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最終話 後日 46年目の返事

 柳ケ瀬庵の客間にあるちゃぶ台の上に、飛騨の地図が広げられている。


 赤い丸が、もう三つも書き込まれていた。

 室内にはだしの匂いが漂っている。土間の風鈴が、今日はよく鳴っていた。

 きつねうどんをすすっている太郎の横に美琴が忍び寄る。

 丼ごとかわされ、美琴の箸が空を切った。


「みこちゃんには、わらび餅を買ってきたでしょ」


 ちゃぶ台の隅には、ツバメヤの包みが開いてある。

 わらび餅が良く煎られたきなこに溺れるように並んでいた。


「それはそれ、これはこれです」


 悔しそうにため息をつくと、美琴はわらび餅をひとつ口に入れて、それから話を戻した。


「でも気になりません? 両面宿儺ですよ」

「気にならない」

「高山で目撃談が出とるんです。三件ですよ、三件。行きましょうよ」

「野次馬根性は良くないよ、みこちゃん。依頼もないんでしょ」


 がらり、と戸が勢いよく開いた。


「話は聞かせてもらったぞ、柳ケ瀬太郎!」


 東雲だった。太郎がため息をつく。

 東雲はずかずかと上がり込むと、ちゃぶ台の空いた辺にどっかりと腰を下ろした。


「……ツバメヤか。わかっているじゃないか」


 東雲はわらび餅を一つ手にとり、美琴が止める間もなく一口でほおばる。


「ああっ、それ私のぶん!」


 太郎の湯呑みを奪って飲み干してから、美琴に向かって諭すように指を立てる。


「同盟たるもの、おいしさを分かち合ってこそ!」

「……最後のひとつは、だめですからね」


 名残惜しそうにわらび餅を見つめたあと、東雲は太郎へと向き直る。


「名人のけいちゃんは堪能した。次は飛騨牛だ。高山に、旨い店を知っている」

「ほら! 東雲さんも行くって言ってます」

「話がつながってないよ」

「太郎さんも、ほんとは気になってるくせに」

「……どうだろうね」


 ちゃぶ台を囲んで、店内が騒がしくなっていく。

 その真ん中で、太郎は丼を持ち上げた。

 きつねうどんの揚げを、一口で食べきる。

 湯気の向こうで、目を細めた。


 *


 昼時のはごろもキッチンは、にぎわっていた。


 昼の注文が、次々に飛んでくる。鉄板の音が、それに追いついていく。

 鉄板の前で、祐太郎がけいちゃんを焼いている。じゅう、と音が立って、湯気が顔の高さまで上がった。湯気は、窓の光で白く光った。


 レジの奥で、佐和子がシフト表に手を伸ばして、『八百津』の名札を、外した。

 名札をやさしく握りしめた後、畳んだエプロンと重ねて、棚の奥へとしまった。


 常連の主婦が、レジで弁当を受け取る。


「あら。今日は、夏織ちゃんおらんの」

「夏織ちゃんはな……田舎に、帰ってまったんよ」

「あらあ、寂しなるわねえ」

「ほんとにね」


 言ってから、佐和子は祐太郎の方へと目をやった。

 鉄板の上で、祐太郎の手は止まらなかった。タレを回しかけて、けいちゃんを返す。

 できあがったぶんを、弁当の箱へ移す。夏織と同じように角まで、きっちり詰められていた。

 その胸ポケットから、白いハンカチがのぞいていた。


「祐ちゃん、さっき注文あったで。急ぎやて」

「はい!」


 鉄板に次の鶏肉が置かれ、湯気が勢いよく上がった。

 その湯気の向こうで、店は今日もにぎやかだった。


 *


 その次の、店が休みの日だった。


 祐太郎はひとり、八百津の河原に来ていた。

 夕方の川は、あの日と同じ音が流れている。並んで座った石も、そのままだった。


 紙袋から鮎菓子を出して、両手でそっと二つにちぎる。中の餅が、すこし伸びて切れた。

 頭のほうを、隣の石の上に置く。

 しっぽのほうをひとくちかじると、ほんのりした甘さが口に広がった。


 胸ポケットから出したハンカチには、二つの染みが残っている。指でひとつずつなぞって、たたみ直した。

 そのとき、川下から男の子が駆けてきた。息を切らして、祐太郎の前で止まる。


「ねえ、あの飛行機ってにいちゃんも折れるようになった?」


 あの飛行機、と男の子は言った。どの飛行機のことかは、聞き返さなくてもわかった。


「……見とれよ」


 紙袋から、折り紙を一枚出す。

 教わった順番は、指が半分だけ覚えていた。ここを、こう。あの声のとおりに折っていく。男の子がしゃがみこんで、手元をのぞき込んでいた。


 できたのは、すこし不格好な一機だった。

 勢い良く投げると、ふらつきながらも飛んだ。石をふたつ越えて、落ちる。


「にいちゃん、へたやなあ」

「……練習中や」

「あのお姉ちゃんのやつのほうがよう飛ぶね」

「……そやろ」


 男の子は飛行機を拾って、もう一度投げながら、夕日の河原を駆けていった。声だけが、しばらく聞こえていた。


 祐太郎は、懐からもう一機を出した。

 折り目のそろった、まっすぐな翼。持つと、指が自然にそっとなった。

 一度だけ、翼の折り目を指でなでる。


 立ち上がって構え、川上からの夕方の風が、ちょうどよくなるのを待った。

 手の振りは、彼女のを思い出しながらやった。


 ゆったりと大きく振りかぶり、祐太郎の手から勢いよく紙飛行機が離れていく。


 紙飛行機は風に乗って、川の上をまっすぐに飛んでいく。

 川を越えて、向こう岸の草の上に音もなく降りる。


 もうちょっと、が届いた。


 46年目の返事は、届いただろうか。


 胸ポケットにしまわれたハンカチからは、赤い糸で刺繍された名前がのぞいていた。

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