常闇の底
丘の上に住む老夫婦から、僕は花言葉を聞き出せなかった。穏やかなあの二人の言葉は、花言葉の魔法に頼ろうとする僕の浅はかさを如実に浮き彫りにした。
「花言葉集めは暗礁に乗り上げたか? アズーラル」
酒場のカウンター越しに、マスターの親父さんが心配そうな声を僕にかける。僕といえば、注文した果実酒とチーズに一切手をつけず黙り込んでいた。
「······親父さん。まだ深い仲になっていない相手にプロポーズなんて間違っているのかな?」
僕は本を抱える仕事中のラナンの姿を思い返す。ラナンとはただの同僚だ。少なくとも彼女は僕のことをそう思っているに違いない。
「まあ、普通は恋人になってある程度付き合ってからするもんだな。だが、せっかちな性格のお前さんはそれが待てないんだろう?」
「······僕だって、いきなり結婚できるなんて思っていないよ。ただ、花言葉の魔法を使って自分のありのままの気持ちを伝えたいだけなんだ」
僕は出口のない迷路に迷い込んだ気分だった。その迷路は地図も灯りもない常闇だった。
「若者よ。結婚なんて不幸なことを考えるのはよしたまえ」
重低音の声が聞こえ横を向くと、中年の紳士が僕の隣に座った。そして手に持ったグラスを一気にあおる。
「気を悪くしないで欲しい、若者よ。君の純粋な気持ちは瑞々しい果実のように素晴らしいものだ。だが結婚はやめておけ。結婚の惨憺たる末路を知る人生の先輩からの忠告だ」
「······な、なぜそこまで言い切れるんですか?」
僕は即座に反論するが、この紳士の言葉からは人を惹きつける力を感じていた。
「恋は盲目だが、いざ結婚生活が始まればすぐに視力を取り戻す。そして目にするのは相手の本当の姿だ」
「ほ、本当の姿?」
「恋人同士だった頃には決して目にすることのできなかった相手の正体さ。生活態度、口調、表情、寝起きの機嫌、こだわり、癖、服や食べ物の嗜好。数々の種明かしに君は果たして耐えられるかい?」
「······す、好きなら。相手の全てを受け入れられるのではないのですか?」
「最初はな。だが結婚相手と過ごす時間は長いぞ? 最初は気になる程度だが、時と共にそれは小さな欠点に思えてくる。そうなれば、相手の長所と思えたことさえ短所に感じてくるのさ」
中年の紳士がグラスを空けると、間髪入れずマスターの親父さんが新しいグラスを彼の前に置く。
「若者よ。結婚とはな、相手に抱いていた幻想という名の目隠しを外す行為なのさ。無論、それは相手にとっても同じ話だ。君が求婚しようとしている女性も、君に失望することになる。遠からずね」
中年の紳士はグラスの液体を飲み干すと、マスターの親父さんに別の酒を注文する。
「······なら、互いに失望するのが結婚というのなら、なぜ人々は結婚するんですか?」
花言葉を集める僕の行為と気持ちを全否定された気分になった僕は、必死に反論を試みる。
「言っただろう? 若者よ。恋は盲目だ。どんな賢者も、恋をすることは止められない。恋に落ち、盲目になった人間は、行き先が見えない暗闇に突き進んでしまうのさ。酒に酔ったような覚束ない足取りでね」
度数の高い酒の臭いを振りまき、中年の紳士は僕に片目を閉じてみせた。 恋の熱に浮かされた人間が、誤って選択するのが結婚という末路。
僕はラナンの顔を思い出し、互いに失望し合う未来を想像してしまう。
ガタッ。
僕は椅子から勢いよく立ち上がり、果実酒を一気飲みする。
「······ご忠告ありがとうございます。でも僕は、やっぱり彼女が好きです。想いを伝えることをやめようとは思いません」
僕はカウンターに銅貨を置き、店の出口に向かって歩き出す。
「若者よ、常闇の深淵を覗きにいくのか?」
背後から聞こえる紳士の言葉に、僕は歩みを止めた。
「······貴方の助言は正しいのかもしれない。でも、それでも。自分の気持ちに嘘をつく理由にはならない」
僕の脳裏に浮かんだのは、微笑みながら幼児に絵本を手渡すラナンの顔だった。
彼女の笑顔を隣で見続けることが叶うのなら、僕は喜んで暗闇に目を閉じ向かっていく。 たとえその先が、奈落の底だとしても。
「······ヒヤシンスの花言葉は、「悲しみを超えた愛」だ。若者よ」
ひときわ響く重低音の声に、僕は驚き後ろを振り返った。
「馴染みのマスターから頼まれてね。誠実な若者の手助けと助言をしてほしいと」
中年の紳士が再び片目を閉じて見せた。マスターの親父さんは照れくさそうな顔をしていた。
「······貴方は、花言葉を守る家の方だったんですね」
「いうべきことはすべて伝えたつもりだ。あとは君次第だ。好きにするといい。誰のものでもない君の人生だ」
紳士はカウンターに頬杖をつき、グラスを高く掲げる。
「······あなたは、結婚して後悔しかありませんでしたか?」
「······いい質問だ、若者よ。他人と過ごす人生は煩わしくも愛おしいと誰かがいったよ。それは君が確かめるんだ。人の言葉ではなく、君自身で」
「······はい。花言葉とご忠告感謝します。マスターもありがとう」
僕は心を込めて人生の先輩たちに頭を下げて礼を述べる。
「若者の未来に乾杯」
店を出る時、紳士のよく通る声が僕の背中に聞こえてきた。




