第71話 8月20日 噂が消えるまで
山に囲まれた、小さな町並みだった。
低い屋根の家々のあいだに、夏の畑と、シャッターを下ろした商店が挟まっている。日は山の端に近づいて、家々の影が道を横切っていた。歩く人の姿はまばらで、ひぐらしの声だけが道に満ちている。そこへ市営のバスが一台、ゆっくりと走ってくる。
道ばたの標識に、さびの浮いた『八百津町』の文字。その下の時刻表に並んでいるのは、一日に数本きりの数字だった。標識の向こうに見える山なみは、影へ沈みはじめている。風はなく、傾いた日の光がまだ標識の面を照らしていた。
その道を夏織が歩いていく。
運転手が気付いて、バスが速度を落とした。バス停に寄せて停まり、乗降口の扉が開く。開いた扉から、冷房の風がこぼれてくる。それにも夏織は目を向けず、扉の横を通り過ぎていった。運転手が首をかしげながら、開閉のボタンを押す。
『発車します。手すり、つり革にしっかりとおつかまりください』
誰も乗せないまま、アナウンスの声だけを残して、バスは夏織を追い越していった。その足はまだ止まらない。
*
振り子はまだ八百津町を指したまま動かずにいる。西日が、その影を畳へ細く落としていた。
祐太郎が勢いよく立ち上がった。畳を鳴らして土間へ下りようとした肩を、太郎がつかんで止める。
「祐太郎さん。出る前に、聞いてください」
「今すぐ行かんと!」
「夏織さんを助けるためです!」
同じ強さで返された声に、伸ばしかけた足が止まった。
肩をつかむ手は離れない。にらむように太郎を見返していた祐太郎の目から、少しずつ力が抜けていった。ここで振り払って駆け出しても、行き先の町は広い。
「落ち着いてください。……いいですか」
祐太郎は大きく息を吸って、吐いた。それから畳へ膝を戻し、座り直す。太郎も手を離して向かいに腰を下ろし、かたわらの美琴にも目を配った。
「口裂け女の呪いは、おそらく三つの要素が絡み合って生まれています」
太郎が指を一本、立てる。
「一つ。46年前、口を裂かれ、恋人にも拒まれて、失意のまま世を去った、朝比奈さんの無念」
数えるような、静かな声だった。二本目の指を立てて、太郎は続けた。
「二つ。その口を裂いた、遠藤茂の歪んだ怨念」
三本目を立てる代わりに、太郎は畳の隅から週刊誌を引き寄せ、三人の真ん中へ置いた。ぼかしの入った部屋の写真が表紙に載った号だった。発売から数日しかたっていないのに、表紙の端はもう手ずれで柔らかくなっている。
「そして最後の一つが、口裂け女を語り、恐れる人々の噂です」
「遠藤は、三日前に逮捕されましたよね」
美琴が地図の上へ身を乗り出した。
「そう。46年前は、遠藤の逮捕で噂も終息した。……でも」
「でも?」
「現代のほうが、噂の広まるスピードは速い。その分、収まるまで待つ余裕がありません」
美琴の指が、地図の縁をなぞって止まった。
「太郎さん。……一つ、ずっと引っかかってることがあるんです」
「なんだろう」
「伝承だと、キレイと答えても、違うと答えても殺されるんです。答えの中身で結果が変わらないなら、あれは、キレイかどうかを訊いてるわけじゃないと思うんです」
太郎が顔を上げた。
「取調べで遠藤は、口裂け女の話ばかりしていたそうですね。生んだ、育てた、って。……あの人の動機は、憎しみじゃなくて、歪んだかたちの愛でした」
「うん」
「その愛が、口裂け女を生んだんだとしたら」
美琴はそこで一度、言葉を切った。
「口裂け女は、確かめてるんだと思います。わたしに愛を向けるのか、って」
昼と同じ暑さのまま、店の中が静かになった。太郎は美琴を見て、それから、地図の一点を見つめたままの祐太郎へ目をやる。
太郎が、確かめるように口をひらいた。
「口裂け女は自分を愛する者を殺す?」
「はい。……だから祐太郎さんが、今の夏織さんと会うのは」
「それでもええ!」
言いかけた美琴を、祐太郎の言葉が遮った。
「絶対、夏織さんを人殺しにはさせん。あの人を一人にも、……させん」
絞り出すような声だった。祐太郎は膝の上で、拳を握り直す。骨の形が浮くほど、力がこもっていた。一拍おいて、太郎はまっすぐその目を見返す。
「きっと、朝比奈夏織さんの無念を晴らせるのは祐太郎さんしかいない」
指が地図の一点へ下りる。振り子が止まったままの、八百津町の文字の上だった。
「方法は、まだ見つかっていません。……でも、夏織さんが向かったこの町に、何か手掛かりがあるかもしれない」
手掛かり。その一言だけで、いまの祐太郎には十分だった。行って、捜して、見つける。順番はそれだけでいい。
太郎は盆を引き寄せて、冷めた湯呑みを一つずつ載せていく。それを持って、太郎は立ち上がる。
「頼りになる助っ人が来たら、出発しましょう」




