第93話 8月22日 きれい?と君は訊いた。(祐太郎)
俺の言葉への返事のかわりに、夏織さんがこちらへ向き直る。
夕方の光が後ろから彼女の輪郭を照らして、白いワンピースの裾が川風に揺れていた。川面の光が、輪郭のふちで揺れている。
「ずっと……、訊きたかったことがあります」
静かな、少し震えるような声だった。
自分にできる精一杯は信じることだけ。言葉にすることはできず、ただ俺はうなずいた。
夏織さんは手の中の紙飛行機を俺へ差し出した。
折り目のそろった翼が、指先に触れる。さっきまで夏織さんの手の中にあった紙は、まだすこしあたたかい。
夏織さんは懐からハンカチを取り出して胸に当てると、目を閉じた。
川の音が続いている。風が夏織さんの髪を持ち上げて、おろした。
まつげの先に、光がたまっているのが見える。
そして、ゆっくりと目を開くと、夏織さんの手がマスクにかかった。
あらわになる夏織さんの口元。
夕日が、裂けた傷口を照らしている。
傷は、ただそこにあった。あれだけ忌々しく思っていたはずなのに、その感情はわいてこなかった。
隠すもののなくなった顔が、まっすぐ俺を見ていた。
「わたし……きれい?」
声は、もう震えていなかった。
46年ぶん、待たれていた問い。
ふいに喉の奥が熱くなる。
それでも、目は逸らさなかった。
答えは、とっくに決まっている。
最後の一歩を、踏み出した。
河原の石が、足の下で鳴る音が聞こえた。
マスクのない夏織さんの顔が、息の届く近さにあった。
ハンカチを持ったままの手を、上から包んで握る。指先が冷たかった。俺の手の中で小さく動いて、力が少し抜けるのがわかった。
何も言わずに、唇を重ねた。
夏織さんの目が見開かれ、その瞳の内に夕日が光を灯す。
その目が、ゆっくりと閉じられていった。
川音だけが、続いている。
やわらかくて、あたたかい感触。触れた鼻先が、少しだけくすぐったい。
そして、触れ合っていた体温が遠ざかっていった。
夏織さんの口元の裂け目から、赤みが引いていくのが見えた。
夕日の中で、ゆっくりと、ゆっくりと。
その光の中で、吸い込まれるように傷が消えていき、いまにも泣き出しそうな夏織さんの表情だけが残った。
「やっぱり、……一番きれいや」
夏織さんが確かめるように、自分の唇に指で触れる。
その目から、涙がこぼれた。
慌てて拭こうとしたが、すぐに動けなくなる。
目の前にあったのは、ずっと見たかった夏織さんの笑顔だった。
「やっと、訊けた」
笑顔のまま、涙がこぼれ続けている。
「……ありがとう」
二度目のキスは、夏織さんのほうからだった。
彼女の体が震えているのがわかった。閉じられた瞼のあいだから涙があふれ出て、彼女の頬を伝った。それは俺の頬にも伝わり、合わせた唇の縁を流れていった。
首の後ろに回された彼女の腕に、力が入るのを感じた。
俺も、細い背中に腕を回した。腕の中に、ちゃんと重さがあった。
腕の中の温かさを感じながら目を閉じた。
どれぐらい時間が過ぎたのだろう。
遮られていた夕日が、ふっと瞼を照らした。
強く抱きしめ直した腕には、何の感触もなかった。
あたたかさだけが、最後まで唇に残っている。
頬を伝う涙が、彼女のものか、自分のものかはわからなかった。
手の中には、ハンカチと紙飛行機だけが残っていた。
二つを両手で包んで、額に当てた。
夕日が、川面に反射している。
川の音だけが、変わらずに続いていた。




