第79話 8月20日 回想 両親との思い出(夏織)
バスを降りると、町は夕焼けの色をしていた。
背中でバスが走り去って、エンジンの音が遠くなっていく。停留所の標識は白く、『八百津』の文字が塗りたてのように光っていた。額に手をやって、風で乱れた前髪を直す。手の中には畳んだハンカチがあった。
「あらー、おかえり、夏織ちゃん」
買い物籠を提げたキヨおばちゃんが通りすがりに声をかけてくれる。
「ただいま、キヨおばちゃん」
頭を下げて、夕焼けの町並みを歩いた。どの家の窓にも明かりが入りはじめて、夕食時の匂いが道まで届いている。すれ違う人の誰もが、わたしの名前を知っている町だった。坂の下から、豆腐屋のラッパが聞こえてくる。
わたしの家は、坂をのぼった先にあった。
格子戸を引くと、家の中はもう出汁の匂いがしていた。ただいま、と言い終わる前に、台所から声が返ってくる家だった。
その晩は、わたしの大好きな水炊き鍋だった。
ちゃぶ台の真ん中に空のコンロが置かれて、火を待っている。向かいでは父が、広告の紙で紙飛行機を折っていた。大きな指が、細かい折り目の上でだけ慎重になる。爪を立てて、一本ずつ丁寧に筋を入れていく。
「どうや、あたらしい折り方試してみてん」
できあがった一機を父は自慢げに掲げる。45歳にもなって、と思った。
「子どもやないんやから。……どのくらい飛ぶん?」
言いながら、手は受け取っていた。翼を少し開いて、折り方を確かめる。谷折りが一つ増えていた。
「前に教えたったやつより、よう飛ぶぞ」
台所から母が鍋を運んでくる。母はいつも、よそうときはわたしの器からだった。
「ほら、もうはよしまって。夏織、お茶汲んで」
紙飛行機を父に返して、わたしは急須を取った。コンロに火が入る。三人の「いただきます」が重なって、湯気がちゃぶ台の上に立ちのぼった。
「大学は、どうなんや」
「楽しいよ。卒論も順調やし」
「この人ね、近所に自慢して回っとるんやよ。うちの娘は大学生や、て」
「よけいなこと言わんでええんや」
むきになる父がおかしくて、母と笑った。箸を置いたとき、膝の脇に畳んであったハンカチに母が目を留めた。
「まだ使っとるん、それ。染みも取れとらんのに」
「これが、ええの」
手に取ると、隅の染みが指の下にあった。薄茶けて、もうほとんど布の色に溶けている。
この染みがついた日のことなら、覚えている。
わたしが七つのときだった。
何で手を切ったのかは、もう覚えていない。縁側で泣きじゃくるわたしの手のひらに、血がにじんでいた。泣いているあいだも、庭では洗濯物が揺れていた。それだけの傷が、あのころは世界の終わりみたいに痛かった。
駆け寄ってきた父が、紙の包みを持ってきた。ためらいもせずに解いて、箱から出したばかりのハンカチを傷に当てる。
「あんた、それ誕生日のやのに」
母の声に、父は「かまへん」とだけ言った。
白い布に、赤がゆっくりにじんでいく。それを父の大きな手が、そっと押さえていた。
「痛いのは、これがぜんぶ吸うてくれるで。……もう泣かんでええんやよ」
ふしぎと、涙が止まっていった。しゃくり上げる息の間が、少しずつ伸びていく。傷を押さえる父の手は、大きくてすこし乾いていた。
父はハンカチの隅を、わたしに見せた。
「ほれ。夏織の名前も、入れてもろた」
赤い糸で、名前が縫いつけてあった。血のにじんだ布の隅で、その二文字だけがきれいだった。泣きながら、わたしは笑ったのだと思う。
染みを指でなでて、ハンカチを膝へ戻した。鍋の煮える音が、耳に戻ってくる。
鍋の湯気の向こうで、父が箸を動かしている。湯気で顔が半分隠れて、いまなら言える気がした。
「あのさ。今度、お父ちゃんに会わせたい人がおるんやけど」
父の箸が、止まった。
「……前に言うとったやつか?」
うなずくと、父は面白くなさそうに茶をすすった。湯呑みの陰で、口がへの字になっている。
母には、先に話してあった。だから、助け舟を出してくれた。
「あんたも私の実家に来たときは二十歳やったやないの」
母がすかさず言って、わたしと顔を見合わせて笑った。父のへの字がますます深くなる。それがますます、おかしかった。
鍋の湯気があって、父のへの字があって、名前入りのハンカチが膝の脇にあった。
ぜんぶ、ずっと続くと思っていた。




