第6話 8月2日 花火の誘い(夏織)
8月に入って最初の土曜日は、朝から弁当がよく売れた。
佐和子さんはレジを打ちながら「今日はお祭りやでね」と何度もお客さんに言う。「川で食べるんやわ」と、家族の分をまとめて買っていく人が続いた。けいちゃん弁当は、昼すぎに一度売り切れる。祐太郎さんは何も言わずに追加を焼いて、わたしは何も言わずに箱を並べた。鉄板の音は、昼の間じゅう途切れなかった。
夕方になると、通りを行く人の様子が、いつもと違った。浴衣の子どもが、下駄を鳴らして走っていく。うちわを持った人たちが、みんな同じ方向へ歩いていった。
店じまいの時間になって、佐和子さんとシャッターを下ろした。半分下ろしたところで、佐和子さんの手が止まる。シャッターの内側に、一枚のチラシが貼ってあった。
長良川花火大会、と書いてある。にじんだような色の文字の上に、大きな花が咲いている絵が刷られていた。
「今日は花火が上がるんよ。行ってきたら?」
「え、でも」
「あんた、花火見たことないやろ」
見たことがあるのか、ないのか。わたしにはそれすらわからなかった。でも、覚えていないということは、たぶん初めてと同じことなのだと思う。記憶のないわたしにとって、世界のすべては初めてだった。初めて食べるけいちゃん。初めて聞く祭り囃子。そのひとつひとつが、真っ白なわたしに、少しずつ色を足していく。
「せっかくやで、祐ちゃんと行ってきたら?」
佐和子さんはそう言うと、返事も待たずにスマホを取り出した。あ、祐ちゃん? ちょっと店まで夏織ちゃん迎えに来たってちょうだい――そう言って、もう切ってしまった。
戸惑うわたしの肩を、佐和子さんがぽんと叩く。
「ボディガードにしたったらええ」
いたずらっぽく笑うその顔を、わたしはうまく見返せなかった。
10分ほど経って、自転車を押した祐太郎さんがやってきた。店の前で佐和子さんに何か言われて、耳の先を赤くしている。行くで、とだけ言って、わたしの返事も待たずに歩き出した。その背中を、わたしは小走りで追いかける。
長良川のほとりの、人けのない土手だった。
そこに着くまでのあいだ、わたしたちはほとんど喋らなかった。祐太郎さんは自転車を引いて、わたしの半歩前を歩いた。人の流れと逆のほうへ、どんどん逸れていく。ほんとうにこっちでいいのだろうかと思いはじめたころ、急に視界が開けた。
少し下流のほうから、屋台のざわめきと囃子が、風に乗って途切れ途切れに届く。灯りが川面の遠くを、ぼんやりとオレンジに染めていた。けれどこの土手には、わたしたちのほかに誰もいない。草の匂いと、水の匂いだけがあった。
「ここ、あんまり人が来んのや。穴場でな」
祐太郎さんが、少しだけ間を空けて隣に座った。その律儀な距離が、なんだかおかしくて、少しだけ嬉しかった。
対岸の空に、大きな花火が開いた。
どん、という音が少し遅れて胸に届く。光が夜空いっぱいに散って、川面に映って二重になる。赤、金、緑。色とりどりの火花が、次々に咲いては消えていった。一瞬だけ世界を明るく染めて、すぐに闇に溶けていく。
隣で、祐太郎さんも空を見上げている。首の後ろが、花火の色で赤くなったり、緑になったりした。
「……きれい」
思わず、そう漏らした。
きれい。
その言葉を口にした瞬間、なぜか胸の奥がちくりとした。どうしてなのかは、わからなかった。ただ、自分の口から出たのに、どこか他人の言葉のように耳に残った。
祐太郎さんが、紙袋を取り出して差し出してくれる。
「鮎菓子。食うたことあるか」
袋の中に、鮎の形をした焼き菓子が入っていた。
わたしはマスクに手をかけて、ためらった。花火の下でも、この傷を晒すのは怖かった。
祐太郎さんは、花火に目を戻した。
「花火見るんは、久しぶりやな」
こちらは、見なかった。
――また、だ。
わたしは意を決して、マスクを外して鮎菓子を一口かじる。ふわりと甘い生地と、しっとりとしたモチの甘さが口の中に広がる。
「……おいしい、です」
「やろ」
祐太郎さんは、花火を見上げたまま笑った。
わたしは、その横顔をじっと見ていた。
この人はいつも、見ないでいてくれる。傷をなかったことにするのではなく、そこにあると知ったうえで、そっと目をそらしてくれる。その気の使い方が、どうしようもなく優しかった。
――ああ、そうか。
わたしはこのとき、はっきりと気づいてしまった。
この気持ちに名前をつけるとしたら、きっと一つしかない。
祐太郎さんが袋からもう一匹を取り出して、二つに割った。顔はこちらへ向けないまま、頭のほうをわたしへ差し出す。
「頭のほうが、甘いんやて」
「ほんとに?」
「ばあちゃんが、言っとった」
わたしは、受け取った頭を小さく一口かじった。
「祐太郎さんは、おばあちゃんっ子なんですね」
祐太郎さんは、少し黙った。それから、照れたように尻尾のほうをかじって、川を向いたまま言った。
「……ばあちゃんは、大事にするやろ」
それから、口の中のものを飲み込んで、付け足した。
「ちょっと頭のほうが甘いかもやな」
対岸で、また花火が開いた。
わたしは外したマスクを膝に置いたまま、その光に照らされる祐太郎さんの横顔を見ていた。自分の顔を、隠すことも忘れて。忘れていられたのだと、あとになって気づいた。
さっき「きれい」と言ったとき、胸がちくりとしたのは、なんだったんだろう。花火はこんなにきれいで、鮎菓子はこんなに甘くて、隣にはこの人がいるのに。しあわせだと思えば思うほど、その裏側に、名前のわからない小さな影が、ちらついた。
――気のせいだ。
わたしはそう思うことにして、もう一口、鮎菓子をかじった。
今夜のこの甘さだけを、覚えていたかった。




