第70話 8月20日 止まった鎖
頭の上まで来た日が、山あいへ入った県道を照りつけている。アスファルトの照り返しに、先の景色が揺らいでいた。
夏織は、ガードレールに沿って、同じ歩幅のまま白線を踏んでいく。口元にはガーゼの上からマスクを重ねている
。
息は乱れていない。首すじに、汗の一粒も浮いていなかった。
追い越していく大型トラックの風に髪があおられても、足は乱れない。靴の先は擦り切れ始めていた。
横を通り過ぎる車の運転席から向けられる視線に、夏織はうつむいて顔を隠す。車が通り過ぎたあとも、歩く速さは変わらなかった。
やがて、青い道路標識が近づいてくる。
『八百津町』。
夏織は標識を、足を止めないまま通り過ぎていった。
*
柱の時計が、2時を回っていた。
柳ケ瀬庵の畳に、岐阜県の地図が広げられている。
正座した美琴が左手に夏織のハンカチを握りこみ、右手からペンデュラムを垂らしている。振り子は小さな円を描いたまま、いつまでも一点に定まらない。かたわらの湯呑みは、口をつけないまま冷めきっていた。
朝いちばんに、太郎が棚の桐の箱を下ろして夏織から預かっていたハンカチを出した。十時に美琴が駆けつけてから、地図は広げられたままになっている。今はこれ以外に、夏織へつながる手がかりがなかった。
表の戸が勢いよく開いて、祐太郎が駆け込んでくる。
「おらんかった。アパートも、病院も、河原にも」
店内へ入ってくると畳に手をついて、肩で大きく息をついている。汗の染みたシャツの胸ポケットには、夏織の折った紙飛行機が差さったままだった。
「お店には」
「佐和子さんには伝えときました。……店を開けて、待っとってくれるそうです」
太郎の短い問いに答えながら、祐太郎は地図を挟んで美琴の向かいに膝をついた。夜明けから走りどおしの息が、なかなか静まらない。
「美琴ちゃん、なんか分かったか」
「……ごめんなさい。多分まだもう少し」
美琴はペンデュラムから目を離さずに答えた。謝ることなんかない、と言いかけて、祐太郎はその言葉をのみこんだ。昼前からずっと、この人は同じ姿勢で振り子を垂らし続けている。汗がこめかみから顎へ伝っていた。
「夏織さんに……、訊いてほしいことが、あるんですよね」
地図を見つめたまま、美琴が言った。
祐太郎は、深くうなずいた。喉の奥がつかえて、声にはならなかった。
「大丈夫。きっとまだ間に合います」
帳面を閉じて、太郎が言った。祐太郎はその言葉を信じるしかなかった。
*
西日が、畳の縁をこえて地図の端まで届いていた。
柱の時計は五時を回っている。ちゃぶ台の上には夏織の便箋がひらいたまま置かれ、祐太郎はそれを見つめ続けていた。何度もひらいては畳んだ折り目が、白くやわらかくなっている。ここへ戻るまでに何度か立ち上がっては表の路地を見に行き、また同じ場所へ座り直した。
美琴の右手はまだ地図の上にある。指の形は昼と変わらないまま、汗だけが手首を伝っていた。太郎が差し替えた湯呑みが、また冷めはじめている。
回り続けていた円が、ふいに小さくなった。
誰も、声を出さなかった。息を詰めた三人の真ん中で、円は回るごとに縮んで、十円玉ほどの大きさになり、やがて点になる。ペンデュラムは糸を張りつめたまま、一点の上でぴたりと止まった。
振り子の先の真下に、『八百津町』の文字。
「太郎さん!」
「止まったってことは、夏織さんがそこにおるんか」
腰を浮かせた祐太郎に、美琴が首を横に振った。
「恐らくそうだと思います」
美琴は振り子から目を離さずに続けた。
「たぶんこの町のどこかに夏織さんがとどまっているはずです。ですが、……この町のどこか、まではまだ分かりません」
それでも、と美琴は続けようとしてやめた。夜明けから半日、何も分からなかったところへ、行き先が一つできた。
「八百津町……夏織さんが、見つかった町や」




