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第81話 8月20日 回想 迫る狂気(夏織)

 バスを降りると、夜になっていた。


 本当は明義さんの家に泊まるつもりだったが、父に早くクリスマスのことを伝えたくて帰ることにした。友達の家に泊まるとごまかしてはいたが、ここでバレてしまって余計な悪印象を持たれるのももったいない。


 吐く息が白くにじむ。頭の中ではまだ、クリスマスの席の並べ方を考えていた。こたつを動かすか、座布団を一枚増やすか。バスの赤いテールランプが、カーブの先へ消えていく。停留所の明かりを離れると、家までの道は街灯がまばらになる。家々の窓の明かりは、道までは届かない。


 坂にかかる手前がいちばん暗いことを、わたしは子どものころから知っていた。急ぎ足になるのは寒さのせいで、それ以外の理由なんてなかった。

 坂の下の暗がりに入ったところで、背中のほうで砂利を踏む音を聞いた。

 町の人なら、声をかけてくる。かけてこないまま、音だけが同じ間隔で続いていた。


 振り返ると、街灯の下に人が立っていた。


 逃げも隠れもしない、まっすぐな立ち方だった。口に、棒付きの飴をくわえている。


「……遠藤、さん?」


 返事はなかった。遠藤さんは無言のまま、まっすぐ距離を詰めてくる。昼間の、腰の低い挨拶と同じ人だとは思えない歩き方だった。


「なあ、なんでわしじゃあかんのや?」


 何の話かわからなかった。昼間の渡り廊下のことが頭をかすめて、消えた。わからないことが、いちばん怖かった。


「あの、……何でここに?」


 後ずさった足が砂利を鳴らす。


 コートの前から、遠藤さんの手が何かを出した。


 包丁だった。


 悲鳴は短くしか出なかった。声を出せば追いつかれる気がして、あとは走ることしかできなかった。


 わたしは背を向けて走った。停留所とは反対の、家のほうへ。灯りのない坂道へ。鞄が肩から落ちても拾わなかった。下駄箱、こたつ、鍋の湯気。頭の中で、家のものだけが順に駆け巡る。


 砂利を踏む音が、少しずつ近くなってくる。


 がくん、という衝撃とともに引き倒されて、抵抗することもできないままわたしは地面に転がった。


 おなかの上に重みが乗って、口を手のひらがふさぐ。声が、行き場をなくした。砂利の一粒一粒が、頬の下で音を立てて冷たく感じた。

 重みの上で、遠藤さんがゆっくりと飴を口から出す気配がした。


「わしな、この飴大好きなんや。……夏織さんも食べてみんか?」


 目の前で、飴が街灯の光を透かして琥珀色に光った。

 覚えているのは、そこまでだった。


 *


 次に覚えているのは、匂いだった。


 ポマードの匂い。手術室を満たすほどの、強い整髪料の匂いだった。

 誰かがわたしの名前を確かめる声がして、答えられなかった。まぶしい照明がにじんで、ゆっくり形を結んでいく。整えられた黒髪の医師が視界を横切った。金属の触れ合う音が、遠くで鳴っている。


 灼けつくような頬の痛み。それでも声を出すこともできない。

 そこでようやく自分の口元が全く動かないことに気が付いた。


 わたしはまばたきもしないで、天井の照明を見ていることしかできなかった。


「まだ若いのに……ひどいもんや」


 医師の声が頭の上でそう言った。

 処置の言葉も、器具の名前も、耳を素通りしていった。


 あの手術室でわたしの中に残ったのは、灼けるような頬の痛みと、ポマードの匂いだけだった。


 *


 消灯のあとの診療所は静かで、廊下の常夜灯だけが点いていた。


 誰にも聞かないまま、わたしはベッドを抜け出した。素足に、廊下の床がやけに冷たく感じる。


 気が付くと、わたしは薄暗い洗面所に立っていた。


 口元には厚い包帯がまかれている。顔の下半分が自分のものではない重さをしていた。

 冷たい洗面台の縁を、指が白くなるまでつかんだ。


 包帯の端に、手をかける。


 一度、指が止まる。それでも、確かめないままではいられなかった。

 ゆっくりと、ほどいていく。一巻きごとに、頬が夜の空気に触れていった。


 鏡を、見た。


 息を吸う音だけがタイルに響いた。

 唇が震えながら動いた。何を言おうとしたのかは、いまでもわからない。声は出なかった。


 膝から、力が抜けた。

 気が付くと、ほどいた包帯を胸に握りしめて、タイルの床にうずくまっていた。傷が痛いのか、寒いのか、それすらもうわからなかった。


 そのとき頭に浮かんでいたのは、愛している人の顔だった。

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