第78話 8月20日 本当の名前
夏織の瞳が、ゆっくりと動いた。
天井を映していた目が、部屋の中へ焦点が合ってゆく。
「夏織さん……!」
祐太郎が枕元へ身を乗り出す。夏織の目が、声のほうへ向いた。
「ここ……、わたしは」
起き上がろうとする背中を、美琴が急いで支えた。額の手ぬぐいが膝の上へ滑り落ちる。夏織は確かめるように、部屋の中を順に見ていった。布団の重み。障子。敷居の際に立つ東雲。それから、枕元の明かり。
その目が、祐太郎の膝の脇にある、生前の朝比奈夏織が写る写真立てで止まる。
祐太郎は黙って、両手でそれを差し出した。
夏織も、両手で受け取った。埃の拭われたガラスの下で、晴れ着姿の夏織と両親が笑っている。
長いあいだ、夏織は動かなかった。布団の上に写真立てを置いたまま、ただ見ていた。ガーゼの下の呼吸だけが、ゆっくりと続いている。
やがて、写真の面を指がなでた。左の顔から、右の顔へ。
「お父ちゃん。……お母ちゃん」
小さな、けれどはっきりした声だった。
美琴の手が、背中の上で止まる。太郎が静かに口をひらいた。
「……思い出したんですね」
夏織がうなずく。写真から目を上げて、一人ずつの顔を順に見た。それから背すじを立て直し、布団の上で居住まいを正した。
「……わたしの本当の名前は、朝比奈夏織です」
祐太郎が、息をのんだ。
敷居の際で、東雲が腕を組み直す。誰も言葉を挟まなかった。
部屋の隅の明かりがぱちぱちと鳴る音が細く続いている。
「わたしの話を……聞いてもらえますか」
「今晩は休んで、無理せんでも」
祐太郎の声に、夏織は首を横に振った。
「聞いてほしいんです。……いま」
いま、の一言に、祐太郎は口をつぐんだ。
太郎が立ち上がった。土間へ下りて、棚から桐の箱を下ろす。静かな家に、蓋を開ける音がはっきりと響いた。畳んだハンカチを両手で取り上げ、戻ってきて、夏織の前へ膝をつく。
預かっていたものが、持ち主の手へ戻された。
夏織はハンカチを胸元へ引き寄せた。隅の赤い糸が、明かりの下で古びた色をしている。目を閉じて、一度、深く息を吸った。
目を開けたとき、その声はもう震えていなかった。
「わたしは、このハンカチをくれた父のことが大好きでした」




