第72話 8月20日 飴を持たせろ
台所の流しへ、太郎は盆の湯呑みを一つずつ移していった。
三つ目を置いたとき、格子窓の隙間から、白いものが滑り込んできた。
初伝回帰で使われるヒトガタが、差し出した手のひらへ音もなく降りる。
受け取った右手の指先に鋭い痛みが走り、小さく跳ねた。
太郎はその手を握り込み、一度だけひらいて、また閉じた。
太郎は指先で折り目をひらいていく。白い紙に、墨の文字が現れた。
『飴を持たせろ』
書かれた六文字を、太郎はじっと見つめた。
顔を上げて、店内のほうへ目をやる。地図を囲む二人の話し声が、壁ごしにくぐもって届いていた。
太郎はヒトガタを畳み直して、懐へ納めた。
そして台所の引き出しから砂糖を取り出すと、水と合わせて火にかけ、煮詰めてから型へ流し込んだ。
店内では美琴がダウジングの道具をまとめて準備をしている。祐太郎はちゃぶ台の便箋をそっと畳んで、胸ポケットへ戻していた。
太郎は先ほど作ったばかりのべっこう飴を紙に包んで、祐太郎へと渡した。
「祐太郎さん。これを」
差し出された包みを、祐太郎が受け取って確認する。
「……飴、ですか」
「べっこう飴です。肌身離さず、持っていてください」
「伝承では、口裂け女はべっこう飴を投げると、拾ってる間に逃げられる、って言われてます」
美琴が横から言い添える。祐太郎は飴と太郎の顔を、順に見比べた。
「お守りです。無いよりは、ずっといい」
祐太郎はうなずいて、胸ポケットの紙飛行機の隣へ飴を差し入れた。
それから太郎は美琴の左手からハンカチを受け取った。畳むとき、隅の赤い糸の刺繍が指先に触れる。土間へ下りて棚から桐の箱を下ろし、布の上へ納めた。
「持って行かないんですか」
「呪いの依り代です。近づければ、暴走の引き金になりかねない。……ここが、一番安全です」
蓋の内の焼き印が、閉じる間際に一度だけ光を受けた。箱は棚の奥へ押し込まれた。
そのとき表でクラクションが二度鳴った。
引き戸を開けると、店の前に見たことのない型の古い車が停まっていた。
丸みのある車体は磨き込まれ、夕方の光を照り返している。その横に立つ男のアロハシャツが、路地の中で一つだけ派手だった。
「迎えに来たぞ」
「東雲さん!」
美琴の声に、男は片手を上げて応える。それから祐太郎に気付くと、芝居がかった一礼をした。
「初めましてだ、けいちゃん名人。私は烏天狗探偵事務所の東雲綜一郎。柳ケ瀬太郎に雇われた」
「……けいちゃん名人?」
「美琴君から聞いてるぞ。とんでもなくうまいけいちゃんを作るそうじゃないか。無事に戻ったら、ぜひ堪能させてもらおう」
「あれ、五十鈴ちゃんは?」
車をのぞきこんだ美琴に、東雲は太郎から荷物を受け取りながら答えた。
「今回の依頼はボディガード。物騒な場所へ、ちびっこを連れてはいけまい」
依頼、の一言に、祐太郎の目が太郎へ動いた。
「もし夏織さんの呪いが暴走したなら……一番危ないのは祐太郎さん、あなたです」
「……俺のことよりも」
「あなたが傷つけば、夏織さんはどうなりますか」
祐太郎が言葉に詰まった。太郎は目をそらさなかった。
「だから、絶対に傷つけさせない。……頼りにしてます」
太郎が東雲へ深く頭を下げる。東雲は大げさに胸を張った。
「たっぷりふんだくってやる。行くなら急げ」
トランクの蓋が重い音を立てて閉まる。後部座席に、祐太郎と美琴が乗り込んだ。
「せまっ! ……夏織さん、乗るかなぁ」
「けいちゃん名人の膝の上にでも乗せればいいだろう」
天井に頭がつきそうで、祐太郎が首をすくめる。言いながら東雲が運転席へ、太郎が助手席へ収まった。扉の閉まる音が二つ重なる。
車は路地をゆっくりと抜けていった。バックミラーの中で、柳ケ瀬庵の軒看板が小さくなっていく。




