第83話 8月20日 回想 口裂け女の始まり(夏織)
冬枯れの杉木立に、霧が流れていた。
夜どおし歩いて、山に入っていた。途中から、道のないところを歩いていた。
どこをどう歩いたのかは、もうわからない。気が付くと空の東側だけが藍色に薄まって、杉の木の輪郭が見えはじめていた。指はかじかんで、感覚がなかった。
少しだけちらつく雪がかすかな朝焼けを浴びて輝いている。
わたしの心の内側とは正反対の、きれいで静かな時間だった。
目の前に、ちょうど腰の高さの平らな岩があった。
腰を下ろすと、岩の冷たさが体の芯まで届いた。もう二晩も眠っていなかった。傷はもう、痛みの区切りがわからないほどずっと続いている。それなのに頭の中だけが、妙に冷静だった。
帰る場所は、もうどこにもなかった。明義さんの閉めた鍵の音。子どもたちが駆けていく音。障子の向こうで聞こえた両親の笑い声。一日かけて歩き回って、行けない場所を一つずつ確かめていっただけだった。
だからわたしは、どこでもない場所へ行くことにした。
懐から、ハンカチを出して広げる。
15年間、大切にしてきた父からのプレゼント。
隅に、赤い糸の『夏織』。
糸は年月で、少し細くなっていた。
その端の、薄茶けた染み。七つのわたしの血がにじんだ場所に、指先で触れた。
染みの上に、涙が落ちた。
一つ落ちると、止まらなかった。あの晩から一度も出なかった涙が、そこでようやく出た。古い染みのとなりへ、いくつも落ちていった。
口元の包帯に、ハンカチをそっと当てた。
痛いのは、これがぜんぶ吸うてくれるで。
遠くで、父の声がした。縁側でわたしにかけてくれた、あの日の声のままだった。
ハンカチは、あのときと同じようにあたたかくはならなかった。それでも、当てているあいだだけ、息ができた。
優しくていろんなことを教えてくれた父。いつだってわたしの味方だった母。一緒にクリスマスを過ごすはずだった明義さん。
――わたしは、たしかに愛されていたはずでした。
ハンカチを、胸に抱いた。
でももう、きっと誰も愛してくれない。
かじかんだ指で、丁寧にハンカチをたたんだ。少しでもきれいに残しておきたかった。
岩の上に、そっと置く。
置いてからもう一度だけ、指先で整えた。
わたしは立ち上がって歩き出す。
振り返らない、と決めた。一度でも振り返ったら、きっとわたしはもう動けない。
落ち葉を踏む音が、少しずつ霧に吸われて小さくなっていく。見え始めていた杉の輪郭が、一本ずつ霧へと戻っていった。吐く息は、まだ白いままだった。
白い霧の中を、ただひたすらに進んでいった。
そこから先のことを、わたしはもう覚えていない。
*
柳ケ瀬庵にいる誰もが、すぐには口をひらけなかった。
岩の上に置いてきたはずのハンカチが、46年後の夜、夏織の手の中にある。語り終えた頬を、涙がひとすじ伝っていた。涙の跡はそのままに、声だけが静かだった。
祐太郎は拳を握りしめている。太郎は夏織の顔を見据えたまま動かない。美琴は口元をきつく結び、東雲は腕を組んだままだった。店の中の明かりが、話の始まりより小さくなっている。
「……それが、口裂け女の始まりです」
夏織はハンカチを胸に抱きしめて、目を閉じた。
その体から、力が抜けた。
倒れかかるのを、祐太郎がとっさに支える。
「夏織さん!」
太郎が手首の脈を取る。
「……大丈夫。眠っただけです」
祐太郎は夏織を布団へ寝かせて、はだけた布団をかけ直した。東雲がようやく腕を解く。解いた腕を、しばらく組み直さなかった。美琴は目元を拭って、手ぬぐいを絞り直しに立った。それから写真立てを、枕元に立てる。まるで晴れ着の三人が、眠る顔を見守っているように。
夏織の手は、ハンカチを握りしめたままだった。




