第8話 8月7日 残された店
夏織がはごろもキッチンを飛び出す、ほんの15分前。
柳ケ瀬太郎は来栖美琴と共に商店街を歩いていた。着流しに和傘を差した壮年の男と、制服姿の学生という取り合わせは奇抜ではあったが商店街ではもうおなじみの光景だった。
「日傘なんて差すの、この辺じゃ太郎さんくらいだよ」
隣を歩く来栖美琴が言った。17歳の女子高生で、オカルト研究会の会長である。もっとも会員は彼女ひとりきりだ。外部顧問という名目で太郎を引っ張り出し、彼の営む柳ケ瀬庵を部室代わりにしている。
その美琴が、今日はどうしてもはごろもキッチンという弁当屋へ行くと言って聞かなかった。
「創業30年の老舗!……なのに一度も行ったことがないなんて損ですよ!」
「さっき、きつねうどん食べたばかりなんだけど」
「おいしいお弁当はきっと別腹ですよ」
食べ物の話で彼女がここまで熱心になるのは、たいてい、ほかに気になることがあるときだった。
「みこちゃん、何か企んでない?」
「企んでるというか……少し気になることがあるだけです」
そういって店へ向かう足を速める美琴。
商店街の店先に、子どもが数人しゃがみこんでいる。
「口裂け女はな、わたし、キレイ? って訊くんやと」
「キレイて言うても裂かれるんやろ」
「逃げても追っかけてくるんやに」
わたし……キレイ~? 誰かが声を裏返し、笑いながら走り去っていった。
太郎はその背中を横目で見送った。46年前にこの街で生まれた問いを、あの子どもたちは正確に覚えている。噂は人から人へ渡るたびに形を変える。それでも古くはならない。
美琴がシャッターの下りた店の前で足を止めた。板にお祓いの札が貼ってある。
「これ、効きますか」
「戸締まりのほうが、よほど効くよ」
太郎は足を止めずに歩き、美琴が勧める弁当屋はごろもキッチンへと足を向けた。
*
夏織が飛び出した直後の店内。客のいなくなった店に、割れた皿のかけらが散らばっている。
柳ケ瀬太郎は膝をついて、かけらを手のひらへ集め始めた。隣で来栖美琴もかがみこむ。その指さきは、まだ細かく震えている。集めたかけらを、美琴は両手で椀の形にして持った。置き場所をさがして、見つけられずにいる。
箒とちりとりを持って出てきた島内佐和子が、二人の前で足を止めた。箒を両手で持ったまま、すぐには掃かない。しばらく、二人の手元を見ていた。
「嬢ちゃん。あの子がどんな思いでここにおるかわかる?」
静かな声だった。声を張らない分、部屋の隅まで届いた。
美琴は、かけらを持ったまま、うつむいた。はいともごめんなさいとも言えないまま、唇だけが動いた。セーラー服の襟が、小さく上下した。
「傷のことは、うちでは誰も聞かんようにしとるんよ」
誰も、のところで、佐和子は厨房のほうをちらりと見た。火の消えた鉄板の上に、焼きかけのけいちゃんが残っている。
「すみませんでした」
頭を下げたのは、太郎だった。膝をついたまま、深く頭を下げる。
美琴も、慌てて頭を下げた。下げた頭のつむじが、子どもみたいに見えた。上げた拍子に、目のふちが濡れているのがわかる。
美琴は椀にした両手のかけらを、差し出されたちりとりへ、そっと移した。「ありがとね」と佐和子は小さく言った。ちりとりに、残りのかけらの落ちる音が続いた。
佐和子は箒を壁に立てかけて、レジの横から包みを一つ持ってきた。さっき太郎が買った、けいちゃん弁当だった。代金をもう一度確かめてから、佐和子はそれを差し出した。
「きつい言い方してごめんな。これ、おまけしとくから」
弁当の上に、漬物のパックが一つ、のせてあった。赤かぶらの漬物だった。袋の内側に、薄く水滴がついている。
「これ、けいちゃんによく合うんよ」
太郎は左手で包みを受け取って、もう一度深く頭を下げた。指の長い、白い手だった。
佐和子の目は、その間も何度か、戸口の外へ動いた。飛び出していった二人の帰りを、待っているようだった。
残りのかけらを佐和子が掃き取ってしまうまで、太郎と美琴は、店の隅に立って待った。それから、もう一度頭を下げて、店を出た。戸口で佐和子は、二人の背中に「気ぃつけてな」とだけ言った。
外へ出て数歩のところで、美琴が立ち止まった。
アーケードの下に、夕方の光が斜めに差しこんでいる。
太郎は、たたんでいた傘を開いた。
美琴はスカートの脇を、両手で握りしめていた。
「……私、余計なことした?」
「心配だったんでしょ」
太郎の返事は、すぐだった。
美琴は、こくりとうなずいた。
「あの人、放っておけなくて」
「うん」
短い返事だった。短いのに、美琴の肩から、力が少し抜けた。
太郎は、それ以上を訊かなかった。傘の影が、アーケードの明かりの下を、丸く滑っていく。
美琴が小走りに追いついて、隣に並ぶ。アーケードの切れ目ごとに、西日が横から差して、太郎の傘が少しだけ美琴のほうへ傾く。
左手の弁当の包みが、歩くたびに小さく揺れた。柳ケ瀬、と書かれたアーチの看板が、頭の上を過ぎていく。
太郎の歩幅は、来たときより、少しだけ速かった。




