第7話 8月7日 落ちたマスク(夏織)
花火の夜から、5日がたった。
何かが変わったわけではない。ただ、厨房の音を聞き分けるのが、まえより上手になった。菜箸の音で、いま何を焼いているのかがわかる。わかることが、少しうれしい。
木曜日の午後4時すぎ、店には常連の主婦が一人だけだった。
夕方の買い出しには、まだ早い時間だ。厨房では半袖の祐太郎さんがけいちゃんを焼いていて、湯気の向こうで菜箸が規則正しく動いている。味噌の香ばしい匂いが、売り場まで緩く流れてきた。
わたしは、できたての弁当を運んだ。
「あっ、作りたて?」
「あっ、ハイ」
声が少し裏返ってしまった。お客さんと話すことには、慣れた。慣れたけれど、話しかけられる一瞬だけは、いまでも心臓が少し跳ねる。
「祐太郎君のけいちゃん、うちの子が毎日せがむんやわ」
聞いていて、わたしまで少し誇らしかった。
「でしょう。ここ3年ですっかり看板やでね」
レジの佐和子さんが、厨房へ笑顔を向ける。
「……焼いとるだけです」
祐太郎さんは、下を向いてしまった。耳だけが、また赤い。花火の夜と、同じ赤さだった。思い出して、わたしは少しだけ下を向く。
と、主婦の目が、ふいにわたしのマスクで止まった。
「夏織ちゃん、夏でもマスクなん。しんどいやろ」
とっさにうつむいてしまった。喉の奥が、きゅっと狭くなる。
「……はい。喉が、弱いもので」
喘息と言えばいい、と教えてもらっていた。それなのにわたしはいつも、喉が弱いという言い方に逃げてしまう。嘘の輪郭を、少しでも小さくしたかった。細くなった声は、かえって嘘に聞こえないらしい。それを知っている自分が、少しいやだった。
「この子は働き過ぎなんやわ。はい、おまけ」
佐和子さんがさりげなく間に立って、漬物のパックを主婦に持たせた。話は、それで終わる。話をそらすのでも庇うのでもなく、ただ、別の話にしてしまう。佐和子さんはいつもこうで、わたしはいつも、その手際に助けられていた。
戸口まで見送って、頭を下げる。マスクの内側で、そっと息を吐いた。吐いた息は、温かく自分に返ってくる。
入れ違いに、二人連れのお客さんが入ってきた。
セーラー服の女の子と、背の高い男の人。セーラー服は、夏の白だった。男の人は真夏なのに長袖で、畳んだ傘を手にしている。
「ここのけいちゃんが、評判なんですよ」
「へえ」
女の子のほうは、まっすぐ弁当の棚へ来た。わたしが並べ直していた棚だ。棚のガラスに、自分のマスク姿が薄く映っている。
「すみません。けいちゃん弁当を一つ」
男の人が、レジの佐和子さんに言った。
「はい。……夏織ちゃん」
呼ばれて、できたての弁当を袋に入れて運んだ。男の人は、左手でそれを受け取る。
そのあいだ、女の子がじっとこちらを見ているのに気づいた。心配そうな目だった。何かを言いたいのを我慢しているような、そういう目。
「みこちゃん」
男の人が、たしなめるように名前を呼ぶ。でも、女の子の心配は止まらなかったようだった。
「あの。口元、痛みませんか」
足が、止まった。
「……え」
「それ、何かの呪いかもしれません」
呪い。
病院でも、店でも、誰も口にしなかった言葉だ。意味はわかるのに、自分に結びつかない。それなのにその言葉は、耳の奥のどこかに、鍵みたいにぴたりとはまった気がした。
考えるより先に、身体が動いていた。口元を押さえて、その場を離れようとする。
女の子の手が、腕に伸びてきた。よけた肩が、ぶつかる。
耳から、ゴムが外れた。
布が床へ落ちていくその一瞬だけが、やけにゆっくり見えた。
あらわになった、頬の中ほどまでの傷。
冷房の風が、傷あとにじかに当たった。息の吸いかたが、わからなくなる。見られている、ということだけが、皮膚の上に刺さってくる。
皿の割れる音が、それを破った。
次の瞬間、目の前に祐太郎さんの背中があった。
「見やんといたって、くれますか」
低い声だった。初めて聞く、祐太郎さんの声だ。怒っている声かどうか、わからないくらい、静かだった。目の前に、エプロンの結び目がある。少し、ほどけかけていた。その背中が、わたしと店の間に立っている。マスクよりも、ずっと厚い壁だった。
佐和子さんが、入口の暖簾を裏返した。
「ごめんね。今日は、もう仕舞いやわ」
佐和子さんの声が、いつもより少しだけ硬い。
背中の陰で立ちつくしていると、女の子が回りこんできて、わたしの手に小さな紙を握らせた。
拝み屋 柳ケ瀬庵 柳ケ瀬太郎。
名刺、というものだった。小さな紙は、握った指の間で、少し湿る。
「もしかしたら、力になれるかもしれません」
ふいに、目のふちが熱くなる。
こんなことになったのは、この子のせいではない。わたしの顔が、こうだからだ。この店の暖簾をこんな時間に裏返させてしまったのも、皿を割らせてしまったのも、全部。
「……ごめんなさい」
誰に謝ったのか、自分でもわからない。
――ここに、いられない。
わたしは床のマスクを拾って、店を飛び出した。
「夏織さん!」
祐太郎さんの声が遠くから聞こえた。




