔しちゃって…狛犬なのに…ふふっ」錫は何事もなかったように穏やかにそう言った。
「すみませんご主人様…。いしはご主人様の力を侮っていたようです。今のご主人様の霊力ではこいつを邪身玉に納めるのは無理だと思っていました。ですが見誤っていたようです。ご主人様の底力を目の当たりにして…今更ながらあなた様は錫雅様なのだと思い知らされました。手強い狡狗をいとも簡単に邪身玉にしてしまわれるとは…」
「ま、まぐれよ…追い詰められてたし…。〝窮鼠狡狗を噛む〟ってとこ…キャハ」
「正直私も驚きました…。この狡狗の霊力はなかなかのものでしたから…」浩子も静かに答えた。
信枝に憑依している狡狗は、じっと状況を見ていたが、何を思ったのかニヤッと笑った。けれどそれには誰も気づいていなかった。
「…やはり晶晶白露は恐ろしい存在だ…そんなモノを持っている奴と戦いたくはない。かといって、このまま帰れば醜長様に大目玉だ。どちらにしてもオレさまには理不尽で腹だたしい…。なので醜長様にミヤゲを持って帰るヒヒヒ…」
「どこが理不尽よ…それはこっちの台詞よ」
「奴らは自分のことしか考えてませんけん…」
「それにしても…狡狗が持って帰ろうとしている土産とは…?まさか晶晶白露ではないでしょうし…」浩子は不安気に下唇を噛んだ。
「フヒヒヒ…オレさまは優しいからキサマ達に置きミヤゲを残してやるぞ。恨みという置きミヤゲをな…ヒヒ」
「そんなものいらないわよ」錫の表情を見て狡狗はニヤついている。
「オマエ達が絶対にオレさまを恨みたくなるようなモノ…それを醜長様の手ミヤゲにするのだ。一石ニトリだ──カシコいなぁ、オレさまは」
「それを言うなら一石二鳥でしょ?ニトリって何よ…生活用品店でもあるまいし…」
「プフッ!」錫のツッコミに浩子が思わず笑ってしまった。
「オマエ達…オレさまをバカにしたな…許さん。醜長様へのミヤゲはコレだ!」狡狗は取り憑いていた信枝の体からスゥーッと抜け出すと、信枝の体から何かを引っ張り出した。
「なんということを…止めなさい!」浩子が感情を顕わにして大声で叫んだ。
「あれってまさか…?」
「そうです…信枝の魂です」狡狗が信枝の肉体から魂を抜き取った途端、まるで糸をプツンと切られたあやつり人形の如く、信枝は崩れるようにして地面に倒れた。
「死んでしまうの?」。「いいえ、もう手遅れです…死んでしまっています…」
「なんですって!?」
「恨めしいか?憎いか?コイツが醜長様の手ミヤゲだフヒヒ…」
「そんなことはさせません。錫雅様もいしも絶対に狡狗を逃がしてはなりません」そう叫びながら、浩子は霊気を両手に溜めると、狡狗目がけてぶつけた。慌てていたこともあり、さほど大きなダメージを与えることはできなかったが、それでも狡狗は原形を崩して暫く身動きが取れなくなった。次いでいしが狡狗の左ひじにがっぷりと噛みつき、少しずつ霊気を吸い取っていった。「錫雅様、晶晶白露を…早く!」
「うん!」錫は獣の毛に覆われた狡狗の胸に、素早く晶晶白露を突き刺した。
「がぁ~…熱い…」狡狗が暴れて苦しんでいる間に、浩子は信枝の魂を救出した。
「くっそ~」放射線状に広がる光を帯びた玉は徐々に狡狗を包んでゆく。もう少しで全身を包みかけたそのときだ──狡狗は一気に霊力を強め、玉を破壊してしまった。
「あ~…あと少しだったのに」浩子は地団駄を踏んで悔しがった。
「ヒヒ…こんなもんカンタンに弾き返せるわ…。だが今ので霊力を使いすぎた。一旦引きあげるが、これですんだと思うな。必ずタカラモノは手に入れるからな」そう言い残すと、狡狗は祠の天井を通り抜けて姿を消した。
「追いかけますか…?」いしが指示を仰いだ。
「いいえ、錫雅様も相当霊気を使われています。深追いは止めておきましょう…。それに…今なんとかしなければならないのは信枝です…」
「信枝は…本当に死んでしまったの?」
「はい…残念ですが…。魂はここにありますが、自分の意思に関係なく無理やり魂を抜き取られたので元には戻せません…」錫は顔面蒼白になり、信枝の亡骸にしがみついて泣いた。「けれど…」
「…けれど!?」浩子のその一言に錫は過敏に反応した。
「一つだけ方法が…。しかし、そのためには白の国に行かなくてはなりません」
「白の国…?」
「俗にいう天国……錫雅様が柱の穴を通って行かれたあの国です」
「あ~あの時の──────────って、なんで浩子がそのこと知ってるの!?」
「説明は後です」
「なかなか説明が聞けないわねぇ…」
「すみません…。ですが今は一刻も早く白の国に行って信枝を助ければなりません」
「それで信枝が助かるなら私は何度でも行くわ!」
「錫雅様ならそう言われると思っておりました。そうと決まったら急ぎましょう!このまま何時間も放っておいたら本当に手遅れになってしまいますから」
「で…どうやって行くの?」。「乗り物で行きます」
「タクシー?」。「…錫雅様ったら…ご冗談を…」
「…ねぇ浩子、おねがいだから遜るのはやめて…違和感がありすぎ…」
「………。分かった…そうするわ。とにかく急ぎましょう。詳しい説明は道中で」浩子は錫を祠の外に連れ出すと空を見上げて言った。「スン、あの雲の辺りに何か飛んでるのが分かる?」
「うん…大蛇みたいに長いアレのこと?」錫が指さして答えた。
「あれは白龍よ。あれに乗って白の国に行くの」
「へっ…龍に!?大仏殿の柱の穴を通って行くんじゃないの?」
「あそこはあの日に限り天甦霊主様が開いてくださった入り口なの」
「あ~…当日限定…」話をしている間に白龍は錫達の元へと下りてきた。
「こんなのがホントにいるなんて…。で…どうやってこれに乗るの?」
「スンにも死んでもらうの」浩子は躊躇いもなく返答した。
「死ぬぅっっ!?……痛いことする?」
「ううん、その逆よ。気持ちいいはず…ふふっ」浩子は恐がる錫を和ませるつもりで笑ってみせたが、それでも錫は尻込みした。浩子はそれにはお構いなしに両手を錫の胸に当て、何かを引っ張り出すようなジェスチャーをした。するとその場に立っていたはずの錫は、一歩前に前進したような感覚を覚えた。
「終わったわよ…」呆気なかった。後ろを振り返ると人が倒れている。
「もしかして……これって私?…じゃ私は…?」
「倒れているのはスンの肉体、そしてそれを見ているスンは霊体…つまり魂よ。ただし完全に死に至らないように、ほんの少しだけ魂のかけらを体内に残してあるわ。それでものんびりしてたら命の火は完全に消えてしまうの…ロウソクの炎のようにね…」錫は霊体の離脱に驚きはしたが嫌な気はしなかった。肉体の重みもなく、肩の凝りなどや疲労感など全く無い心地よい状態だったからだ。
「では…参りましょうか?」初めて白龍が喋った。澄みきった女の声だ。驚くまもなく早く龍の背中に乗れと浩子に急かされ飛び乗った途端、龍は天に向かって昇り始めた。
「この白龍は北東…つまり鬼門の方角に向かって進んでいるの。鬼門は白の国と黒の国への入り口よ。常に鬼門の方角に白龍が飛び続ける時、白の国の入り口は開門され、必ず白の国に行き着けるわ。それが黒龍だと黒の国に…。ちなみに黒の国とは地獄のことよ」
「ふう~ん…。やっぱり鬼門は向こうの世界への入り口だったんだ」
「そうよ。鬼門は邪気を運んでくる不吉な方角として常に忌み嫌われているけど、それは黒の国から流れてくる邪気のせい。けれどもそれが白の国に近寄らせないためのカモフラージュでもあるの」
「ふうん……もう一つ理解できない…」
「つまりね…何かの拍子に間違って白の国への入り口ができたとしても、それは必ず鬼門の方角にできるの。だから、常に鬼門は不吉な方角としておけば、万が一入り口ができてしまっても、その方角は避けて通ってくれるから、誤って入ってくる人は少ないってこと」
「なるほど…。ということは間違って入ってくる人もいるんだ…」
「極稀にね…。〝あの世を見てきた~!〟って人がたまにいるでしょ?」
「いるいる!たしかにいるわねぇ!」
白龍がどんどん北東へと進むにつれ、まわりの景色が霧模様の白一色に染まっていった。
「あっ!この風景、この状況…前に見た夢とそっくり…。私が夢で乗っていたのは龍だったのね…。焦っていたのは信枝を生き返らせるため…」
「スンの霊力には、先の事まで予知する力があるのかもしれないわね」
「…浩子…今度こそ教えて。あなたはいったい何者なの?」
「今まで黙っててごめんねスン…騙してたわけではないのよ。私は白の国で錫雅様の臣下だった──〈智信枝栄之命〉と申します」
「錫雅の…つまり私の臣下?…真ん中の漢字が信枝だね…ややこしい」
「それは偶然よ…。今までスンに話をしなかったのは、よからぬモノがスンの知識を覗き込んで、秘宝の在処を探ろうとするのを回避するためだったの。けれども悪しきモノにあなたの存在を知られた今、もう隠しておく必要はないわ。私が知っているすべてを話しましょう。まず話しておかなければならないのは、私は幅下浩子に憑依している存在だということよ」
「えっ!?じゃ、浩子のようで浩子じゃないってこと?」
「取りようによってはそうね」
「んじゃ、いつから浩子に憑いてるの?」
「スンのおじい様が亡くなってすぐよ。驚かないでね──私はスンのおじい様に頼まれてこっちに来たの」
「へっっ!──ど、どういうこと!?」驚かないはずがない。
「スンの霊力を導き出すためよ。あの頃スンのおじい様は自分が危うい状況にあると察していたの。そこで自分に万が一のことがあれば、スンの霊力を目覚めさせてほしいと私に頼んできたのよ」
「だけど…じゃぁ、いったい浩子はいつ私の霊力を導き出したの?」
智信枝栄は白の国に着くまでの時間を考慮しながら端的に話し始めた。
Ⅵ
万が一のことを想定して、虎が智信枝栄に錫のことを託したのは、虎が死ぬ二ヶ月ほど前のことだった。虎の予感が的中し、最悪の結果になったことを知った智信枝栄は、すぐさま人間界に降りたった。
智信枝栄がまずしなければならないことは、誰に憑依するかということだった。錫の家から近く、なおかつ取り憑きやすい素直な同じ年の女性──その条件にピッタリだったのが幅下浩子だった。しかも浩子も祖父を亡くしたばかりで、後々錫に近寄るための良いきっかけになる。智信枝栄は浩子に憑依した。普段は浩子に主導権を渡し、自らは静かに息をひそめていたのだった。
智信枝栄が最初に浩子から主導権を奪ったのは高校受験の時だ。錫がどこの高校を受けるのかを調べ、浩子も同じ高校を受けるよう操った。操るといっても完全に浩子を支配するわけではない。もちろんそれも可能だが、この場合は、浩子がその高校を受験したい気持ちになるように誘導してやるだけでよかった。斯くして二人は無事同じ高校に入学したが、幸運だったのは錫とクラスが一緒になったことだった。
入学早々の美術の写生時間を利用して、智信枝栄は錫に近寄り、目論見どおり亡くなった祖父の話をきっかけにして親しくなった。
「そうだったのかぁ…。聞いてみないと分からない話ね…」
「ごめんね…騙したわけじゃないのよ…」
「そんな風には思ってないよ。だけど…もしクラスが違ったらどうした?」
「そうね…同じクラブに入るとか…道でばったり会うとか…。まっ、方法はいろいろね…ふふっ」錫はいつもと変わらない穏やかな浩子の仕草を見て、それが智信枝栄だろうが浩子だろうがどちらでもよくなった。
「次に私がしたことは、卒業旅行でみんなを奈良の大仏様に誘うことだった…」
「あ~…!そういえば行き先が京都奈良になったのは、浩子の修学旅行の苦い思い出をやり直すためだったわね」
「あの話は実際に浩子が体験したことを利用したの。一番の問題は、スンが十八歳を迎えるより前に卒業旅行に行っても意味がないということよ。だから私は〝喜びを二倍にしよう〟と持ちかけ、卒業旅行とスンの誕生祝いとを重ねたの。スンが誕生日さえ迎えていれば、後はいつ大仏様の所へ行っても良かったのよ」
「改めて聞くと全部浩子の提案だったわね…」
「本来気配りができて優しい浩子の性格上、そうやって誘いかけても、何も疑われずに二人に受け入れてもらえたわ」
「そして私は浩子が目論んだとおり、あの穴を潜ることになる…。浩子が私の霊力を導き出すというのはそういうことだね?」錫は智信枝栄が言った意味を漸く理解した。
「…それからあの写真の一件もそうなのよ」
「写真の…?」
「写真の裏に何かが隠されていることを私は事前に知っていたわ。スンのおじい様から教えられていたから…。それをどうやってあなたに伝えようかと考えていた時、たまたまお父様が部屋に入ってこられたから、これ幸いと驚いたフリをしてわざと写真立てを落として割ったの」
「あれってわざとだったの…!?」錫は大きな目をクリッとさせて驚いた。
「うん…。その後写真立てを二つ買ってきたのも、もう一枚の写真を写真立てから取り出させるための細工だったの」
「わぁおっ!じゃ、いまだ謎のもう一つの短歌の意味も知ってるの?」
「残念だけど私が頼まれたのは、写真の裏に隠してある何かをスンに教えることだけ…。それが短歌だということを、私もあの時まで知らなかったわ」
「そうかぁ…残念」あわよくばと思った錫だったが、そう簡単にはいかなかった。
「それから私が崖から躓いて信枝を巻き込んだのもわざとよ」
「あぁ~…どおりで変だと思ったのよ。あの瞬間浩子が信枝を引きずり落としたように見えたもの」
「あそこから二人で落ちたのは信枝に取り憑いた狡狗に尻尾を出させるため。それに錫を一人にした方が、東田に取り憑いた狡狗も正体を現しやすいと思ったからよ」
「東田に狡狗が憑依しているって知っていたの?」
「えぇ。うまく隠れたつもりでも私にはすぐ分かったわ!」
「ふぅ~ん…。ねぇ……もしかして私を三輪山に仕向けたのも浩子の仕業…?」
「ふふ…さすがに私も旅行券を故意に当てることはできないわ。ラッキーだっただけ。でも三輪山に秘密があることに気づいたスンは大したものだわ」
「その言い方だと…浩子は三輪山におじいちゃんが来た理由を知っているのね?」
「えぇ、もちろん。それにね…さっき狡狗からとんでもない情報を得たわ…」




