第74話 8月20日 揃えられた靴(祐太郎)
坂の下で車が停まると、エンジンの音が消えて、虫の声が急に近くなった。
東雲さんがトランクから懐中電灯を出して、太郎さんへ渡す。美琴ちゃんはペンデュラムを胸の前へ上げた。ペンデュラムが、坂の上の闇へ引かれて揺れている。
「……こっちです」
月と、間の遠い街灯が細い坂道を照らしていた。坂の下の集落にはまだ明かりの点いた家がある。振り子の示す先にだけ、明かりが一つもなかった。
四人で上がっていくあいだ、誰も口をきかなかった。自分の靴の音がいちばん大きく聞こえる。先を急ぎたがる足を、俺は何度も抑えた。
――前へ出るなよ。
車の中で言われた言葉を、胸の中で繰り返す。
振り子の揺れは一歩ごとに強くなっていった。
やがて美琴ちゃんが足を止めた。
「ここです」
腰の高さまで草の伸びた庭の奥に、一軒の空き家が見える。雨戸は閉まり、軒先は闇に溶けている。門柱に表札はなく、外された跡だけが四角く白かった。
門の前で太郎さんが足を止める。
「東雲さんは、祐太郎さんのそばに。何があっても、離れないでください」
「承知した」
東雲さんが俺の半歩前へ出た。アロハシャツの背中が、急に大きく見える。
「みこちゃんは、僕の後ろへ」
短いやり取りだけで、並びが決まった。誰が守られる側なのか、それで分かる。悔しさより先に、俺は膝の力を確かめた。
四人で門をくぐる。夜露を含んだ草が膝から下を重くして、かき分けるたびに濡れた音を立てた。草の中で何かが小さく跳ねて逃げていく。そのたびに息が浅くなった。
玄関は格子戸だった。
細い骨組みが縦にそろって並び、あいだの硝子は白く曇っている。太郎さんが手をかけると、鍵はかかっておらず、乾いた音を立てて戸は開いた。埃と、湿った木の匂いが流れ出てきた。
懐中電灯の光が土間を照らした。
靴が、揃えて脱いであるのが見える。
白っぽく埃をかぶって、つま先が擦り切れた、あの靴。毎晩アパートの外階段を上っていくのを、角を曲がるまで見送った靴だった。
「……夏織さんのや」
声が思ったより掠れて出た。
――靴、揃えて脱いどる。
乱れもせず、玄関の土間の真ん中に。ここまで歩き通して、この暗い家に入って、それでも靴を揃える。それだけのことが胸の奥をつかんで離さなかった。
美琴ちゃんが俺を見た。何も言わなかった。
太郎さんの光が廊下の奥へ伸びる。積もった埃の上に、足跡が続いていた。光がゆっくりと足跡の上を往復する。
「足跡は、入ったきりです。……出た跡は、ない」
まだ、この家の中にいる。
「夏織さん。柳ケ瀬太郎です」
訪問先で名乗るのと同じ、静かでよく通る声だった。
返事はない。
「夏織さん。祐太郎さんも、一緒です」
どこか奥のほうで柱が一度だけ鳴った。それきり、また静かになる。
廊下は長かった。
一列になって、慎重に進む。
先頭の光が届くのは数歩ぶんで、その先は壁も天井も見えない。四人ぶんの床板のきしみが、そろわないまま重なった。閉まったままの戸を一つ、また一つ、開けずに通り過ぎる。戸の向こうで何かが動いた気がして、そのたびに息を止めた。
背後で、かちり、と小さな音がする。
振り向くと、東雲さんが壁の釘へ何かを引っ掛けていた。豆粒ほどの明かりが、ぽつんと点る。
「なんや、それ」
「探偵七つ道具、と言いたいところだが」
腰のポシェットを、東雲さんは俺へ向けてひらいた。小さなカラビナライトがいくつも詰まっている。
「百円ショップの便利グッズだ。こう暗くては、どこから襲われるかわからん」
「……意外とまめなんやな」
「備えあれば憂いなし、だ」
言いながらもう一つを取り出して、少し離れた引っ掛かりへ提げ、点灯させる。数歩進むごとに、東雲さんは同じことをくり返した。手つきに迷いがなくて、この人がこういう場面を何度もくぐってきたのだと分かる。
通ってきた後ろばかりが明るくなって、行く先は暗いままだった。振り返れば、小さな明かりが点々と並んでいる。帰り道の目印だと思いかけて、違うと気づいた。あれは、何かが起きたときに気づくための明かりだ。
廊下の突き当たりに、障子が見えた。
閉じた紙の白さだけが、闇の中に浮いている。あの向こうが、いちばん奥の部屋だ。
――恐れないこと。
初めて柳ケ瀬庵へ行った晩の、太郎さんの言葉が戻ってきた。何を見ても、恐れない。あの時は夏織さんと二人で、顔を見合わせてうなずいた。恐怖は呪いを深める、とも太郎さんは言った。俺が怖がるだけ、あの人の傷が深くなる。
いま、隣に夏織さんはいない。あの障子の向こうにいる。
だから、恐れない。恐れたら、あの人が遠くなる。
胸の中でそう決めて、口の中の乾きを飲み下した。胸ポケットの中で、紙飛行機の先が布ごしに肌へ触れていた。
太郎さんの手が、障子にかかった。




