第75話 8月20日 出なかった声(祐太郎)
障子が乾いた音を立てて引き開けられた。
太郎さんの懐中電灯が、部屋の中をゆっくりと薙いでいく。埃の積もった畳。引き出しを抜いたまま口を開けたタンス。畳のあちこちに散らばった古い日用品。雨戸は閉まったままで、懐中電灯の輪の外は何も見えない。空気が外より生温かった。何年も入れ替わっていない部屋の空気だった。
誰もいない。
そう見えた。廊下の埃を踏んできた一組の足跡は、確かにこの部屋の敷居を越えていた。なのに、光の中のどこにも人の形がない。喉の奥がまた乾いていく。
東雲さんが敷居の内の引っ掛かりへカラビナライトを提げて点した。豆粒の明かりが部屋の輪郭をぼんやりと持ち上げる。太郎さんの照らす光は壁ぎわを順になぞっていった。タンスの陰。部屋の隅。縁側へ続くらしい障子は、閉じられたままだった。
畳の上に、伏せて落ちているものがある。
照らして目を凝らすと、それは写真立てのようだった。何もかもが等しく埃をかぶったこの部屋で、その周りの埃だけが乱れている。最近そこへ落ちたのだと、ひと目で分かった。
気づいたときには歩み寄っていた。東雲さんの半歩前から出てしまっていることも、並びを決めた太郎さんの声も、頭から消えていた。それほど、その一枚から目が離せなかった。
拾い上げる。思ったより軽い。面は厚い埃に覆われて、写っているものは見て取れなかった。ただ、人の顔らしい丸みが埃の下に透けている。
袖で払おうと、腕を上げた、その時――。
埃の匂いの奥で、空気がすっと動いた気がした。
「祐太郎っ!」
声と同時に襟が後ろへ絞まった。視界が横倒しになる。顎が畳を打って、埃の味が口いっぱいに広がった。いま自分の頭があった高さを、白いものが横切っていく。五本の、白い指が見えた。
畳を転がりながら、手から離れた写真立てが、部屋の隅へ滑っていくのが目の端に見える。
起き上がれないまま振り向いた壁で、カラビナライトの明かりが一つ、さえぎられたまま戻らなかった。
悲鳴が部屋を突き抜けた。美琴ちゃんの声だった。
「夏織さんっ!」
太郎さんが叫ぶのと、暗がりから白い腕が伸びるのが同時だった。
東雲さんが半身でかわす。アロハの裾が遅れて揺れるほどの、紙一重だった。返す二撃目が振られる。東雲さんはそれを手刀で外へ払い落とし、流れのまま腕を取って背後へ回り込んだ。衣擦れ。畳の擦れる音。型どおりに、きれいに極まったように見えた。
腕が、動かない。
細い腕だった。夏織さんの、俺がよく知っている細さの腕だった。それが、大の男が全体重をかけてもびくともしない。明かりの下で、白い肌には汗の一粒も浮いていなかった。
畳を踏んだ東雲さんの足が滑る。ずり、という音がした。
手を離して、東雲さんが大きく跳び下がる。着地して、構え直す。上がった肩が初めて大きく上下していた。東雲さんの構えが素人の俺にも本気と分かる形になっている。
「柳ケ瀬太郎っ! 美琴君を下げろ!」
太郎さんが美琴ちゃんの腕を引いて、自分の背へ回した。東雲さんは倒れたままの俺をかばう位置に立つ。二人の背中の向こうに、部屋の暗がりがある。
立て。立たんか。
何度命じても、膝が言うことをきかなかった。畳に手をついたまま、上体だけがかろうじて起きている。太郎さんの背中の陰で、美琴ちゃんが両手で口を押さえているのが見えた。
暗がりの中で、白いものがゆっくりと立ち上がる。
夏織さんだった。
うつむいた顔がゆっくりと上がっていく。マスクはない。裂け目は耳まで届ききって、豆粒の明かりの下で濡れて光っていた。呼吸のたびに、裂け目の端がかすかに動く。見てはいけないものを見ている。頭のどこかがそう叫んでいるのに、目を逸らせない。それでも。
――夏織さんの、目や。
河原で子どもに紙飛行機を折ってやったときの、あの目のままだった。裂けた口の上で、目だけがあの人のままそこにある。
その目がまっすぐ俺を見た。太郎さんでも、東雲さんでもなく。俺を。
「ワタシ……キレイ?」
静かな、夏織さんの声だった。
訊けや、と今朝、俺は叫んだ。
暗いはごろもキッチンへ向かって。なんでも答えたるで、と。あれから車の中でも坂道でも、答える言葉をずっと胸の中で用意してきた。
その問いが、いま来た。よりにもよって、この形で。
「――っ。」
綺麗や。たったそれだけでよかった。その言葉が喉の途中で石になって、息だけがかすれて漏れた。用意してきたはずの言葉は、どこを探しても見当たらない。
足が半歩、後ろへ下がってしまった。
自分の足音が静まり返った部屋にはっきりと鳴った。
その音に応えるように、家全体が軋みはじめた。梁のどこかが低く鳴り、埃が渦を巻いて舞い上がる。カラビナライトの明かりが一斉に揺れて、壁の影が伸び縮みした。
――恐れとる。俺が。それが、伝わっとる。
「約束したはずです! 何を見ても、恐れないと!」
太郎さんの声が軋みを裂いて届いた。
分かっている。分かっていて、足が動かない。竦んだ足の下で、畳がまだ低く軋み続けている。
夏織さんが、俺の方へと踏み込んできた。
畳を蹴る音はなかった。ただ、目の前から距離が消えた。




