第85話 8月21日 突きつけられる選択
漣の足音が遠ざかると、店の中は静かになった。
アーケードは昼時の賑わいを取り戻している。ちゃぶ台の封筒には、誰もまだ触れていなかった。触れれば、夏織の46年に触れることになる。美琴は絞り直した手ぬぐいをちゃぶ台の端に置いたきり、手のやり場をなくしていた。片隅の東雲は、腕を組んだまま動かない。
長い沈黙のあとで、太郎が口をひらいた。
「祐太郎さん」
太郎が居住まいを正して、祐太郎へ向かい合った。
「前にも言いましたが、呪いを解くことができるのは、きっとあなたです」
「……どういうことですか」
祐太郎は言葉の意味がすぐにはわからなかった。
「誰も愛してはくれないという、朝比奈夏織さんの無念。その無念を晴らせるのは、もうあなたしかいない」
「でも、口裂け女はキレイって答えても……」
美琴が身を乗り出した。答えた者がどうなるか。伝承の先を、この場の誰よりも調べてきたからこそその不安が口をついた。
「呪いに浸食され切っていない今なら、届くかもしれません」
祐太郎は、開いた障子の向こうへ目をやった。
ハンカチを握ったまま、夏織は眠っている。
「……呪いを解いたら、夏織さんはどうなるんですか」
「口元の傷と共に、形を保てなくなるでしょう」
部屋が、止まった。アーケードの物音が、急に遠くなる。
「そんな……!」
美琴の声が裏返った。言いかけた続きを飲み込む。
祐太郎は、言葉の意味を一つずつ確かめた。傷が消える。形を保てなくなる。
それは夏織との別れを意味していた。
「ただ」
太郎の視線が、ちゃぶ台の湯呑みへと落ちる。祐太郎はうつむいたままだった。
「呪いを宿したままではありますが、夏織さんと共に生きていく事が、できるかもしれない」
祐太郎の顔が上がり、太郎へわずかに希望を宿した目を向ける。
「どういうことですか」
「空家では、呪いの浸食を抑える事ができました。もう一度きちんと儀式を行えば、暴走する事もなくなるでしょう」
美琴の目が、太郎の右手の手袋へ動いた。
「……でもそれって!」
太郎の左手が、静かにそれを制した。
美琴は何かを言いたそうにしていたが、やがて膝へと手を戻した。
「夏織さんの問いに答えない。あなたがするのは、たったそれだけです」
「問いに、答えない?」
「夏織さんへの愛を伝えない、ということです。そうすれば、これまでのように共に生きていく事はできる」
愛を、伝えない。
あの晩、訊けやと叫んだ口で。なんでも答えたると言った口で、これから先、何があっても答えない。
きのう八百津の空き家で、夏織に向かって言いかけた言葉を思った。
あの時は口をふさがれて言えなかったが、今度は自分の意志でふさぎ続けることになる。
「どちらを選ぶかは、祐太郎さん。あなたです」
太郎の声は優しいままだったが、逃げ道だけがなかった。
祐太郎の膝の上で、拳が握られた。
答えれば、いなくなる。答えなければ、そばにいられる。
そのかわり、あの問いは永遠に答えられないままになる。
どちらを選んでも、永遠に何かを手放す選択だった。
「今日は、二人でゆっくり過ごしてください。泊って行ってもらっても構いません。その方が安全でしょうから」
太郎は立ち上がって、土間の隅から和傘を取った。
「みこちゃん。東雲さんが起きたら、二人にしてあげるように伝えてあげて」
一同へ深く頭を下げる。それから太郎は一人、戸口を出ていった。
戸が閉まる音がした。
部屋の片隅で、東雲の目が薄くひらいた。




