第5話 7月11日 見ないでいてくれる(夏織)
休憩室の時計が、18時半を指していた。
誰もいないと思って、わたしはマスクを片耳だけ外していた。膝の上にハンカチを広げて、隅の刺繍を指でなぞる。『夏織』。この二文字が、今のわたしのすべてだった。古いシミの部分を、そっと親指で撫でる。
このハンカチだけが、傷を負う前のわたしと、今のわたしをつなぐ細い糸だった。誰が、どんな思いでこの二文字を縫ったのか。それを知りたくて、けれど知るのが少し怖くて、わたしは毎日、こうして刺繍をなぞっていた。
戸が開いて、祐太郎さんが賄いの弁当を二つ持って入ってきた。
わたしは慌ててマスクをつけ直し、ハンカチをしまおうとした。手が、勝手に動いていた。この1か月で、すっかり体に染みついた動作だった。誰かが近づく気配がしたら、まず口元を隠す。それが、わたしの新しい癖になっていた。
そんなわたしを「ごめん。なんか食べとった?」と、祐太郎さんが気遣ってくれた。
わたしは首を振った。それから少し迷って、しまいかけたハンカチをもう一度広げて見せた。なぜそうしたのか、自分でもわからない。ただ、この人になら、と思ったのかもしれない。この1か月、祐太郎さんは一度もわたしの傷のことも、過去のことも訊いてこなかった。訊かないでいてくれることが、かえって話してもいいのだという気持ちにさせた。
「これを見ていると、なんだか落ち着いて」
祐太郎さんは自分の弁当を机に置いて、わたしのぶんもこちらへ滑らせてくれた。湯気の立つ、けいちゃんの賄いだった。
「わたしが見つかった時、持っていたのはこれだけなんです」
「見つかった?」
「6月に、八百津町の山のなかで」
エプロンを外しかけていた祐太郎さんの手が、止まった。
「目が覚めたら病院で、名前も何も思い出せなくて」
わたしは刺繍を指でなぞった。口にしてみると、それは驚くほど短い話だった。目が覚めた。名前がなかった。ハンカチがあった。たったそれだけ。大人になるまで生きてきたはずなのに、わたしが語れる自分の歴史は、指を折るまでもなかった。
「八百津で見つかって、刺繍に夏織とあったから、八百津夏織」
祐太郎さんは、黙って聞いていた。何も言わずに聞いてくれるということが、こんなに楽なことだと知らなかった。かわいそうとも、大変だったねとも言われない。ただ、そこにいてくれる。憐れみは優しいフリをして、こちらを一段低いところに置く。この人の沈黙には、それがなかった。
「本当の名前かも、わからないんですけど」
祐太郎さんは、しばらく黙っていた。それから、なんでもないことのように言った。
「……したら、夏織さんのままでええんやない」
その一言に、わたしは、はっとした。
本当の名前かどうか、確かめようもない。そんな不確かな名前を抱えて、わたしはずっと後ろめたさのようなものを感じていた。借り物の名前で生きている、という後ろめたさを。それをこの人は、たった一言で軽くしてしまった。夏織さんのままでいい、と。
祐太郎さんはエプロンを外して、弁当の蓋を開けた。
「冷めんうちに、食べや」
けれど、わたしは箸を持ったまま動けなかった。マスクを外すのが怖かった。この人の前で、あの傷を晒すのが。せっかく、夏織さんのままでいいと言ってくれたのに。この傷を見たら、この人の目もあの医師や看護師さんのように、わずかに曇るのだろうか。
祐太郎さんは、ふいに立ち上がって、休憩室のテレビをつけた。そして体をそちらへ向ける。
――ああ。
見ないでいてくれているのだ、わざと。傷を見ないように気を張るのでもなく、見ても平気だと無理をするのでもなく。ただ、わたしが食べやすいように、自然に背を向ける。その優しさが、わたしの心を少し軽くした。
わたしは、そっとマスクを下ろして一口食べた。
「……おいしい」
こちらは見ずに、祐太郎さんが答えた。
「やろ。ばあちゃんのタレのおかげや」
わたしはマスクを下ろしたまま、もう一口食べた。味噌の甘辛さが、舌の上でほどけていく。傷を隠さずに、誰かと同じものを食べる。それが、わたしにはずっとできなかったことだった。
テレビの音が、休憩室に流れていた。何を映していたのかは覚えていない。味噌の味と、祐太郎さんの背中だけを、覚えている。
この人の背中を、わたしはきっと、これから何度も思い出す。




