第88話 8月22日 消えてほしくない
美琴は、畳に広げた資料を片づけていた。
二人を送り出したあとの柳ケ瀬庵は、しんとしている。土間の風鈴がかすかに揺れる音が響いているだけだった。ちゃぶ台の隅には、洗って伏せた湯呑みが四つ。一番端に置かれているのは、夏織がいつも使っていた白いものだ。
新聞の切り抜き、書き込みだらけの地図、太郎の帳面。この夏のぜんぶを、そろえて箱へ戻していく。
開いたままの帳面に、夏織の名前があった。
その手が、止まる。
「……二人は、どんな答えを出すんでしょうか」
太郎は答えずに、資料をファイルへと整理している。
「……最近、学校の友だちも、口裂け女の話をしなくなりました」
「……ええ」
「テレビも新聞も、急に詳しく報道するようになりましたよね。犯人の昔のことまで」
「漣さんが、動いてくれたんです。ぜんぶ表に出れば、噂の生きる場所がなくなりますから」
「太郎さんが言っていたとおりに……、ですか」
「噂が消えれば、怪異は形を保てなくなっていく。……残っているのは、朝比奈夏織さんの無念だけです」
美琴は資料の束を膝に置いた。
「もし、祐太郎さんが一緒に生きるほうを選んだら……太郎さんが呪いを引き受けるんですよね」
太郎は、手を止めない。
「そのときは……多分、もうみんなとはいられないと思う」
美琴はうつむいた。
「私は……太郎さんにも、夏織さんにも消えてほしくないです」
「……うん」
それきり、二人は黙って資料を片づけていった。
紐でくくられた束が、箱の中に積まれていく。蓋を閉じる音が、静かな店に響いた。
美琴は箱の上に、そっと手のひらを置いた。
太郎は、自分の右手に一度だけ目を落とした。
*
バスは、山あいの道を走っていた。
乗るときに整理券を二枚取って、祐太郎が片方を渡した。夏織はそれを、大事そうに財布へしまった。
古い型のバスで、座席の背もたれが高い。後ろのほうの席に、二人は並んで座った。窓の外を、山の緑が流れていく。夏織は膝の上の鞄を、両手で押さえていた。
「……緊張しとるんか」
「46年ぶりですから」
夏織は窓に額を寄せた。
「変わってないといいな」
「八百津って、どんな町なんや。……俺、行ったことないんやわ」
「山と、川の町です。道で誰かに会うと、みんな必ず声を掛け合うんです。……あたたかい町ですよ」
「そりゃあええな」
「春には、だんじりのお祭りがあって。船の形をした大きな山車が、三台も出るんです」
「山車が船なんか」
「昔、川の湊で栄えた町だから。三台をつなげると、一隻の船になるんですよ。組み立てには釘を使わないで、藤のつるでぎゅうっと締めるんです」
「……ようできとるなあ」
「おせんべいも有名だったなぁ。かためのやつ。歯にいいんですよ」
「なんやその売り文句」
「それから、秋は栗きんとん」
「食いもんばっかりやな」
「大事なことです」
窓の外を見たまま、夏織は楽しそうに話しつづける。祐太郎が目を細めて聞いていた。祐太郎の膝の紙袋からは、たまに弁当のいい匂いがした。
「お弁当、楽しみですね」
「食いもんの話ばっかりしとったからな」
「……ちゃんと我慢しますよ」
言ってから二人は、おかしそうに笑った。
話しているあいだに、窓の外の家がまばらになっていく。
トンネルをひとつ抜けると、川がすぐ近くになった。
運転席の上のラジオから、ニュースが流れてくる。
「岐阜市内の女性殺害事件で送検された遠藤茂容疑者66歳は、46年前の連続殺人事件でも服役し、今年1月に仮釈放されたばかりでした。警察は、男が当時の事件を模倣したものとみて調べを進めています」
車内の乗客は、誰も顔を上げない。
夏織は、窓の外を見たままだった。
祐太郎はラジオへ目をやり、また窓の外へ目を戻した。
バスは川に沿って、山の奥へ入っていく。
八百津町まで、あとすこしだった。




