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第77話 8月20日 成人の記念に

 柳ケ瀬庵の奥の間に、枕元の小さな明かりが一つ点いている。


 布団に寝かされた夏織の口元には、新しいガーゼが当てられていた。血のにじんだ古いガーゼは、もう外されている。大きくなったガーゼが、頬の途中までを覆っていた。


 太郎はその手首に指を添えて、脈を取っている。数えるあいだ、誰も口をきかなかった。障子の向こうの店内は暗く、アーケードの物音も途絶えている。夜は深くなっていた。


「眠っています。しばらくは、目を覚まさないでしょう」


 手首が布団の中へ戻される。美琴が絞った手ぬぐいを、夏織の額にのせた。手ぬぐいの端を整える指が、まだ小さく震えている。空き家の畳に座り込んだときの震えが、抜けきっていないのだった。


 敷居の際では、東雲が湯呑みを傾けている。突き破った障子で裂けたアロハシャツの肩は、そのままになっていた。

 祐太郎は枕元に座り込んで、夏織の寝顔を見つめていた。ガーゼの下で、呼吸だけが規則正しく続いている。


 誰も、次の言葉を探さなかった。探す力がまだ戻っていなかった。


「……俺、動けんかったんです」


 沈黙を破ったのは祐太郎だった。手ぬぐいを直していた美琴の手が止まる。


「守るって決めとったのに。あの人を見て、足が竦んだ」


 膝の上で拳が握られた。爪の跡が残るほど握っても、あの場で動かなかった足の感覚は消えない。口に出せば少しは楽になるかと思ったが、うしろめたさは残ったままだった。


「恥じるな、名人。私でも吹っ飛ばされたんだ」


 湯呑みを傾けたまま、東雲がこともなげに言う。慰めの色はなかった。ただの事実として伝えた声だった。だからかえって、祐太郎は少しだけ息ができた。


「……恐れは、誰にだってあります」


 太郎が静かに続けた。


「46年前の矢内さんも、きっと同じでした」


 その名前に、祐太郎は顔を上げた。

 傷ついた恋人を、戸口で追い返した男。その話を聞かされた晩、祐太郎は腹を立てた。俺なら追い返さん、と思った。


 ――同じや。俺も、動けんかった。


 祐太郎はかつて抱いた怒りの行き場を、見失ってしまっていた。

 しばらくして、祐太郎は汗の染みた上着を脱ごうとした。長い夜になる。せめて身軽になっておこうと袖を抜きかけたところで、内側の重みに手が触れた。


 写真立てだった。


 空き家の畳から拾い上げて、確かめないまま持ち帰ったものだ。取り出して、膝の上に置く。埃の下に、人の顔らしい丸みが透けている。

 袖を近づけて、一度止まった。あの座敷で、これを払おうとした瞬間に襲われた。同じ手の形に、身体が覚えていて竦む。


 それでも、と思い直す。手掛かりがあるかもしれないと太郎は言った。確かめないまま朝を待つことは、もうしたくなかった。


 袖で、埃を拭う。一度。二度。往復させるたびに、硝子の下から色が現れてくる。赤。白。人の輪郭。三度目で、色の褪せた一枚の写真がすっかり現れた。


 晴れ着姿の若い女性が、両親らしき男女に挟まれて笑っている。

 着物の赤は茶色に沈み、紙の白は黄ばんでいた。古い写真だと、ひと目で分かる。

 その中で、顔だけが古びていなかった。

 いま布団で眠っている、夏織の顔だった。


「……なんで」


 写真立てを持つ手が震えはじめた。


「なんで夏織さんが、写っとるんや」


 その声に、美琴が立ち上がって覗き込んだ。息をのむ音がする。


「成人式の写真ですかね……。でも古すぎませんか」


 祐太郎の指が写真の背景を指した。笑う三人の後ろに、縦にそろった細い骨組みが写っている。


「この格子戸……さっきの家や。玄関の前で、撮っとる」


 つい先ほどくぐったばかりの、あの玄関だった。乾いた音を立てて開いた格子戸の前で、三人はやわらかい光の中に立っていた。

 湯呑みの置かれる音がした。東雲が敷居を離れて、写真を上からのぞき込む。


「……答えは一つしかないだろう」


 誰もその一つを口にしないまま、写真立ては太郎の手へ渡った。

 太郎は写真立てを裏へ返した。

 とめ具を一つずつ外して、裏板をそっと持ち上げる。写真の裏に、色の抜けたインクの文字があった。


 『昭和五十二年 成人の記念に 夏織』


 読み上げる声はなかった。四人ぶんの視線だけが、その一行の上にそろっていた。

 太郎は裏板を戻し、写真立てを閉じて、眠る夏織を見た。


「八百津夏織さんは」


 写真立てが、祐太郎の手へ返される。


「46年前に姿を消した朝比奈夏織さん、その人です」


 口にされてしまえば、それしかない答えだった。名字は、見つかった八百津の町から。名前は、握りしめていたハンカチの赤い刺繍から。仮のはずだった名前は、最初から彼女自身のものだった。

 受け取った写真の中で、両親に挟まれた晴れ着の夏織が笑っている。


「……もう帰る場所も、待っとる人もおらんやないか」


 力なく漏らす祐太郎の言葉に、誰も答えなかった。

 太郎は畳の一点を見つめて、あることを考えていた。


 ――矢内明義老人保護。


 最初のヒトガタが告げた八文字。受け取った夜から今日まで、理由の分からないまま従ってきたメッセージ。


「……やっと、わかった」

「太郎さん?」

「なぜ矢内さんを助けなければいけなかったのか」


 太郎は言葉を切って、順に三人を見た。


「矢内さんは、遠藤の企みを知っていた。だから危険を知らせようと、面影を残す夏織さんに近づいたはずです」


 あの晩、矢内は夜道を一人で歩いていた。弁当屋の子に、逃げえと言いに行くために。それを東雲が呼び止めた。


「あの夜、矢内が会おうとしていたのは八百津夏織だったというわけか」


 呼び止めた本人の声は、いつもより低かった。


「目の前に、自分を拒んだ張本人が現れたら――呪いが暴走してもおかしくない」


 もしあの晩、矢内が夏織の前に立っていたら。その先を、誰も口にしなかった。


「じゃあ、口裂け女の呪いは……」


 美琴の声が細くなる。最後まで言ってしまえば、それが答えになる。それでも太郎は、最後まで言葉にした。


「夏織さん自身が、呪いそのものだったんだよ」


 明かりの下で、誰も動かなかった。

 祐太郎は夏織を見つめた。規則正しい呼吸がガーゼを小さく上下させている。


 この寝顔。耳まで裂けたあの口。晴れ着で笑う写真の顔。


 三つが同じ一人の人なのだと、頭ではわかっていても、心のほうが追いつかなかった。


 東雲は黙ったまま、太郎の袖口を見ていた。それでも何も聞かないまま、湯呑みを取り直した。


 そのとき、祐太郎が夏織の顔へ目を戻した。

 ガーゼの上の呼吸が変わっている。

 まぶたが、動いていた。

 ゆっくりと、目が開かれていく。

 誰も、息をのんだまま動けない。

 開かれた夏織の瞳が、静かに天井を映していた。

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