第69話 8月20日 訊けや(祐太郎/夏織)
目を覚ますと、障子の外が青み始めていた。
俺は壁にもたれたまま、眠っていたらしい。首を起こした拍子に、組んでいた腕がほどけた。何時間眠ったのかは分からない。ただ、部屋の空気が違った気がした。
布団が、畳まれている。
「……夏織さん?」
触れてみると、ぬくもりはもう残っていなかった。
ちゃぶ台の上に、白いものが置かれている。
便箋が一枚と、その横に紙飛行機が一機、添えられていた。
嫌な予感が胸をよぎって、俺は便箋を手に取った。
書き出しのあて名は、俺の名前だった。
『わたしのことを本当に大切に思ってくれて、ありがとうございます』
見慣れた、丸い字だった。注文の伝票で毎日見ていた字が、いまは別のもののように見えた。
『でも、これ以上あなたに迷惑をかけることはできません』
迷惑。
その二文字のところだけ、鉛筆の線が震えている気がした。
便箋と紙飛行機をつかんで、俺は障子を開けた。土間へ駆け下りる。店の明かりの下で、太郎さんが顔を上げた。
「どうしました?」
「夏織さん見てないか!」
「いえ、僕は見てませんが……」
最後まで聞かずに、戸を開け放して外へ出た。
未明のアーケードには、誰もいなかった。
閉まったシャッターの並びを、俺は走り抜けていく。自分の足音だけが、シャッターに跳ね返ってきた。
「夏織さん!」
人のいない通りに、自分の声だけが響いて、消えていく。
この道は、二人で何度も歩いた。夏織さんは半歩うしろを歩く癖があって、俺はそのぶん歩幅を緩めた。
街灯の下を通るたび、二つの影が伸びて、縮んだ。あの歩幅のまま走れたら、と思う。
あの人と並んで歩いた足が、いまは追いつくために動いていた。
*
夜の店の中で、わたしは鉛筆を走らせている。
マスクは外したままだった。机の明かりの届かないところで、頬の裂け目があらわになっている。誰も見ていない夜だけは、この顔のままで居られた。
『あなたと過ごしたはごろもキッチンでの日々と、一緒に帰り道で過ごした時間は、わたしにとってかけがえのない思い出です』
書きながら、浮かんでくるのは何気ない、祐太郎さんと過ごした日常だった。
換気扇の音。鉄板の上で鳴るけいちゃんの音。売り切れの札を出すときの、少し得意そうな顔。おつかれさま、と言い合うだけの夕方。手紙では書ききれないほどの思い出があれば、きっとわたしは耐えられる。
『汗だくになりながら、けいちゃんを焼いているあなたの横顔。頭のほうが甘いと、鮎菓子を分けてくれた時の優しさ』
鮎菓子は、いつも頭のほうをわたしにくれた。おばあちゃんから教えてもらった、優しい食べ方。「おばあちゃんっ子なんですね」と言った時の、少しはにかんだ顔が愛おしい。
『佐和子さんの誕生日に一緒に食べたケーキは、胸がいっぱいになるくらい幸せな味でした』
書いても書いても、思い出のほうが先に増えていく。
『思い出を増やそうと言ってくれた、あなたの照れ臭そうな笑顔もわたしの大切な思い出です』
*
アパートの外階段を、一段飛ばしに駆け上がった。
二階の一番手前が、夏織さんの部屋だった。何度もここまで送って、扉が閉まるまで見届けた場所だ。その扉を、俺は叩いた。
「夏織さん、おったら開けてくれ!」
叩いても、叩いても、返事はなかった。隣の部屋の明かりが点いて、すぐに消えた。それでも叩いた。新聞受けの隙間から、暗い部屋の空気だけが流れてくる。
ここで頭を下げる夏織さんを、いつも角を曲がるまで振り返って見た。
その扉の前に、いまは俺しかいなかった。
*
障子の向こうで、祐太郎さんの寝言が聞こえた気がした。
鉛筆が止まる。
薄い紙一枚の向こうで、あの人は眠っている。
起きて引き止めてほしい、と一度だけ思って、その考えを消した。
起きてしまったら、きっとわたしは――。
息をひとつ吐いて、続きを書いた。
『あなたに会えてよかった』
この一行だけは、書く前から決まっていた。
*
河原の草の斜面を、駆け下りた。
紙飛行機を飛ばした場所に、誰もいない。白み始めた川面が、ゆっくり流れているだけだった。あの日、夏織さんが折り方を教えた少年はどうしているだろうか。
あの時、夏織さんは俺に何かを聞きかけた。
膝に手をついて、俺は息を整えた。
立ち止まったまま、便箋をもう一度ひらく。
行き先が書いてないか。誰かの名前がないか。目を走らせても、書いてあるのは思い出のことばかりだった。
その先に、行が少し空いていた。
『ひとつだけ、訊きたいことがあります』
空いた行の下の一文を、俺は何度も読んだ。
*
最後の一行だけ、少し迷ってから書いた。
『でも返事をもらったら、きっとわたしは終わってしまう』
どうしてかは分からない。ただ、そうなると分かっていた。
『だから、訊かないまま行きます』
――さようなら。
心の中でそう呟いた。その一文を書かないことが、わたしのささやかな未練だった。
『名前もわからないそのままのわたしを、受け入れてくれてありがとう』
鉛筆を、机に置いた。
書き終えた便箋の横で、新しい紙を一枚破る。
角と角を合わせて、折っていく。河原で少年に教えた紙飛行機の折り方。あの日と変わらず、手が覚えていた。
便箋と紙飛行機を持って、奥の間の障子を音のしないように開けた。ちゃぶ台の上に、二つを並べて置く。祐太郎さんの寝息は変わらなかった。
外へ出て、障子を閉める。その障子へ向かって、頭を下げた。
土間へ下りて、マスクをガーゼの上からつける。ひもが、耳の後ろで少し震えた。静かに戸を引いて、夜の路地へ出る。
川沿いの道は、街灯の間隔がだんだん広くなっていく。振り返らないと決めていたから、自分の足の音だけを数えて歩いた。
最後の街灯を過ぎると、あとは闇が広がるだけだった。
わたしは、その中へ入っていった。
*
はごろもキッチンの前で、俺は足を止めた。
シャッターは閉まって、店の中は暗いままだった。いつもなら仕込みの明かりが点く時間まで、あと少しのはずだった。
肩で息をしながら、手の中の便箋を見た。握りすぎて、端が汗でやわらかくなっていた。
訊かないまま行きます。返事をもらったら、終わってしまう。
そんなん、あるか。
「……訊けや」
声がかすれて出た。息を吸い直して、暗い店へ向かって叫んだ。
「なんでも答えたるで。訊けや!」
白み始めた商店街に、俺の声が響いて消える。
手の中で、紙飛行機が朝の風を受けていた。




