第68話 8月20日 手のやり場(夏織)
深い水の底から顔を出すように、わたしは目を覚ました。
部屋には小さな明かりが一つ点いている。見慣れてきた木目の天井。
ここが柳ケ瀬庵の奥の間だとは気づいたけれど、今が夜の何時なのかは分からなかった。
上半身だけ起きてみると、身体が軽かった。
あんなに重かった腕がすっと持ち上がって、頬の痛みも遠くにある。治ってきたのだろうか。そう思えるくらい、静かな夜だった。
ふと横を見ると、壁にもたれて祐太郎さんが眠っていた。
音を立てないように、祐太郎さんへと近づく。
寝顔を初めてちゃんと見た。眉の間のしわが眠っていても消えていなくて、口が半分開いていた。
この人は、何日眠っていないのだろう。
わたしのせいで。
そう思っていると、無意識に自分の手が伸びた。
起こすつもりはない。ただ、触れたかった。
指先が、祐太郎さんの唇に触れる。あたたかくて、息が指にかかった。
そして、わたしの手は唇に触れたまま、動けなくなった。
少しずつ指が、開いていく。
わたしの指なのに、わたしのものじゃなかった。
五本の指に力がこもり、唇を這いながらその端へ――。
心臓が止まるような胸の痛みに、息ができなくなる。
とっさに片方の手で手首を強くつかむ。爪が食い込むくらい、強く。
指はまだ開こうとしていた。手首ごと引き剥がして後ずさると、背中が壁に当たった。
叫びそうになった口を、両手で押さえた。
手のひらに、ぬるいものが触れた。
明かりにかざすと、血だった。ガーゼの端から、伝ってきている。口の中に鉄の味が広がっていた。
身体が軽かった理由を、考えたくなかった。
祐太郎さんの口元を確かめるように見た。傷はなくて、指が触れただけで済んでいた。
何も知らずに、祐太郎さんは寝息を立てている。
壁に背中をつけたまま、わたしは長いあいだ動けずにいた。
心臓の音が耳の奥で鳴って、夏の夜なのに指の先が冷たい。両手を膝の下に敷いても、指の付け根はときどき小さく跳ねた。跳ねるたびに膝へ力をこめながら、自分の手から目を離せずにいる。
怖いものは、ずっと外にあると思っていた。噂も、知らない人の視線も、電柱の陰に立つ帽子の男も、みんな外のものだった。だから戸締まりをして、マスクをして、送ってもらって帰った。そうやって守ってもらえば大丈夫なのだと、昨日までのわたしは思っていた。
いちばん怖いものは、わたしの中にいるものだ。
今は止められたけれど、次はきっと――。
その先を想像するだけで、絶望と恐怖に押しつぶされそうになる。
わたしは自分の気持ちを落ち着かせるように、祐太郎さんの寝息を数えた。
十。二十。三十。
数えているあいだは、正気を保っていられる気がした。それでも早鐘のように打つ鼓動は、しばらく戻らなかった。
どれくらいの時間がたったのだろう。外の闇が少し薄くなっていることに気がついた。
朝が来ても、夜はまた来る。
ここにいる限り、毎晩こうして自分の中に潜む何かにおびえ続けることになる。
祐太郎さんは眠らないでそばにいようとするだろうし、いつかきっと、わたしはわたしでいられなくなる。
出ていくしかない、と思った。思ってしまえば簡単なことで、ずっと前からそこに置いてあった答えのような気がした。
布団から出て、音をたてないように畳を進んだ。敷居の前で一度だけ振り返ると、祐太郎さんは壁にもたれたまま眠っていた。
障子を、音のしないように開けて、閉めた。
*
店の中は、まだ暗かった。
ガラスケースの角に、通りの明かりがひとすじ届いている。
太郎さんの机の明かりを一つだけつけて、紙を一枚と、鉛筆をもらった。あとで謝ろうと思ってから、謝る機会がもうないことに気がついた。
机の前に座って、じっと白い紙を見る。
書きたいことと、書いていいことは、違っていた。
本当のことを書いたら、祐太郎さんは自分を責めるだろう。
それに、きっとわたしを捜しに来てしまう。だからこの手が伸びたことは書かない。わたしの中にいるものも書かない。
書くのは、もらったものと、返せなかったもののことだけにしよう。
鉛筆を持った右手を、しばらく見ていた。
さっき祐太郎さんへ伸びた手と、同じ手だった。それでもいまは、鉛筆をちゃんと握っている。この手にも、まだできることが残っていた。
ありがとうございました、と、口の中だけで言った。
言ってから、最初の一行を書いた。そこだけは、少しも迷わなかった。
『わたしのことを本当に大切に思ってくれて、ありがとうございます』
鉛筆の音だけが、暗い店の中に響いた。




