第86話 8月21日 人の手と、変わらん
夕暮れのアーケードを、太郎は一人歩いていた。
和傘を提げたまま、店じまいの気配の混ざりはじめた通りを歩く。どこかから、揚げ物の匂いが流れてきていた。
向かいから、子供たちが駆けてくる。
「ワタシ、キレイ?」
「にげろー!」
追いかける役の子が、口を手で隠して走っていく。笑い声を残して、子供たちは太郎の脇を駆け抜けていった。次にこの噂が静まるのはいつなのか。永遠なのかそれとも――。
太郎の足が、止まる。
手袋の上から、右手を見つめる。それから握り込んで、また歩き出した。
*
月が、川面に揺れていた。
長良川の河原に、太郎は一人で立っている。対岸に、市街の明かりが低く並んでいた。畳んだ和傘が足元の砂利に置かれ、昼のあいだの熱を、石はまだうっすらと残している。
砂利を踏む音が、背中から近づいてきた。
太郎は振り返らなかった。足音は隣まで来て、止まる。新しいアロハシャツに着替えた東雲が、月明かりの下に並んだ。
「探したぞ。今まで何をしていた」
「お昼は、ごだいさんのきつねうどんを食べに。それから川原町へ行ってぶらぶらと、……新作の和傘を見てきました。それと、ツバメヤのわらび餅も買っておきましたよ。また、みこちゃんと一緒に食べてあげてください」
いつもと変わらない、世間話の声だった。
「そんなことを聞きたいわけじゃない」
「……祐太郎さんの選択次第では、もう僕は柳ケ瀬庵には戻れませんから」
東雲はすぐには返さなかった。しばらく、二人で川を見ていた。
「一つ、聞かせてもらおう」
「なんでしょう」
「……呪いを抑える儀式、そんな事ができるのか」
太郎は川を見たまま答えた。
「ええ、恐らくですが」
言い終わるより早く、東雲が動いた。
右手首がつかまれる。手袋が引き抜かれて、砂利の上に落ちた。
月明かりの下に、太郎の右手があらわになる。
鋭く伸びた爪。手の甲から手首にかけて、うっすらと生えた金色の獣毛。毛の先が、月の光を細かく返していた。
「……これはなんだ」
手首をつかんだまま、東雲が太郎の目を見据える。
「僕は、人ではありません」
声は、静かなままだった。東雲の手が、ゆっくりとほどかれていく。
「夏織さんと同じです。伝承が、顕現した存在」
太郎は東雲の目を、まっすぐに見返した。
「千年前、安倍晴明様にお仕えしていた……妖狐です」
川の音だけがしばらく続いた。
東雲はすぐには何も言わなかった。驚きの声も、問い返しもなかった。
太郎は身をかがめて手袋を拾い、懐へしまった。あらわになったままの右手を、月へかざすように見つめる。
「同じ伝承としての存在なら、呪いを受け取る事はできる」
抑えると、受け取る。今朝聞いた言葉との違いを、東雲は聞き逃さなかった。
「美琴君に、あんな顔をさせてもか」
東雲は太郎のいなくなった柳ケ瀬庵で美琴がどんな顔をしていたのかを知っている。
「僕は、人々の安寧を守るために生まれました」
太郎は川面へ目をやった。月が流れの上で割れては戻っている。
「だったら……人のために、尽くしたい」
長い沈黙があった。東雲は太郎の横顔を、そのあいだずっと見ていた。
「お前のその顔は」
太郎が東雲のほうを向く。
「やっぱり、知らんままのほうが良いんだろうな」
いつかの喫茶店と、同じ言い回しだった。
東雲が右手を差し出した。
太郎は差し出された手と、自分の右手とを見比べた。それから、もはや人の手とは言えなくなった右手で、東雲の手を握り返した。
「……温いな」
東雲は、太郎の手を強く握り直す。
「人の手と、変わらん」
月明かりの下で、太郎は静かに笑った。
*
柳ケ瀬庵で初めて過ごす、静かで穏やかな時間。
祐太郎は枕元の明かりは消して、ろうそくを一本だけ点けた。
小さな炎が、奥の間の壁で揺れている。眠りの邪魔にならず、目を覚ましたときに真っ暗でもない。そのわずかな明かりが、少しだけ安心させてくれた。アーケードの物音は、もうほとんどしなくなっている。
丸一日を、夏織は眠って過ごした。呪いに飲み込まれ、そこから戻ってきてすぐに、つらい過去を話させてしまった。
祐太郎は枕元に、紙飛行機と便箋を並べて置いた。それから写真立てを手に取って、膝の上で見ていた。晴れ着の夏織と、その両親。格子戸の前の、やわらかい光。
布団の寝顔と、写真の笑顔。どちらも変わらない夏織の顔だった。
――俺は、どうしたいんやろうな。
まだ答えの出せそうにない選択よりも、目を覚ましたこの人に最初に何を言うか。それだけだと思うことにした。
手紙には、ありがとうが何度も書いてあった。けいちゃんの思い出も、鮎菓子も、ケーキも、ぜんぶ過去の形で書いてあった。
――過去のことばっかりの手紙や。
だったら、返す言葉は未来の話がいい。
布団の中で、寝息が変わった。
夏織のまぶたが動いて、ゆっくりと目がひらく。
ひらいた目は、天井ではなく最初から祐太郎を見ていた。
「夏織さん」
できるだけ静かに呼んだ。
夏織は祐太郎を見たまま、上半身をゆっくり起こした。握られていたハンカチが、布団の上に滑り落ちる。
その目が、枕元で止まった。
紙飛行機と、便箋。
長いあいだ、そこから動かなかった。ガーゼの上で、何かを言いかけて、唇が閉じる。
謝られる前に祐太郎は口を開いた。
「俺、夏織さんの生まれた場所を……ちゃんと見てみたい」
声は、思ったより普通に出た。ゆうべの座敷で出なかった声が、ちゃんと出たことに少し安心する。
「きのうは夜やったで……」
続く言葉が途切れたとたん、何を言えばいいのかわからなくなった。
あの家も、町も、好きな場所も、思い出の場所も。
何かを言おうとしても、思いだけがどんどんあふれてきてしまう。
「夏織さんと、二人で見たいんや」
祐太郎は、いちばん大きかった思いだけを口にすることにした。
膝の上の写真立てを、両手で差し出した。長く膝に置いていた写真立ては、少しだけあたたかくなっていた。
「……うん」
受け取りながらうなずいた夏織の声は、小さくてまっすぐな声だった。
――敬語やなかったの、初めてやな。
そんな小さなことが、祐太郎にとって何よりも大きく感じた。
夏織のガーゼの上の目がすこし細くなり、写真立てを胸に抱きしめた。
――伝えなあかんことは、まだたくさんある。ご両親のこと。これからのこと。けれどそれは、今夜じゃなくていい。
ろうそくの炎の向こうで、写真を抱く肩が、静かに上下していた。
明日のことは、陽の光の下で話せばいい。
行き先は、もう決まっていた。




