第80話 8月20日 回想 クリスマスの約束(夏織)
12月3日のことだった。
誘うなら今日、と朝から決めていたので、午前の講義の中身はほとんど覚えていない。銀杏はとうに散って、構内の隅に掃き寄せられた落ち葉が茶色く乾いていた。
昼休みの渡り廊下は風が冷たくて、話すたびに息が少し白くなる。柱の陰で、わたしは明義さんと並んで立っていた。
弁当を食べ終わるまで待って、包みを結び直して、それでも言い出せないまま昼休みが半分過ぎた。先に沈黙に気付いたのは明義さんのほうで、どうかしたか、と顔をのぞきこんでくる。その顔に向かって、用意していた言い方ごと忘れて、わたしは言った。
「明義さん。今年のクリスマス、うちに来られますか?」
言ってしまってから、耳が熱くなった。明義さんは目を丸くして、それから声を落とした。
「えっ、もしかして……」
もしかして、の続きは言わなかった。言わないまま、耳まで赤くなっていく。
「わたしらも、もう来年は卒業やし。……予定、大丈夫ですか?」
「全然大丈夫や!……うん、大丈夫」
返事だけが先に出て、あとから理由に追いつく人だった。この人のこういうところが、好きだった。
「ちなみに、夏織のお父さんってどんな人?」
「わたしのことが大好きなお父さん。会わせたい人がおるって話したら、ちょっと不機嫌になってました」
鍋の晩の、湯呑みの陰のへの字を思い出しながら言った。イタズラのつもりだったのに、明義さんは本気の顔で唸った。
「そっかぁ……そら気合い入れなあかんな。あっ、なんか好きな食べ物とかないかな?」
「そんな気合い入れんでも大丈夫ですよ。でも、前に出張で食べたういろうがうまかった、て言うてました」
明義さんは真顔でうなずいて、手のひらに指で何か書きつけた。ういろう、と書いたのだとわかって、わたしは吹き出した。白い息が二つ、混ざって消えた。
そのときだった。
「矢内さん、やっと見つけましたわ」
曲がり角から、飴をくわえた人が歩いてきた。フォーク研の後輩の、遠藤さん。口の端で、棒付きの飴の棒が上下している。二人きりの話が、急に三人の場所になった。
「おう、遠藤。どないした?」
遠藤さんは口から飴を取り出した。
「年末のフォーク研の冬季合宿、そろそろ予算組まんと」
「ああ、そやな……」
明義さんは、後輩に仕事を任せるのが上手な人だった。わたしのほうを少し見て、それから言った。
「遠藤、今度の合宿の仕切り任せてもええか?」
遠藤さんの目が、少しだけ細くなった気がした。
「ああ……クリスマス、ですもんね」
「なんやお前、もしかして聞いてたんか?」
「……なんでもないですわ」
なんでもない、と言いながら、遠藤さんはわたしを見ていた。挨拶にしては少しだけ長い時間だと思いながら、わたしは頭を下げた。サークルの集まりでも数えるほどしか話したことはないが、距離を詰めた話し方をするこの人のことが、わたしは少し苦手だった。
「ええクリスマス、過ごせたらええですね」
遠藤さんは飴をくわえ直して、丁寧に一礼した。歯に飴の当たる、乾いた音がする。来た角のほうへ戻っていく背中で、飴の棒がまた上下していた。
午後の講義のあいだ、頬がゆるみそうになるのを何度も隠した。クリスマスまで、あと三週間。父の好物と、母の得意な料理と、こたつの位置まで考えた。
その日の帰りのバスの中でも、わたしはずっと、クリスマスの献立のことばかり考えていた。




