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第73話 8月20日 柱の傷

 夕方の国道を、東雲の車は東へ走っていた。


 ハンドルを握る東雲、助手席に太郎。革と、日に焼けた樹脂の匂いがする。狭い後部座席で美琴が膝に地図を広げていた。右手から下がったペンデュラムは、八百津町の一点を指したまま揺れずにいた。糸は落とさないように指へ二重に巻かれている。隣の祐太郎は肩が触れる近さで、窓の外へ目をやったきり動かない。


「美琴君。動きは」

「まだないです。多分、ずっとその場所にとどまってます」


 振り子の先を見つめる目は、出発してから一度も上がっていない。

 東雲がウインカーを出し、車は国道の流れへ戻っていく。カーラジオから、ニュースの声が低く流れていた。


 『――岐阜市内の連続殺人事件で逮捕された66歳の男について、警察は余罪を追及する方針で……』


 東雲の指が音を消した。


「それで、柳ケ瀬太郎。相手は何だ」


 太郎は正面を見たまま、少しの間をおいた。


「……口裂け女です」


 ミラーごしに、東雲が太郎を見た。エンジンの音だけが、しばらく続いた。前を向いたまま、東雲は言った。


「わかった」

「……信じるんですか」


 祐太郎が身を乗り出す。


「口裂け女だろうが何だろうが、私が負ける道理はない」

「いや、そういう問題やなくて」


 冗談の色は声のどこにもなかった。聞き返す言葉を探すあいだに、東雲はもう次の車を追い越しにかかっている。アクセルが踏み込まれ、シートに背中が押しつけられて、祐太郎は言葉の続きをのみこんだ。

 山道へ入って、カーブが続きはじめた。


「東雲さん。相手が誰であっても、傷つけないでください」

「注文の多い依頼人だ」


 バックミラーの中の祐太郎へ、東雲の目が動いた。


「名人。私より前へ出るなよ」

「何の名人かわからんなっとるやろ……。気を付けます」


 祐太郎は胸ポケットの上から飴を押さえた。布ごしに、紙飛行機の細い先が指に触れる。


「夏織さん、昨日の夜からずっと歩き通しなんですよね」


 美琴がぽつりと言った。誰への問いでもなかった。誰も、答えなかった。上り坂でエンジンの音が低くなる。

 祐太郎の拳が膝の上で握られた。昨日の夜から、あの人は独りでいたことになる。

 窓の外を夕方の山が流れていく。山あいに影が伸びはじめていた。


 *


 雨戸の隙間から差し込んだ西日が、埃の積もった畳を照らしている。


 建て付けの歪んだタンスが引き出しを半分抜いたまま口を開け、古い日用品が畳のあちこちに散らばっていた。夜逃げのあとのような座敷へ、廊下の暗がりから夏織が入ってくる。


 敷居の内で立ち止まり、ゆっくりと、マスクを外した。ひもが耳から外れて、ガーゼだけが口元に残る。外したマスクは指の間からすべり落ちて、畳の埃の上に残された。


 誰もいない部屋を夏織は歩いていく。散らばった日用品を、よけもせずに踏んでいった。畳を踏むたび埃が舞い上がり、西日の帯の中でなかなか落ちてこない。夏織の影がその帯を横切っていく。


 足が部屋の隅の柱の前で止まった。


 柱に小さな傷が段々に刻まれている。下のものほど低く、一つずつ高くなって並んでいた。その一番上へ夏織の指先が伸びる。


 一番上の傷は、いまの夏織の胸にも届かない。

 指先を触れたまま、夏織は長いあいだ動かなかった。


 部屋の反対側の低い棚の上に、写真立てが一枚、埃をかぶって伏せられていた。


 夏織の足がそちらへ向く。畳の鳴る音が一歩ずつ近づいていった。

 吸い寄せられるように、手が伸びる。指先が厚く積もった埃を二度、三度と払った。木の枠が現れる。


 起こされた写真立てを見て、夏織の目が見開かれていく。

 手から、写真立てが滑り落ちて、乾いた音を立てた。


 夏織の裂けた口が、ひとりでに吊り上がっていく。

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