第十一章──向こうの世界
向こうの世界
Ⅰ
死とは肉体から魂が離れてしまうことだ。肉体を持たなくなった魂は、ついに病気や苦痛から解放され、本当の自由を味わうことができる。そしてその性格は、死した後も生きている時の延長線にある。
例えばもしその人が、生前大の女好きだったとしたなら、死した後も女性のお尻ばかり追いかけているかもしれないし、映画好きだったなら、毎日好きな席で映画鑑賞にふけっているかもしれない。もしその両方とも持ち合わせていた人ならば、映画館で好みの女性の隣に座り、その女性にお断りもせずに手を握ったり、太ももをさすったりしながら大好きな映画を心ゆくまで鑑賞するという最高の設定も可能だ。
やがて俗な世界にも飽き飽きしたという死者のために、魂だけが住める世界がご用意されてある。一般的に我々はその世界を天国とよんでいる。死者の魂がのんびりと過ごせる楽園だ。一度ここに留まると、もう二度と人間界に帰りたくなくなるほどのユートピアらしい。
死者にとって好ましくない人間界も、魂の修行の場としては欠かせない世界なのだ。お呼びがかかれば無理矢理でも人間界に放り出され、魂の品質向上に勤めなければならない。だが多くの魂は人間界での修行に失敗してしまう。この場合何度でもやり直しをさせられる。それが〝生まれ変わり〟という現象だ。
とにかく自分から望んで人間界に行こうとする者は変人扱いされるか、英雄扱いされるかのどちらかだ。それほど人間界の修行は過酷なものということだ。つまり我々は、今その過酷な修行の真っ最中ということになる。
そしてどんな世界にも表と裏、陰と陽とが存在していて、天国には地獄という対象の世界がある。
ここは生きている時の素行が著しく悪かった人のためにご用意されている刑務所のような場所で、できれば行くのはご免被りたい。あまりにも苛酷であるが故に、時折天国へ逃げ出そうとする魂がいる──脱獄だ。捕まると──やっぱり刑期が上乗せされるのだろうか?
○
白の国は楽園だ。その楽園の平和を保つべく命を受けている者たちがいる──霊神だ。彼らは同士で動くことはほとんどなく、それぞれが単体で行動していた。
白の国は真っ当に一生を終えた人間の魂が暮らす世界だ。人間界では天国と言った方が馴染みがある。
ここでは争い事はほとんど起こらない。争う要素がないからだ。にも関わらず、治安を守る霊神が必要なのには理由があった。
別の世界―─黒の国の魂達が悪さをしに来るからだ。黒の国は地獄と言った方が分かりやすい。
白の国と黒の国がどこに存在しているのか定かではない。両国の中心部には霧状の渦が巻く〝臍〟と呼ばれる大きな穴があり、ここに身を投じると相手国に行けるが、どの場所に出られるかはその時々で全くわからない。
白の国の魂は、どこにでも行き来することを許されているが、わざわざ地獄に足を踏み入れる者などいない。
逆に黒の国の魂は白の国に絶対に入ってはならない。この法を破れば厳しく罰せられることになる。もちろん人間界に勝手に行くことも許されてはいない。
黒の国の魂が白の国に侵入する理由のほとんどは、罰に耐えられず自由を求めてのことだが、中には穏やかな白の国を妬んで危害を加えてくる奴もいる。
しかし──それよりも質が悪いのは、白の国欲しさに攻め入ってくる黒の国以外の奴らだ。
Ⅱ
錫雅尊はたった今天甦霊主から命を受けたばかりだった。西南方向に悪しき霊気の奴がいると言われ、急いでそこへ向かっていた。
白の国はその一面をぐるり白一色に囲まれている静かな世界だ。ここを住処とする魂達に時間という概念がないことも、この国が穏やかな理由の一つに挙げられるだろう。
果てしない真っ白な世界を錫雅尊はただただ走り続ける。幾里も幾里もひたすら駆け抜ける。実態のない者がいくら走ったところで疲れることはないが、霊気の消耗は避けられない。どこまでも走り続けていると悍ましい霊気がだんだんと強くなるのを感じてくる。こうして錫雅尊は、いつものとおり目指す場所へと確実に足を運んでゆくのだった。
西南に向かうこと八十里──確かに邪悪なモノが悪さをしていた。その数は三体だったが、別の一体に取り憑いていて正体は謎だった。
「おい兄弟…変な奴が来たぞ!ギシシシ」。「獲物からのこのこやって来るとはバカな奴だ…なぁ兄弟…ヒーヒヒ」。「痛めつけてやろうにゃ兄弟…ヒョヒョヒョ…」
「おい、兄弟とやら…ずいぶんマヌケじみた会話だな?姿を見せたらどうだ?」錫雅尊は口元を緩めて、少し小馬鹿にした口調で言った。
「なんだお前、オレ様達に対して…。どうなっても知らんぞ」
「そ、それはすまなかったな…言い直す」
「そうだろうギシシ。ちゃんと言い直せ…うん」
「マヌケじみたは失礼だ…じみたではなく本物のマヌケだった」
「なにぃ~!?ゆるさん…キサマ無にしてやる」
「罪なき者を無にすることは、この国ではご法度なのだが…!?」
「知るかヒヒヒ。気に入らない奴は消せばいいんだ」
「そうだそうだギシシ…ちょっと待ってろ。今取り憑いている奴を食い尽くしたら、お前に取り憑いてやるギシシシ」
「お前達はどうしてそいつに取り憑いたんだ?」
「教えて欲しいか?…こいつはもともとオレ達の国の奴隷だ。こっちの国に来る時、チョイと霊気を貰おうと思ったら、奴隷のくせに手こずらせやがって…。頭にきたんで三人がかりで取り憑いたままこっちの国に連れてきてやったのよギシシ」
「ヒョヒョ、手こずらせた罰に、無になるまで霊気を吸い取ってやるにゃ」
「なんて惨いことを…。相当霊気を吸われて原形を保てず、正体さえ判別できないではないか…。許してやったらどうなんだ?」
「知ったことかぁヒヒヒ…それより自分の心配をしたらどうだ?お前も同じ目に遭うんだからなぁ…ヒヒ」
「残念だが私はそこまで待っていられないんだ」
「逃げるのか?もし逃げたらお前の霊気をどこまでも追いかけてやるにゃ」
「逃げはしないが、さっさとお前達を片づけて帰りたいんだ」
「ギシシシ…聞いたか兄弟。こいつ寝ぼけたこと言ってやがるなぁ」
「一つだけ聞くが、なんでここへ来た?返答次第ではお前達の扱いが変わるぞ」
「オレ様達兄弟は白の国の支配者になろう思って来たのよ。お前、もし謝ったら仲間にしてやらんこともないが…」
「残念ながら仲間は持たん主義だ。それよりもお前達が取り憑いている奴隷とやらの霊気が完全に吸い尽くされないうちに、悪いが助けさせてもらうぞ」そう言うと錫雅尊は左手を胸の辺りまで上げた。そして一瞬で霊気をその手の平に集めると、たちまち霊気は見事な鈴へと姿を変えた。
「さぁ、そこから出てこい仲良し三兄弟」シュウィーン……鈴が一鳴りすると、三兄弟は取り憑いていた奴隷から吸い出されるように一体ずつ抜け出てきた。
「良い音色だろう?集鬼鈴というのだ。お前達のようなマヌケには特に効き目があるのだぞ」音色に魅了されていた三体だったが、我に返ると、錫雅尊からマヌケ呼ばわりされたことに腹を立てて怒りまくった。
「ほう…マヌケでも憤慨するのか」
「キサマ、本気でオレ様達を怒らせたな……ギシシシ」
「オレ様達は今奴隷の霊気を吸い取ったばかりだから強えぇぞヒヒヒ」
「今度はお前に取り憑いて、もっと強くなってやるわギシシ…」
「ヒョヒョ、オレ様達に遭ってしまったばっかりに気の毒な奴にゃ」
「行くぞ行くぞぉ~…」三体が一度に襲いかかろうとした時、錫雅尊は霊力を一気に高めた。すると三体とも錫雅尊に近寄ることさえできなくなってしまった。
「な、なんだコイツ?…強えぇじゃないか…」
「すまんな…そうみたいだ。もう一度聞くぞ。お前達はまだこの白の国を支配したいか?一人ずつ聞いてやる…一番デカい奴どうだ?」
「オレ様達はそのために来たのだギシシ」
「無になるぞ…それでも良いのだな?」
「ギシシ…脅しても無駄だ。無になるまで霊気を吸い取るのに何日かかることか」
「どうかな…。最後に聞く…………本当に良いのだな?」
「バカにしやがって…。もう容赦はせんぞギシシシ…これを見ろ」黒い毛に覆われたデカい手に握られていたのは、霊力を秘めた短刀だった。
「これは晶晶白露という短刀だ。オレ様はこれを醜長様から頂いたんだ。その代わり白の国を乗っ取るように言われてな…ギシシシ…。この短刀欲しさにオレさまはここに来た。噂によると、この晶晶白露という短刀一本で、小さな国一つくらいなら支配できるという。ならばオレ様達三兄弟の力で、この白の国を支配できるはずだ…ギシシシ」
「ほう、それでヤケに強気だったんだな。で…それはどうやって使うのだ?」
「どうやってって?刺せばよいのだ刺せば…。普通我々は相手に何日も取り憑いて無にさせるのだがコイツは違う。瞬時で無になってしまう殺人…いや殺霊兵器だ。恐いだろう?恐くて逆らえんだろう?ギシシ…」
「そうか…それはスゴいな。…でさっきの話の続きだが…無になって良いのだな?」
「お前マヌケだな…。今の話を聞いてなかったのか?」
「そこまで言うなら試してもらおうか?」
「生意気なガキが!願いどおり試してやるわぁ」言うが早いか、晶晶白露を持っていた一体が、錫雅尊の胸元目がけてその刃先を突き刺してきた。
「ぐっ…」錫雅尊は身を引くこともできず、まともに刃をその胸で受け止めた。
「ヒョヒョやったにゃ、あれだけ教えてやったのにバカな奴」三兄弟は錫雅尊が無くなる瞬間を期待して目を凝らした。「……まだ消えないかにゃ?」
「ギヒ?………………」沈黙が暫く続いたその時だった。
「…さてと…茶番は終わりだ」消えるどころか錫雅尊はすまして言った。
「えっ!?バカな……そんなことが……」
「あるのだ、そんなことが…。残念だがその短刀は私には効かない」
「どうして…?」
「教えてやろう。まず一つ目…お前が持っている晶晶白露は聖霊を得意とする特性がある。聖霊とは憑物を弱らせたり、己を見失った悪しき霊を本来の心に戻してやることだ。故にそのような心を持たぬ私に聖霊など無意味だ」説明を聞いて三兄弟の戦意は萎えかけた。「二つ目…晶晶白露を手にすれば、確かに国一つくらい支配できるかもしれない。だがな…お前達はその意味を完全に履き違えている」
「履き違えているとはどういうことにゃか?」
「マヌケにはよーく噛み砕いて説明してやらねば分かるまいな…。晶晶白露は神霊界賜尊具と呼ばれる道具の一つだ。文字どおり神からの尊い賜り物だ。お前達が邪心を持ってむやみに使ったところで今のような結果にしかならん。…だがな…それを手にした者が国のため平和のためにその力を借りようとするならば、晶晶白露はその使い手の大願に応えてくれるはずだ。国を尊び、平和を祈り、民を守るために働くことは、自らの欲を放して世のために尽くすということだ。その結果、思いどおりの理想郷となれば…それは国を支配しているのと同じことではないか?…この意味がお前達に分かるか?もし分かったなら〝無〟にすることだけは許してやろう」
「許すだ…?オレ達狡狗をなめるなよ!」
「なんと!お前達は狡狗か?…狕隠の国の出入口は無くなっているはずだが?」
「オレ達はな…抜け穴を見つけたんだ」
「抜け穴…?そいつは厄介だな…」錫雅尊は不吉の前兆に唇を噛んだ。
狡狗の棲む狕隠の国から抜け穴を通って白の国に来ても、どの場所に出るかは分からない。つまり出口は白の国全域ということになるので防ぎようがないのだ。
「まぁよい、そのことは後で考える。大切なのは三つ目だ。よく聞くがいい…」
遠い昔、この国の主は、己が持つ大きな力を宿した短刀を作り出した。これは〈白の眩燿刀〉と呼ばれ、聖霊を得意とする眩く美しい短刀だった。その後、主はまた新たに短刀を作った。これを〈黒の眩燿刀〉といい、すべての霊を〝無〟してしまう危険な短刀だった。二本はその性質が正反対だったので、主は長い長い時をかけて、今度はその両方の性質を合わせ持った短刀を作り出した。新たに誕生したその短刀は、暗がりでも吸い込まれるような輝きを放っていた。そしてひとたび刃を振り下ろせば〝清みきった露が迸る〟──その見事な一振りを、主は晶晶白露と名付けた。白と黒の眩燿刀も晶晶白露に引けを取らぬ名刀だったが、この二本は常に晶晶白露の陰に埋もれ、やがてどの短刀も一括りに晶晶白露と呼ばれるようになっていった。故に、いつしか眩燿刀は、その名前もその姿も忘れ去られていったのだ。黒の眩燿刀は危険な性質ゆえ何処かに封印されたまま行方知れずになっていると聞く…。そして白の眩燿刀だが──。
「どうやって辿り着いたのか知らんが…その短刀こそがそれだ」
「で、では…これは晶晶白露ではないにゃか…?」狡狗はタジタジだ。
「説明したとおり、今はどの短刀も晶晶白露と呼ばれている。そういう意味ではあながち間違いではない…。だが正確には別のものだ」
「醜長様はオレ達を騙したのか…!?」
「そこまでは私にも分からん。だが眩燿刀の存在を知る者など今はほとんどいない。お前の主人がその短刀を本来の晶晶白露だと信じていた可能性は高い…」
「ギギ…この国の支配者になるつもりでいたのに…。醜長め…いい加減なモノを渡しやがって…許さん。こうなったら本物の晶晶白露を探し出してやる」
「あっさり主に牙を剥くとは…狡狗の本能がむき出しだな…。良い話と悪い話を教えてやる。まず良い話だが、わざわざ晶晶白露を探す必要はない…。そして悪い話だが、お前達が晶晶白露を手にすることは永遠にない…」
「えっ!?どういうことにゃか…?」
「こういうことだ…」錫雅尊は右の手の平を上に向けた。すると一本の短刀がゆっくりと迫り上がってきた。その短刀の柄を左手で掴むと、三体の狡狗の前に突き出して見せた。途端に三体の狡狗はその短刀に釘付けになってしまった。暫くあって錫雅尊がゆっくりと口を開いた。
「説明は要るまい…お前達が考えているとおりだ」
「ググゥ、…じゃぁ、それが本物の晶晶白露か?そ…そんなことが…」
「…ある。今度こそ分かったろう?このまま帰れ」
「バカを言うな。探す手間が省けただけだ…。おい犲、お前がコイツと戦え」
「分かったにゃ…。おいキサマ、さっきは油断したが、オレ様は兄弟の中で一番力が強えぇ~ぞにゃ!痛い目に遭わせてやるから覚悟するにゃ」
「お前は自分の度量が分かっているのか…?本当に無になっていいんだな?」
「そんな脅しは通用せんにゃ」
「何度も機会を与えてやったのに…仕方ない…」狡狗から少し距離があった錫雅尊だったが、瞬時に狡狗との間合いを詰めると晶晶白露を一振りした。すると犲と呼ばれていた狡狗は一瞬で無と化した。
「ヒッ…あれっ?」。「ギギ…なんだ…?」
「これが晶晶白露だ…分かっただろう?」残った二体の狡狗は縮みあがった。
「改心したこのとおりだ…」。「無にしないでくれ…後生だ…なっ?なっ?」錫雅尊は黙って狡狗の様子を見ていたが、大きく一つため息を吐いた。
「幸いお前達の犯した罪といえば、勝手にこの国に足を踏み入れたことくらいだ。二度とここには来ないと約束するなら今度ばかりは許してやる」
「はい…約束します…なぁ獂」。「…します…なぁ猼」二体の狡狗から覇気は消えていた。錫雅尊は狡狗の言葉を信じて、狕隠の国に強制的に帰すことにした。晶晶白露を軽く一振りして、いとも簡単に二体の狡狗をガラス状の玉〈邪身の宝玉〉に、それぞれ一体ずつ封印してしまった。
「これでよし!さぁ、狕隠の国に帰るがいい…帰れば封印は勝手に解ける」そう言って邪身玉を放り投げた。玉はみるみる昇天して見えなくなった。
「さて、今度はお前だな…」錫雅尊がそう話しかけた相手は、狡狗が奴隷だと言っていたソレだ。霊気のほとんどを吸い取られて、本来の霊体を保つ力もなく歪な塊になっていた。錫雅尊は得体の知れないソレを優しく抱きかかえてやると、自分の霊気を与えてやった。
「お前は大した奴だな…。私の霊気をこんなに与えてもまだ足らないか…」それでもなんとか力をつけたソレは、少しモゾモゾ動きだした。
「とりあえず大丈夫そうだなぁ…」錫雅尊は形の定まらないソレを抱きかかえたまま、もと来た道を帰り始めた。
「あなたが様が助けてくださったんですか…?」もうほとんど帰りかけた頃、ソレは意識を取り戻して弱々しい声で錫雅尊に話かけてきた。
「おぉ~…気がついたようだな?」
「おかげで意識がハッキリしてきました」そう答えたソレは、本来の形に戻り始めた。
「…ん?お前はまだ子供じゃないか…」
「はい…」
「それに、どうしてお前のような種族が狡狗の棲む拗隠の国に?」
「はい…………わたくしも狡狗ですけん…」
Ⅲ
「逆よ────辞書の中に扉が隠れているの!」鈴子がニッコリ笑って言った。「扉を調べてる錫に、このタイミングで辞書が届いたでしょ?それでふと思ったの…。辞書にも扉があるなぁって…」
本の書名や著者名を記したページのことを、俗に扉というのだと知った錫は、早速漢字辞書のその部分を開いた。中央の大きな『漢字辞書』の文字が真っ先に目に飛び込んでくる。他にも小さな文字で編者の名前が連名で記されていた。普段ならこんなページは素通りだと思った矢先、錫はページの左下に小さく手書きで記されている文字を見つけた。
この章で《聖霊師──錫》前編は終了です。
ここまでお読みくださった皆様、心からありがとうございました。
引き続き後編もお楽しみください。あらゆる過去や謎が明らかになります。目が離せませんよ!
後編からは題名を大きく変更してお届けします。
あまりの変わりように驚かないでくださいね!




