第90話 8月22日 ただいま(夏織)
駄菓子屋を出てから、しばらく黙って歩いた。
先に口を開いたのは、わたしだった。
「あそこ、上ってみませんか」
指の先に古い石段がある。木の間に、鳥居が見えていた。
「……ええけど、結構あるぞ」
「競走します?」
「せんわ」
言いながら二人で上った。上るほどにセミの声が近くなって、ふくらはぎが少しずつ張っていくいたみが、かえって心地よかった。途中で一度も休まずに、上りきって振り返ってみる。
木の間から町と川が見えた。屋根がぜんぶ、ちいさく見える。
「帰ってきたー!っていう感じがします」
思わず声が、弾んでしまった。
「一緒に来たかいがあったわ」
祐太郎さんは笑って、わたしは少し恥ずかしかった。
鳥居をくぐると、小さな社があった。手水は、山の水の冷たさだった。指先がきゅっとなる。
ちゃりん、と賽銭の音がして、並んで手を合わせた。
お願いごとは決まっていた。言葉にすると短いのに、手を合わせているあいだじゅう、ずっと同じことを唱えていた。
先に顔を上げると、隣の祐太郎さんは、まだ目を閉じて祈っていた。
少し待って、祐太郎さんに聞いてみた。
「……何をお願いしたんですか」
「内緒や」
「そうですか」
悔しくなって、ちょっとだけすねてみた。
「そっちは、何を頼んだんや」
「内緒です」
「……真似すな」
もう少しすねたふりを続けるつもりだったのに、笑ってしまった。
*
神社の裏から、川へ下りる道があった。下りきると、木曽川が目の前に広がる。
川べりにつくと石段に並んで座って、佐和子さんが渡してくれた紙袋を開けた。
おにぎりの海苔が、角までぴっちり巻いてある。卵焼きと、けいちゃん。水筒のお茶は二人ぶんあった。
わたしの分を渡してくれた祐太郎さんは、目を逸らさなかった。
その目を見ながら、わたしはマスクに手をかける。
息をゆっくり吐いて、外す。
風が、口元に触れた。
祐太郎さんは、まだ目を逸らさない。
見られている。そう思ったのに、こわくなかった。見ていてくれる、だった。
けいちゃんをひと口食べた。噛むと、タレの味が奥から出てくる。
「……おいしい」
「佐和子さんのけいちゃんも、うまいやろ」
「うん。祐太郎さんのとは違う」
「うちは、ばあちゃんのタレやでな」
そう言って祐太郎さんも一緒に食べ始めた。
人と一緒に顔を合わせてご飯を食べる。
たったそれだけのことがわたしには何よりも幸せに感じられた。
「梅と鮭、どっちがええ?」
「うーん……、梅ですかね」
「タレに合いそうやな」
言いながら祐太郎さんがおにぎりを渡してくれた。
確かに濃いタレの味と、さっぱりした梅の相性はピッタリだった。
「うまそうに食うんやな」
「……おなかが空いてたんです」
口の中のごはんを飲み込んでから、笑ってしまった。
箸を止めて、川を見た。
言おうかどうか、迷ったのではない。言うと決めていて、息をそろえていただけだ。
「今度……わたしにも、教えてくださいね。けいちゃんのつくりかた」
祐太郎さんの箸が、止まった。
すこし間があって、祐太郎さんは川のほうを見た。
「……ああ。教えたる」
「約束ですよ」
「……おう」
*
軽くなった紙袋を持って、町はずれのあぜ道をしばらく歩くと一軒の空き家が見えてきた。
伸びきった草が顔を出している門構えの前で足が止まる。
表札はなく、長いあいだ木の板があった場所だけ、色が少し薄くなっていた。
最後にこの門の前に立った夜は、中に入る勇気がなかった。
でも今日は、祐太郎さんが一緒にいてくれる。
わたしは深く息を吸い込んでから、門をくぐった。
家は記憶のままの平屋だった。
わたしは記憶を頼りに玄関横にある大きな鉢をずらすと、その下にあった鍵を手に取った。
家の中は陽の光が少なく、薄暗かったので居間へ行って雨戸をあけることにした。
「……固いな」
「昔から、力がいるんです」
「コツとかやないんか」
がら、と重い音がして、光がひとすじ入った。レールに砂が入っていて、一枚目がいちばん重い。一枚あくたびに、光がひとすじずつ増えていく。二人で一枚ずつ開けていった。
ぜんぶ開くと、昼の光が畳の奥まで差し込んで、埃がゆっくり舞っているのが見えた。
開け放した座敷に風が通って、長く閉じていた家の空気が、すこしずつ入れ替わっていく。
「……ええ家やな」
「はい」
部屋を見回して、柱の前で足を止めた。
段々に並んだ小さな傷跡。
一番下の傷は、しゃがんでも遠かった。これくらいの背だった日が、わたしにもある。
一番上の傷は、思っていたよりずっと低いところにあった。膝を折って、目の高さを合わせる。指で、そっと触れた。
「小さい頃、お父さんが測ってくれてたんです」
「……ここで止まっとるな」
「最後に測ってもらったの小学六年生だったかな。かかとを浮かすと、怒られました」
「ズルはあかんやろ」
柱から手を離して、畳の一箇所に膝をついた。
すり切れて、板ののぞいた畳。そこだけ、色がちがう。長い時間、同じ人が座りつづけた色だ。
「ここが、お父さんの座ってた場所」
その上を、手のひらでなでた。
「新聞を読むのも、ごはんも、ぜんぶ同じ場所でした」
隣に祐太郎さんも膝をついた。
鞄から写真立てを出す。埃は、もうきれいに拭われている。お父さんと、お母さんと、わたし。
棚の上の埃を手で払って、表を向けて立てる。
言う前に、一度だけ心の中で練習した。
息を、ひとつ吸う。
「……ただいま」
写真の前に並んで手を合わせた。線香のかわりに、夏の草の匂いがした。
手を合わせているあいだ、家の中はとても静かだった。セミの声が遠くでしている。
祐太郎さんは、わたしより長く手を合わせていた。
顔を上げると、写真の中の三人に昼の光が届いているのが見えた。




