第94話 8月22日 マスクの下
最終のバスで柳ケ瀬に戻ったころには、すっかり夜になっていた。
祐太郎はアーケードを歩いていく。シャッターの下りた通りの先に、柳ケ瀬庵の行灯だけが点いているのが見えた。
柳ケ瀬庵の戸が開き、畳にいた美琴が立ち上がる。
祐太郎とその後ろを見て、言葉を飲み込んだ。
一人で帰ってきたことが、答えだった。
「……おかえりなさい」
太郎の声は、いつもと変わらないものだった。
「ありがとう、ございました」
祐太郎が深く頭を下げる。
「バス、間に合いましたか」
「……最終で」
美琴が、黙って麦茶を出した。出す手がすこし震えている。祐太郎は両手で受け取る。氷が、からんと鳴った。
畳の上には、帳面と資料の束。一番上の帳面に、几帳面な字が並んでいた。
「記録をまとめておきました」
厚い束だった。この夏のすべてが、そこに積まれていた。
祐太郎は表紙を、一度だけなでた。
「……ここで、預かっといてください」
麦茶を一口飲んで机に置く。
「あの人が、ほんまに生きとった証やから」
胸ポケットから、便箋と、それに添えられていた紙飛行機を出す。
束の上へ、そっと置いた。紙飛行機の翼は、まだまっすぐだった。紙飛行機を離す指がかすかに止まり、そのまま離れていった。
「これも、一緒に」
美琴が資料の束とともに、紙飛行機と便箋をいつくしむような手つきで抱えた。
「……大切に、預かります」
胸ポケットには、ハンカチの角だけがのぞいている。
「一つだけ、手元に置いときたいもんがあるんで」
ハンカチの上に、手のひらを当てた。
太郎が姿勢を正す。
「……ご依頼、完了です」
畳に手をついて、深く頭を下げた。祐太郎も、同じだけ深く頭を下げ返す。
立ち上がるとき、祐太郎は店の中をひとまわり見た。
夏織の座っていた場所で視線が止まる。
そのまま振り切るように祐太郎は戸口へ歩く。戸に手をかけたところで、足が止まった。
「太郎さん」
祐太郎が振り返り、太郎が見上げる。
「口裂け女のマスクの下は……とてもキレイでしたわ」
祐太郎の笑顔に、太郎はほほえみ返し、美琴は深々と頭を下げた。
戸が閉まる音のあと、柳ケ瀬庵には静寂が訪れた。
夜のアーケードを通る風が、風鈴をなでていく。
柳ケ瀬庵を振り返る祐太郎。
障子からは、小さい影の肩に、大きい影がそっと手を置くのが見えた。
祐太郎は胸ポケットの上から一度だけ押さえて、歩き出す。
足音が、ひとりぶん響いた。
*
あくる日の、夕方だった。
縁側に、湯呑みが二つ並んでいる。
署の後輩が茶を飲みに来るのは、めずらしいことではなかった。世間話をして、庭を眺めて、帰っていく。今日もそのつもりで、篠崎は茶を出した。
夕方の光が庭に伸びて、手入れされた植木の影を長くしている。篠崎と漣は、並んで座っていた。
「46年前に篠崎さんが受けた届け……朝比奈夏織の件」
湯呑みを持つ篠崎の手が、止まった。
「解決しましたわ」
篠崎は庭を見たまま、動かない。
「……どういうことや」
短い間があった。
「遺体が見つかったわけやありません。でも最後は、笑っとったそうです。……見届けたもんが、そう言うとった」
篠崎は湯呑みを縁側にゆっくり置いた。
立ち上がって、家の奥へ入っていく。しばらくして戻ってきた手には、古い日誌があった。
表紙の角がすり減って、背に細かい割れが入っている。
縁側に座り直して、膝の上でページをめくっていく。
紙は日に焼けて、鉛筆の字はところどころ薄くなっていた。めくる親指の下を、46年前の日付が流れていった。
篠崎があるページで手を止め、胸ポケットからペンを出す。
鉛筆の細い字の下へ、新しい一行を書き足していく。
新しく書かれた文字は、書かれていたものよりも年老いて見えた。
『2025年8月23日 行方不明者手配解除』。
篠崎が深く息をついて、日誌を閉じる。
「……長い、探しもんやったわ」
閉じた表紙を、手のひらでなでた。それから、庭の先の山のほうへ目をやった。
漣は、冷めた茶を一口飲んだ。それから立ち上がって、篠崎へ深く頭を下げた。
「……ご苦労さんでした」
「……あんたもな」
二人ぶんの湯呑みから、湯気はもう消えていた。
日誌は縁側に置かれたまま、夕日を受けている。
遠くで鳴く蝉の声が、いつの間にかひぐらしの輪唱に変わっていた。




