第76話 8月20日 転がる飴(祐太郎)
踏み込みを、東雲さんが正面から受け止めた。
受けた、と思った次の瞬間には、大人一人の身体が浮いていた。細い腕がひと振りされただけだった。東雲さんの背中が縁側の方へ突っ込み、障子を巻き込んで突き破る。破れ目の向こうの板の間で、受け身を取って転がる音が二度、三度と響いた。
「東雲さんっ!」
美琴ちゃんの声が追いかける。破れた障子の穴から、月の光が畳へ薄く流れ込んできた。
返事を確かめる間はなかった。
次の瞬間、俺は畳へ押し倒されていた。
肩が畳を打って、息が詰まる。のしかかってくる重みは、驚くほど軽かった。毎晩となりを歩いた人の、そのままの軽さだった。この軽さがいま、大の男を障子ごと吹き飛ばしたのだ。
顔が、近い。息のかかる距離だった。月明かりを背にして、裂け目の輪郭だけが黒く見える。白い指が伸びてきて、俺の口の端にかかった。冷たい指だった。真夏の夜なのに、指だけが冷えきっていた。爪の先が口の端の薄い皮膚を確かめるように動く。
押し返そうとした腕から、力が抜けた。
突き飛ばせば届く距離だった。その手が上がらない。
どれだけ口が裂けていても、目の前にあるのは夏織さんの顔だった。力の抜けた俺の手は畳の上でひらいたまま、埃を握ることしかできなかった。
せめて、答えよう。
――キレイや。
口をひらきかけた、その唇の上を夏織さんの手が塞ぐ形になった。声は、今度も音にならなかった。
もみ合う拍子に、胸ポケットで何かが動いた。
布地を滑る感触のあと、軽いものが畳へ落ちて転がっていく。畳の目に沿って、からからと乾いた音が遠ざかっていった。
琥珀色の、棒付きの飴だった。
指が、止まった。
爪の先が皮膚に触れたまま、それ以上動かない。家の軋みが止んでいた。見開かれた目が俺から離れて、転がっていく飴を追っていく。
飴を見るその目は、俺を見た目と違っていた。揺れて、竦んで、ずっと幼く見えた。暗い夜道に置き去りにされた子どもの目だった。
夏織さんが仰け反った。
耳のすぐ上で、絶叫が上がる。ガラスをひっかいたような高い声。逃げる声でも、脅す声でもなかった。痛みの声だった。
――お守りやなかったんか、これは。
太郎さんは、飴を肌身離さず持てと言った。お守りです、とも言った。その飴があの人を、いま切りつけるように怯ませている。何がどうなっているのか、俺にはもう分からなかった。
叫びは長く続かなかった。糸が切れたように、夏織さんの身体が崩れ落ちてくる。
俺は畳に膝をついたまま、その軽さを抱き止めた。
「夏織さん!」
やっと声が出た。出たのは答えではなく、名前だった。
返事はない。腕の中の身体は熱く、耳を近づけると浅い息が続いていた。生きとる。その一つだけを、俺は何度も確かめた。
太郎さんが駆け寄って、俺の腕ごしに夏織さんの口元へ右手をかざした。目を閉じて、短く息を吐く。吐いた息がかすかに震えて聞こえた。
裂け目の先から、血の色がすっと引いていった。
見間違いではなかった。耳の際まで届いていた傷の先が、ほんのわずかに浅くなっている。手当てには見えなかった。傷から何かを、太郎さんの右手が吸い出したように見えた。
かざした右手はそのまま、俺たちに見せないまま袖の内へ消えた。太郎さんは何も言わずに立ち上がる。
部屋が静かになっていた。軋みも、埃の渦も、いつのまにか止んでいる。破れた障子から入る月明かりの中を、舞い残った埃だけがゆっくりと下りていった。
「太郎さん、いま……」
座り込んだままの美琴ちゃんが、掠れた声を出した。言いかけた声が途中で消える。
「……応急処置だよ」
それ以上は、誰も聞かなかった。
縁側から、東雲さんが戻ってくる。
肩の埃を払いもしないまま、破れた障子をまたいだ。その目が太郎さんの袖口で一度止まる。何かを言いかけて、やめたのが分かった。それから視線は、俺の腕の中の夏織さんへ移った。
太郎さんは何も気付かなかった顔で東雲さんに聞く。
「大丈夫でしたか?」
「何ともない……が、報酬は上乗せだ」
言いながら東雲さんは、部屋の暗がりへ一度だけ目を配った。もう何もいないことを確かめる、そういう目だった。
畳の隅に、写真立てが伏せて落ちていた。
片腕で夏織さんを支えたまま、俺はそれを拾い上げた。袖を近づけかけて、やめる。さっきは、埃を払って見ようとした瞬間の出来事だった。
――今は、とにかく夏織さんを。
拾った写真立てを上着の内へしまう。手掛かりがあるかもしれない、と太郎さんは言っていた。これが何かは分からないが、持って帰ってから確かめればいい。今はとにかく夏織さんの無事を祈ることしかできない。
気を失った夏織さんを、俺は背負い上げた。背中に体温が移ってきて、肩に浅い寝息がかかる。力の抜けた両手が俺の胸の前で小さく揺れた。
開いたままの障子の向こうに、豆粒の明かりが点々と、玄関のほうまで続いているのが見えた。行きにあれほど長かった廊下が、明かりの点る道になっていた。
あの玄関には、揃えられた靴がある。あれを履かせて、連れて帰る。
「……帰ろう。佐和子さんも、待っとる」




