↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
67/96

第67話 8月19日 あなたの答え(祐太郎)

 夜になっても、部屋の温度は下がらなかった。


 一昨日の夜、夏織さんを背負ってここへ運んだ。あれから俺は、この部屋をほとんど出ていない。


 枕元のタライの水を、今日だけでもう何度替えたか分からない。美琴ちゃんが手ぬぐいを絞って、俺へ渡す。受け取って、夏織さんの額のものと取り替える。この手順だけが、いまの俺にできる全部だった。


 畳にあった週刊誌は、太郎さんがいつのまにか片づけていた。

 障子が開いて、太郎さんが弁当の包みを持って入ってきた。


 ちゃぶ台に、けいちゃん弁当が三つ並ぶ。四つ目は、隅で蓋を閉じたままだった。夕方、佐和子さんが届けてくれたものだ。目を覚ましたら食べさせたって、と言っていたらしい。


「祐太郎さんも、食べないと」


 美琴ちゃんが一つを、俺のほうへ押した。


「……あとでもらいます」


 蓋を開ける気にはなれなかった。うちの店の味が、いまはひどく遠くに感じた。

 言葉の少ないまま、太郎さんと美琴ちゃんが弁当を食べ始める。

 ほとんど食べ切ったころ、美琴ちゃんが口を開いた。


「太郎さん……矢内さん、大丈夫ですかね?」

「今は東雲さんのところにいるみたいだから、大丈夫だよ」

「でも、別れ際の矢内さん……様子が変でした」


 昨日の夕方の話は、俺も聞いていた。声をかけても立ち止まらず、うつむいたまま通り過ぎていったという。


「自業自得や」


 畳の目を見たまま、俺は言った。


「何十年も好きやった人のことを放っておいて。……そう思いませんか」


 太郎さんは湯呑みに目を落とした。


「好きな人が抱えているものを、背負いきれなかった。その弱さを責めることは、僕にはできません」

「なんで庇うんですか」


 声が大きくなって、俺は夏織さんの布団を見た。まぶたは動かない。


「一つだけ、確かなのは」


 太郎さんが、俺の言葉をたしなめるように言った。


「遠藤茂が朝比奈さんを手にかけなければ、誰も傷つかなかった、ということです」


 立ち上がって障子に手をかける太郎さんに、聞くつもりのなかった言葉が出た。


「俺は……、どうしたらええんですか」


 店の中に、少しの間沈黙が流れる。


「……僕が答えたら、それはあなたの答えじゃなくなります」


 障子が静かに閉まって、太郎さんは寝室へ戻っていった。

 美琴ちゃんが空いた器を盆に載せて、立ち上がる。


「明日も、朝から来ますから。ちゃんとご飯食べてくださいね」


 俺を気遣う一言をかけて、そのまま店を出ていった。

 部屋の中には、俺と夏織さんだけが残った。

 薄明かりの下で、ガーゼの口元が上下している。息のたびに、白い布がかすかにふくらんで、沈む。


 ――どうしたらええんや。


 答えは誰にもわからない。でも、夏織さんはまだ俺の隣にいる。

 タライの水で手ぬぐいを絞り直して、額のものと取り替えた。夏織さんの眉が、ほんの少しゆるんだ気がした。

 それだけで、今夜は十分だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。