第87話 8月22日 いっといで(夏織)
布団を畳んで部屋の隅に重ね、その上に枕をのせた。
柳ケ瀬庵の奥の間に朝の光が届いている。今日は、八百津へ帰る日だ。ゆうべは、ふしぎなくらいよく眠れた。
漣さんが届けてくれた封筒を、膝の前に引き寄せる。
封を切って取り出すと、思っていたよりも厚い紙の束だった。両手にのせると、ずしりと重い。
一番上の紙に『行方不明者届』とあり、届出人の欄には『父 朝比奈幸助』。太くて角ばった、不器用な父の字だ。
日付は昭和53年12月6日、わたしがいなくなった次の日だった。
この書類に記入するときの父は、どんな顔をしていたのだろうか。
そのことを申し訳なく思いながら、一枚めくると同じ書式が出てきて、日付だけが違っていた。
そのまま指を止めずにめくった。年がひとつずつ進み、はじめのほうの紙は古く黄ばんで、新しくなるほど白い。昭和が終わって平成になっても、書類に書かれている内容は変わらない。
2015年の一枚で、手が止まった。
字が、変わっている。細い、やわらかい字で、届出人の欄には『母 朝比奈恵子』とあった。ところどころ、線が細かく震えている。
父と母の字を少し見比べてから、指でなぞった。
少しでも二人の残した痕に触れていたかった。
最後の一枚は2017年で、その先はなかった。
二人は最期まで、わたしを待ち続けてくれていたのだ。
束の上に、涙が一粒落ちた。あわてて指先で拭う。字がにじんでしまう。
気がつくと、足がしびれていた。ずいぶん長いあいだ、読んでいたらしい。
息をひとつ吐いて書類の角をそろえ、封筒へ戻して、ちゃぶ台の上にそっと置いた。
鞄はもうほとんど詰め終えていて、マスクと、財布と、着替えがすこし。それだけの荷物だった。軽いのが、なんだかおかしかった。
そしてわたしはちゃぶ台に置いていた写真立てを手に取った。
お父さんと、お母さんと、わたし。三人で写っている、たった一枚の写真。
そっとその写真を鞄にしまった。
廊下の先から、太郎さんと美琴ちゃんの声が聞こえる。台所のほうでは、水の音もしていた。
立ち上がって部屋を見回したけれど、忘れ物は何もない。
部屋に向かって、小さく頭を下げた。
*
店の前に出て、マスクの紐を耳にかけ直す。
アーケードの通りに、朝の光が差し込んでいて、通りにはまだ人がいない。
わたしの肩には小さな鞄がひとつ。祐太郎さんが隣に立ち、太郎さんと美琴ちゃんがわたしのほうを見ている。
「お待たせしてすみません」
「もういいんですか」
「はい」
わたしは、美琴ちゃんの前に立った。
「美琴ちゃん。……最初に声をかけてくれて、ありがとう」
美琴ちゃんは口を結んだまま、深くうなずいた。何か言おうとして、やめたのがわかった。
そっと抱きしめると、腕の中で肩が小さく震えた。背中に回った手が、わたしの袖をつかむ。鼻をすする音が、小さく聞こえた。泣くのを、こらえてくれている。抱きしめた体は、ちいさくて、あたたかかった。
体を離して、太郎さんへ向き直る。深く頭を下げた。太郎さんも、同じだけ深く礼を返す。
「本当に、ありがとうございました」
「……いってらっしゃい。気を付けて」
太郎さんの声は、いつもどおりのやわらかい声だった。
*
柳ケ瀬庵をあとにしてすぐ、祐太郎さんが言った。
「……鞄、持つか」
「大丈夫です。軽いですから」
「そうか」
人のいない通りに、二人の足音だけが響く。
心地の良い沈黙だった。
この通りを何回くらい一緒に歩いただろう。半歩前を歩く祐太郎さんの背中は、いつしかわたしの一部になっていた。
やるべきことはわかっている。そのことがわたしの気持ちを軽くさせていた。
はごろもキッチンに着くと、祐太郎さんが電話をかけた。
それからほどなくして、佐和子さんが出てきた。
手に持っていた紙袋をわたしの両手に持たせてくれる。作りたての匂いがわたしの鼻をくすぐった。
「はい、お弁当。二人ぶん、詰めといたで。お茶も入っとるでね」
「すみません、朝から」
「ええんよ、そんなん」
「重かったら、祐ちゃんに持たせやあ」
「言われんでもええです」
祐太郎さんが紙袋をわたしの手から取ると、佐和子さんが笑った。
それから佐和子さんは、わたしの両手を上から包んだ。温かい手のひらだった。
「……気を付けて、いっといで」
「はい、いってきます」
佐和子さんの目を見つめる。佐和子さんが何かを言いかけて言葉を飲み込んだのがわかった。
ゆっくりと包みこんでくれていた手が離れていく。
「夏織ちゃん、またな」
「……ええ、また」
出会った時と同じ笑顔を見せてくれた佐和子さん。
今度は笑顔を返すことができたわたしを、少しだけほめてあげたい気分になった。
佐和子さんに頭を下げて再び歩き出す。
しばらく行って振り返ると、佐和子さんはまだシャッターの前に立っていた。わたしが手を振ると、大きく振り返してくれる。エプロンの白が、朝の光の中で揺れていた。
前を向くと、朝の風が少しだけ涼しく、わたしに夏の終わりを予感させた。
バス停に着くと、ベンチの上の時刻表を二人でのぞき込んだ。次のバスまでは、まだ時間がある。
「切符、久しぶりです」
「今は整理券や」
「……整理券」
知らない言葉を、口の中でくり返してみた。祐太郎さんが、すこし笑った。
バスは、時刻どおりにやって来た。




