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第4話 7月3日 けいちゃんの店(祐太郎)

 シャッターを上げると、朝の商店街はまだ涼しかった。


 大学に入学した時から働き始めた弁当屋、はごろもキッチン。

 ロッカールームで着替え、エプロンに石橋祐太郎と書かれたネームプレートを付ける。

 弁当屋に名札はいるのかと店長の佐和子さんに尋ねたことがある。

 「顔と名前覚えてもろた方が、弁当もおいしなるんやで」と、いたずらっぽく笑っていた。


 朝一番に、タレの寸胴をかき混ぜる。味噌とにんにくの匂いが、湯気と一緒に立ちのぼった。ばあちゃんから教わったタレは、ひと晩おいた朝がいちばん落ち着いている。しゃもじの先で少しすくって、なめて、うなずいた。今日も、いつもの味だ。


 7月に入ったばかりで、店の中はもう蒸れていた。換気扇がうなって、鉄板の熱がこもる。キャベツを刻む音だけが、しばらく続いた。

 昼下がり、店先で店長の佐和子さんの声がした。


「事情は市の人から聞いとるでね」


 換気扇の音の合間に、切れ切れに聞こえてくる面接中の会話。新しい人が来る、とだけ聞かされていたが、どんな事情かまでは聞いていない。わざわざ聞く趣味もない。あとで佐和子さんに言われたのは、一つだけだった。「マスクのことは、訊かんようにね」。

 鉄板から目を離さないよう気を付ける。よそ見をすると味噌がゆるむことは、もう何度も通った道だった。


「お客さんには、喘息でマスクしとるって言うたらええわ」

「……いいん、ですか」


 小さい声が、一度だけ届いた。


「弁当屋でマスクしとっても、なんも不思議ちゃうよ。はい。今日から、うちの子や。祐ちゃーん」


 呼ばれて、厨房から顔だけを出した。

 レジの横に、マスクをつけた女の人が立っている。畳んだエプロンを、両手で胸の前に抱えていた。目が合うより先に、深く頭を下げられて、こっちの言葉が詰まる。


「……石橋、祐太郎です」


 それだけ言って、厨房に引っ込んだ。ほかに言うことが、出てこない。感じが悪かったかもしれない。


「愛想はいまいちやけど、悪い子やないでね」


 佐和子さんが笑っているのが、声でわかる。否定はしなかった。鉄板の上で、鶏の皮がちょうどよく縮んでいた。

 ちらりと、もう一度だけ店先を見た。女の人は店長に、それから厨房のこっちにも、もう一度深々と頭を下げている。マスクで、顔の下半分は見えなかった。


 佐和子さんは初日から、夏織ちゃん、と呼んでいた。八百津夏織さん、というらしい。

 次の日から、夏織さんは店に立った。


 最初の仕事は、洗い物と弁当の箱並べ。手つきは慣れていないものの、動きに迷いがない。教えたことは、教えた順番のまま、きっちり守る。

 3日目の昼、鉄板の上で、味噌ダレの鶏肉が湯気を上げていた。焼いていると、横に気配が立つ。仕込みの手を止めて、こっちを見ていた。見られながら焼くのは好きじゃない。ただ、追い払う理由もなかった。


「キャベツは最後や。鶏の味が、よう染みる」


 訊かれてもいないのに、口が動いた。鉄板の前でなら、俺はいくらか喋れる。味噌の焦げる匂いが、二人の間に立ちのぼった。


「……いい匂い」


 マスク越しの、こもった声だった。


「岐阜と言えば、けいちゃんやでな」


 鉄板から目を離さずに、続けた。


「このタレは、ばあちゃんから教えてもろた」


 夏織さんは、俺の手元をじっと見ていた。菜箸の返しかたまで、目で追っているのがわかる。


「……わたしにも、作れますか」

「……今度、教えたるわ」


 すぐには、返せなかった。教えるのが嫌なわけではない。ばあちゃんのタレを人に教える日が来るとは、思っていなかっただけだ。


 夏織さんはマスクの上で目を伏せて、はい、と小さく言った。


 日々は、そうやって過ぎていく。

 汗だくで鉄板に向かっていると、扇風機の首がこっちを向く。夏織さんが、黙って向きを変えていた。菜箸を落とせば、新しいのが横から出てくる。礼を言う前に、もう洗い場に戻っていた。


 弁当を詰めるときは、白飯とおかずを、言葉もなしに交互の手で詰める。俺がけいちゃんをのせ、夏織さんが漬物を添える。ふたのしまる音のリズムが心地いい。


 昼のピークがすぎると、夏織さんは売り場の弁当を数えて、小さな紙に書きつけていた。売れた数がわかると次の日の仕込みが楽になる、と佐和子さんが喜んでいた。


 夕方、余った白飯で佐和子さんがにぎりめしをにぎって、三人で立ったまま食べた。夏織さんは、あとでいただきます、と言って自分の分を袋にしまう。


 常連には、深く頭を下げる。戸口までついていって、姿が見えなくなるまで見送る。そこまでしなくてもいいのに、と思ったが、言わなかった。誰も言わないことを、俺が言う筋でもない。


 ある昼、常連のばあさんに「あんたよう気のつく子やねえ」と言われて、夏織さんは頭を下げた。それから、顔を上げた。

 マスクの上で、目だけが笑っていた。


 ――目だけで、笑うんやな。


 鉄板の鶏を、俺はひっくり返した。


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こちらは毎日21時30分に、1〜3話ずつ更新していきます。

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