第9話 8月7日 川べりの石(祐太郎)
エプロンを放り投げたのが、店を出る前だったか後だったかも、あやふやだった。
走った記憶しか、残っていない。
商店街を抜けて、公園をひとまわりして、それから川へ出た。夕方の道は人が多くて、何度も肩がぶつかった。川の匂いが近くなると、足が勝手に速くなる。
いなかったらどうする、という考えは、走りながら追い払った。花火の夜に連れて行った土手が、頭にあった。行く場所を知らない人は、知っている場所に行くはずだ。それしか、頼るものがない。
夏織さんは、川べりにいた。
白い服が、草の緑の中にある。見つけたとたん、膝から力が抜けそうになった。
土手の草の上に膝を抱えて、小さくうずくまっていた。外したマスクを両手で握りしめている。
息を整えてから、俺は声をかけた。
「夏織さん」
肩が、びくりとはねた。夏織さんは慌ててマスクをつける。
少し間をあけて、夏織さんの隣に腰を下ろした。
何を言えばいいのか、一つも浮かばない。鉄板の前ならいくらでも動く口が、こういうときにかぎって開かなかった。
「……もうすぐ鵜飼の船、降りてくるで」
マスクの奥で、息を整える音だけがしている。
二人のあいだを長良川が流れていく。
水の音はこういうときだけやたら大きい。話さなくてもいいと言われているようでもあり、早く何か言えと急かされているようでもあった。
しばらくして、夏織がぽつりと口を開いた。
「わたし、自分のこと何もわからないんです」
夏織さんの声は、川の音にかき消されそうなほど小さかった。
「名前も、昔のことも、なんにもない」
マスクの上の目は、川面を見たまま動かなかった。
「なのに、この傷だけがずっとある」
膝の上に、大粒の涙が落ちた。
何と言えばいいのか分からなかった。かわいそうに、とは言えない。がんばれ、も違う。慰めの言葉はどれも薄っぺらい気がした。
だから、自分の話をすることにした。
「……俺も、昔のことよう覚えとらん」
嘘ではない。子どもの頃のことなど自分もほとんど覚えていない。
「うちのばあちゃんが、よう言っとった。昔を思い出せんでも、飯をうまいて食えりゃ上等やて」
ばあちゃんは、食べるのも食べさせるのも好きな人だった。泣いている俺に飯を食わせて、食い終わるころには、たいてい俺のほうが先に笑っていた。
マスクの上の目が、かすかに緩んだ気がした。
「祐太郎さんのけいちゃん、わたし好きです」
「……知っとる」
急に照れ臭くなって、手が勝手に足元の石を拾っていた。川面に向かって、投げる。石は二回はねて、沈んだ。顔が熱いのは、夕日のせいにした。
夏織さんが、立ち上がろうとした。
そのときだった。
急に口元を押さえてうずくまる。指の間からつうと血がにじんだ。
「夏織さん!」
マスクの白い布に赤がにじんで、ゆっくり広がっていく。心臓が、走ったときより速く打った。
背中に手を当てることしか、できなかった。背中は、小刻みに震えている。
縫って、治って、糸まで抜けた傷だった。いまさら開く理由を、俺は一つも思いつかない。
草の上に、小さな紙が落ちていた。さっき店で、あの子が握らせた名刺だった。
拝み屋 柳ケ瀬庵。
――呪いって、なんや。
あの制服を着た少女の声が、頭の中でもう一度した。それ、何かの呪いかもしれません。ふざけるな、と思ったそばから、目の前で血がにじんでいる。
「なぁ、一回ここ行ってみんか?」
名刺を、夏織さんの手のひらにのせた。
夏織さんは血のにじんだマスクの上から口を押さえたまま、名刺を見た。それから俺を見て、小さくうなずく。
血のにじんだ指は、まだ震えていた。




