第84話 8月21日 取り下げられなかった届
朝の光が、店の畳に届いていた。
アーケードの通りで、シャッターの上がる音が順に鳴りはじめている。開け放した障子の向こうで、夏織は眠ったままだった。かたわらに祐太郎と美琴が座っている。ちゃぶ台には、ゆうべ誰も口をつけなかった湯呑みが人数ぶん、そのまま残っていた。部屋の片隅では東雲が、壁に背を預けて腕を組んだまま眠っている。
太郎だけが、帳面を膝に置いたまま夜を越した姿勢で座っている。祐太郎のまばたきは、朝の光の中で目に見えて重くなっていた。それでも、夏織のそばを離れることはなかった。
表の戸が、静かに開く。
「……邪魔するで」
入ってきたのは片手に封筒を提げた漣だった。目の下に、徹夜の跡のようなクマがある。
「漣さん。おはようございます」
「なんでこいつもおるんや」
部屋の片隅で眠る東雲を一瞥して、漣が顔をしかめる。
「昨日は大立ち回りでしたから」
鼻を鳴らして、漣はちゃぶ台の前に座った。
美琴が漣のもとへお茶を運んでくる。すまんな、とひと言かけてからそれをグイっとあおった。
「頼まれとった、朝比奈家の件や」
漣は眠る夏織のほうへ一度目をやってから、手帳を開く。
太郎と美琴、そして祐太郎が一言も聞き漏らすまいと漣の近くへと座った。
「朝比奈夏織の両親は、事件の翌年に八百津を出とる。夜逃げ同然やったそうや」
誰もいないあの座敷を、祐太郎は思い出していた。引き出しを抜いたまま口を開けたタンス。散らばったままの日用品。あれは、そのままの意味だった。
漣が手帳を一枚めくる。
「父親は10年前、母親は8年前に……亡くなっとった」
祐太郎は、開いた障子の向こうの寝顔を見た。もはや晴れ着の写真の中でしか、会うことはできない存在になっていた。ゆうべの語りの中で聞いた、幸せな家族からはかけ離れた結末だった。
「こんなこと、慰めにならんやろうけどな」
漣は手帳を閉じた。
「行方不明届は、取り下げられとらんかった。二人が亡くなるまで、定期的に連絡もあったそうや」
手に提げていた封筒が、太郎へ差し出される。
「二人とも、その子を忘れとったわけやない」
――きっと誰も愛してくれない。
夏織の持つ恐怖に返せる事実が、一つだけ増える。それを本人は知らないまま、障子の向こうで眠っていた。
太郎は左手で封筒を受け取る。右手は、朝から手袋に包まれたままだった。
「……そう、ですか」
それだけ言って、太郎は封筒を膝の上に置いた。
漣が立ち上がる。
「……また来るわ」
戸口で一度だけ、漣は眠る夏織を振り返った。何かを言いかける形に口が動いて、やめた。それから、朝のアーケードへ出ていった。
シャッターの音の続く通りへ、戸の閉まる音が混ざる。
ちゃぶ台の上で、朝の光が封筒の白を照らしていた。
障子の向こうの寝息は、変わらずに続いていた。




