第89話 8月22日 おかえり(夏織)
バスを降りて、大きく息を吸った。
空気を胸の一番奥まで入れてみる。山と、川と、夏の匂い。
体のほうが先に、帰ってきたことをわかっていた。
空が近くて、セミの声がどこまでも続いている。サビの浮いた停留所の標識をしばらく見上げた。
「こっちです」
気がつくと、先に立って歩いていた。
「道、覚えとるんか」
「わたしが住んでいた町ですから」
道が、覚えているとおりに曲がっていく。覚えのない新しい家が並ぶ通りの先に、覚えのある屋根が見えた。細い坂を上りきったところに、小さな公園があった。
ブランコがふたつ、並んでいる。
並んで腰かけて軽く漕いでみた。きい、きい、と鎖が鳴る。
「ここ、こんなに小さかったかなあ」
「……壊れそうな音しとるぞ」
「昔から、こんな音でした」
鎖を握ったまま笑ってしまった。きしんだ音が、ふたつになる。
「小さいころは、立ちこぎで、どこまでも高く。……よく怒られました」
「見てみたかったな、それ」
ふたつのブランコがゆっくり揺れた。細長い影が、地面で一緒に揺れている。
「ねえ。祐太郎さんの小さいころの話、聞きたいです」
「……なんもおもろない話やぞ」
「面白いかどうかはわたしが決めます」
祐太郎さんは「なんやそれ」と言って笑うと、すこし考えてから話しはじめた。
「うち、両親二人とも学校の先生でな。宿題やっとらんと、すぐばれるんや。やってないやつの顔は見てわかるてよう言われたわ」
「先生の家の子。……大変そう」
「まあそれなりにな。でも授業とかは嫌いやなかったな」
「好きな授業は?」
「……家庭科」
「やっぱり」
「笑うとこちゃうぞ」
でも祐太郎さんも、すこし笑っていた。
「小六の自由研究でな、一週間ぶんの晩ごはんのレシピを作ったんや。考えて、買い出しして、七日ぜんぶ俺が作った」
「すごい」
「そんときの二人の顔がな。……うまいうまい言うて、先生の顔やなかったんや。あれが最初やな、料理っておもろいなと思ったの」
小学生の祐太郎さんが台所に立っているところを思い浮かべてみた。わたしの想像の中の祐太郎さんは手が届かなくて、踏み台を使っていた。それがなんだかおかしくて、少し吹き出してしまう。
「夏織さんは。どんな子やったんや」
「わたしは……この公園で、お父さんによく紙飛行機を作ってもらいました。飛ばすのはお父さんで、拾うのがわたし」
「ふつう逆ちゃうか」
「飛んでいるのを見るのが好きだったんです。よく飛んだんですよ、お父さんの飛行機。それで帰り道に、お母さんには内緒で、お菓子をひとつ買ってもらえるんです」
「なんの菓子や」
「げんこつきなこ。もちもちしていておいしいんですよ」
「食うたことないな」
「祐太郎さんは、どんなお菓子を食べてたんですか」
「うまい棒やろ、ヤングドーナツやろ、ビッグカツやろ……」
「ぜんぶ食べたことないです」
「嘘やろ」
「お菓子、見に行きませんか」
わたしはブランコから勢いよく飛び降りる。小さい頃の方がもっと遠くへ飛べた気がした。
*
公園を出て、坂を下る。角を曲がったところで足が止まった。
「……あのお店、まだある」
色の褪せた暖簾の、古い駄菓子屋だった。ガラス棚の並んだ店先をのぞき込む。甘くてなつかしい匂いがした。
棚に並んだお菓子を端から見ていく。知らないお菓子ばかりで、わたしが知っているものよりもずっとカラフルだった。
そしてわたしの目が、見覚えのある名前で止まる。
「ありました、げんこつきなこ……!」
値札を見て、思わず声を出してしまう。
「値段……だいぶ高くなってる」
「何十年前の話をしとるんや」
となりの棚には、祐太郎さんが話していたお菓子が並んでいた。うまい棒に、ヤングドーナツに、ビッグカツ。色とりどりの袋が、棚からあふれそうになっている。
「いいなあ。祐太郎さんの子どものころは、こんなにいろいろあったんですね」
「買い食いがバレたら、怒られたけどな」
げんこつきなこを一袋とビッグカツを二つ手に取って、祐太郎さんが払ってくれた。
店先にあったベンチに座ってお菓子を分け合う。
「俺はこれがいちばん好きやったな」
言いながらビッグカツを食べる祐太郎さん。わたしも一緒に食べてみる。
初めて食べたはずなのに、なんだか懐かしい味がした。
「……おいしい」
「やろ」
「おかずにもなりそうですね」
「ご飯にもよう合うで」
笑いながら祐太郎さんは、ふた口で食べきってしまった。
少し遅れてわたしもぜんぶ食べ切る。
そして祐太郎さんが、げんこつきなこの封を開け、袋の口を向けてくれた。
マスクの端をすこし持ち上げて、一粒口に入れた。
舌の上で、きなこの味がゆっくりほどけていく。もっちりとした柔らかい噛み応えが懐かしい。
目をつぶると口の中に、父と歩いた帰り道があった。
「うまいな、これ」
ふと横を見ると、祐太郎さんが目を丸くして袋を眺めている。
わたしの大好きなお菓子をほめられて、少しだけ誇らしい気持ちになった。
奥から、年老いた店主のおばあさんが出てきた。げんこつきなこの袋とわたしの顔を見て、目じりを下げる。
「わたしもねえ、それがいっとう好きなんやわ。……いらっしゃい、観光かね」
「……はい。昔、この町に住んでいたので」
「ほうかね。おかえり」
一瞬、息が詰まった気がした。
「……ただいま」
言えたことが、うれしかった。マスクの上で、目が細くなるのが自分でもわかった。
おばあさんは店先に置かれた新聞を手に取って、裏返した。一面に、大きな見出しが見える。あの事件の記事だった。
記事を見るわたしの視線に気付いたのか、おばあさんは苦笑いを見せた。
「口が裂けた女が出るて、孫が本気で怖がっとってな」
新聞が折りたたまれる。
「なんのこたない、頭のおかしなった爺さんの仕業やったんやて」
祐太郎さんが、再びわたしに袋の口を差し出す。
「怪物なんぞ、どこにもおらんかったんやわ」
わたしは、おばあさんの話を聞きながらげんこつきなこを一つ取って口へと入れた。
ふわっと広がるきなこの味が、わたしを落ち着かせてくれた。
店の外では、セミの声だけが続いていた。




