老夫婦の金言
休日のある昼下がり、気まぐれな春の風が僕の髪の毛を乱暴に撫でていた。僕は丘の上にある老夫婦の家を再び訪れようとしていた。
扉をノックしようとした時、何やら焦げたような臭いが鼻をつく。そして家の中から叫び声が聞こえてきた。
「大丈夫ですか!?」
緊急事態と判断した僕は、迷わず扉を開けた。すると、室内には煙が充満していた。
「ワン! ワン!」
小型犬が興奮した様子で吠えている。
「婆さん! 水! 水だ!」
「井戸は外ですよお爺さん! 早く汲んできてくださいな!」
僕の視線の先に、老夫婦の姿と赤く燃える炎があった。台所の窯の前で本のような物が燃えていた。
「二人とも離れて下さい!」
僕は精神を集中させて、身体の中の魔力を練る。そして火元の壁に向かって手をかざし、氷の魔法を唱えた。
キィィンッ。
火の塊は薄い氷の膜で覆われ、沈黙した。僕と老夫婦は煙を外に出す為に家中の窓を開ける。
「いやはや。助かったよアズーラル」
老人が白髪の頭を搔きながら安堵した声を出す。
「古い本を処分しようと窯で焼こうとしたの。外でやればいいのにね」
老婆が少し不機嫌な口調で僕にお茶を出してくれる。窯の前に積み上げた本に火が燃え移ったらしい。
「それにしても魔法とは凄いものだ。アズーラル、君は素晴らしい才能の持ち主だ」
「い、いえ。そんなことは。でも、役に立ててよかったです」
老人の感謝の言葉に、僕は恐縮してしまう。魔法が廃れた今の世の中では、僕のように魔法を使える人間は珍しがられるのだ。
でも僕は、魔法が使えるからといって特段優越感を持つことはなかった。
けど、集めた花言葉を魔法の言葉に変えるのは魔力が必要であり、自分にそれが備わっていることについては神に感謝していた。
「······今日は、お二人にお伺いしたいことがあって参りました」
僕は前に座る老夫婦に向かって、結婚とは何かを質問した。あの中年の紳士の忠告の答えを、長く生きた老夫婦なら知っていると思ったからだ。
「······そうじゃなあ。時間は良くも悪くも変化をもたらす。若く初々しい若者も、時と共に歳を重ねる。そうすると身体のあちこちに不具合ができてなあ。ワシも近頃は腰が痛くてな」
「ちょっとお爺さん。アズーラルはあなたの腰の痛みを聞きに来たんじゃないの。結婚して後悔はないのか、それを聞きたいのよ」
「ワシは婆さんと結婚して後悔なんぞしていないぞ。口うるさいとこと、細かいとこがたまに嫌になって後悔するがな」
「してるじゃないですか、後悔。私だってしていますよ。人の話をちゃんと聞かないところ、相談もしないで一人で決めてしまうところ。ホントに嫌になるんだから」
老夫婦に流れる不穏な空気に、僕は居心地が急速に悪くなった。
「······で、でも。二人はこうして一緒にいます。その理由はなんですか?」
僕は場の空気を改善しようと試みる。
「理由? 理由かい? うーん。アズーラルよ、お前さんはせっかちな性格じゃな。人の心は理由なんて単純な言葉では測れるものではないぞ。簡単に答えを出そうとするな。ワシだって処分する本を吟味して悩んで、読み返したら止まらなくなってな」
「お爺さん。またお話が脱線していますよ。アズーラルはなんで夫婦を続けているか私達に聞きたいの」
「夫婦を続ける理由かい? そりゃあ、ワシの奥さんは婆さんしかいないからさ」
老人は自信満々に胸を張って答えた。老婆はため息を漏らし、首を左右に振った。
「アズーラル。夫婦といえど、長く一緒にいると相手が嫌になることもあるわ。嫌になって別れる夫婦もいる。私達はたまたま別れなかったけど、なぜだか貴方に分かるかしら?」
老婆に質問を質問で返され、僕は戸惑いながら必死で考えるが、明確な答えは出なかった。
「一緒にいる理由よ。アズーラル」
「······一緒にいる理由?」
「そう。離れたい理由が四十九個あっても、一緒にいたい理由が五十一個あれば、夫婦は別れないの。たった一個、一緒にいたい理由が多ければね」
老婆のその言葉は僕の頭の中を通り過ぎ、心の中に染み渡るように広がっていく。人生の先輩の金言は、僕に小さくない衝撃を与えた。
「アズーラル。胡蝶蘭の花言葉は「幸福が飛んでくる」じゃ」
老人は微笑みながら、家が代々継承してきた花言葉を僕に明かす。
僕は驚きと嬉しさのあまり声が詰まり、頭を下げるのが精一杯だった。
「アズーラル。あなたはあなたの大切な人から、一緒にいたい理由をたくさん見つけてね。五十一個なんて際どい数じゃなくて」
老婆は微笑みながらそういうと、隣の老人をチラリと一瞥する。老人といえば、その視線から逃れるように口笛を吹きながらテーブルに積まれた本を整理し始める。
「······その本、ちょっと見せていただいてもよろしいですか?」
一冊の本の背表紙が僕の目に留まり、僕は椅子から腰を浮かせた。その本は、花言葉の伝承に関する本だった。
八つの花言葉を継承する家のうち、あと一つだけ見つかっていないことを話すと、老人は快く本を見せてくれた。
そしてその本には、僕がずっと探していた最後の花言葉を継承する家の名前が記されていた。
「······まさか? そんな?」
その名前に僕は驚愕した。アイリスの花言葉を守る家の名はパプグリット家。こんな珍しい家の名は王都でも一つしかなかった。
それは、ラナンの家の名だった。




