第82話 8月20日 回想 鍵のかかる音(夏織)
どうやって岐阜市にいるあの人のもとまで行ったのかは、覚えていない。
途中の記憶は切れ切れにしかなかった。トラックのライト。クラクション。夜の国道で吐く、白い息。
あの人なら、という気持ちだけで歩いていた。傷を見ても変わらないでいてくれる。そう信じたかった人が、一人だけいた。
気が付くと、わたしは明義さんのアパートの外廊下に立っていた。夜はもう深くて、並んだドアはどれも暗かった。一つだけ誰がいるかを知っている部屋の前で、わたしは戸を叩いた。
中で物音がして、明かりが点いた。
「うるさいのぉ、誰や……、っ」
寝間着の明義さんが、途中で言葉をのんだ。短く息を吸う音がして、一歩、下がる。
わたしは口元の包帯に指をかけて、ずらした。
きっと大丈夫。受け入れてくれる。それに何より、この人にだけは隠したくなかった。
「……明義さん、わたし……こんな」
閉まりかけたドアを、手でつかんだ。
「助けて……。きれいやって、言ってください」
手を、伸ばした。
悲鳴と一緒に、その手は払われた。
払われた手の甲がじんと熱かった。痛みより、意味のほうが遅れて届いた。
明義さんの目が、見開かれていた。怒りではなかった。汚いものを見る目でもなかった。
恐怖。
わたしはそこで初めて、自分を支えていた何かが崩れる音を聞いた。
わたしの手からドアが離れて、ゆっくりと閉まっていく。
ドアの向こうで、鍵のかかる音がした。
小さな音だった。その音が、いつまでも耳から離れない。
ドアの木目を、わたしはしばらく見ていた。中の物音は、もうしなかった。
外廊下の電灯の下に、わたしは立ち尽くしていた。白い息だけが、いくつも生まれては消えた。
*
一晩をどこでどう過ごしたのかも、あいまいだった。
気が付けば空が白んでいて、わたしは始発を待つバス停にいた。
夜のあいだに、包帯には血がにじんでいた。隣に並ぼうとした年配の女性が、わたしの顔を見て息をのんだ。
「あんた……! その血どうしたん」
心配してくれたのだと、頭ではわかっていた。それでもわたしの中に残っていたのは明義さんの恐怖を浮かべたあの瞳だった。
無言のまま、わたしはその場を離れた。視線が背中に残って、振り返れなかった。乗れないまま、離れた場所からバスを何本も見送った。
結局、八百津町まで歩いて帰った。国道を、車に背を向けて歩き続けた。足を前に進めることしか、わたしにはできなかった。
*
町に着いたのは、日の傾くころだった。
包帯を押さえて、路地を壁伝いに歩いた。一歩ごとに傷が脈打って、目の奥まで熱かった。
わたしはこらえきれずに、しゃがみこんだ。
向かいから、ランドセルを背負った子どもが二人駆けてきて、立ち止まった。
「大丈夫、お姉ちゃん……うわっ」
「口が、裂けとる!」
二つのランドセルが、来た道を駆け戻っていくのが見える。
壁に背をつけて、わたしはずるずると座り込んだ。
それでも立ち上がったのは、行く場所がまだ一つだけ残っていたからだった。
その日、誰もわたしの名前を呼ばなかった。誰や、あんた、お姉ちゃん。それだけだった。
*
夜になって、わたしは家の前に立った。
門柱に、『朝比奈』の表札がある。障子に、父と母の影が映っていた。影は箸を動かしたり、湯呑みを取ったりしている。あの明かりの中に、わたしの座布団がある。
父の笑い声が、道まで漏れてきた。いつもと同じ、何も知らない笑い声だった。
一歩、踏み出した。
父の影が立ち上がって、障子へ近づいてくる。
とっさに、電柱の陰へ隠れた。
障子が細く開いて、父が紙飛行機を飛ばすのが見えた。
――お父ちゃんなら。……お母ちゃんならきっと。
そう思って踏み出そうとする足を、明義さんのあの瞳が縛り付ける。
しばらくして、障子は閉まった。
闇の中で、指が包帯に触れた。
見られなければ、わたしはまだ、あの笑い声の中の夏織でいられる。この顔を、あの場所へ持ち込むことはできなかった。
きびすを返して、坂を下りた。
家々の明かりに背を向けて、わたしは山のほうへ歩き出した。




