第3話 6月24日 ハンカチの名前(名もなきわたし)
談話室のテレビでは、昼のワイドショーが流れていた。
窓際のソファでは点滴を引いたおじいさんがそれを眺めている。わたしは隅の丸テーブルに座って、正面に来た人と向かい合っていた。市の職員さんだという。五十過ぎくらいの女性で、鞄から出した書類の角を指先でとんとんと揃えていた。
身元がわからないままだと治療のことも、これから住むところのことも、先へ進められないのだとその人は説明してくれた。だから仮の名前を決めることになる。仮の、というところを彼女は二度言った。言いにくいことを言う時、人は同じ言葉を二度言うのだとわたしはそのとき知った。
テーブルに置かれたのは、透明な袋だった。
「持っとったんは、これ一枚だけやったんよ」
袋の口には白いラベルが貼られ、日付と番号が印字されていた。その事務的な文字の並びと、中身の古び方とが、ひどくちぐはぐに見えた。番号を振られ、袋に密封されて、それでもこれがこの世でただ一つわたしと繋がっているものなのだった。
どうぞ、と言われてわたしは袋を開けた。
出てきたのは一枚のハンカチ。折りたたまれて、四角く収まっている。手に取ると思ったよりも薄い。角がやわらかく擦り切れていて、誰かが長いあいだ繰り返し手に取り、繰り返し畳んできたのだとわかった。布はその年月のぶんだけ、しんなりしていた。
隅に、糸で縫い付けられた『夏織』の二文字がある。
カオリ、と読むことはできたが、それが誰なのかはわからなかった。
その横に薄い茶色のシミ。指の腹で撫でると、そこだけがほんのわずかに硬い。何のシミなのかはわからなかった。ただ、古いものだということだけが伝わってきた。
――これは、誰の。
わたしのものだろうか。それともわたしにこれを渡した、別の誰かのものだろうか。訊ける相手は、この病院のどこにもいない。この布は答えを持たないまま、わたしの手の中にあった。
職員さんはわたしが布に触れているあいだ、何も言わずに待ってくれていた。
「行政の決まりで、仮のお名前を付けなあかんくてね」
職員さんが、書類にペンを走らせはじめた。事務的に、けれど丁寧に、ペン先が動く。
「苗字は、見つかった八百津町からもらうんやわ」
「……八百津」
ヤオツ。知らない土地の名前が、書類の上でわたしの一部になっていく。実感はまるでなかった。
「下の名前はね、決まりで花子になるんやけど」
ペン先が、書類の上を滑りかけた。
ハナコ。
その名前が自分に貼りつけられるところを想像すると、なぜだか息が浅くなった。花子。悪い名前ではない。けれどそれは、誰でもない誰かの名前のような気がした。番号のかわりに与えられる記号のような。この名前で呼ばれるたびに、わたしはきっと自分がどこにも属していないことを思い知らされる。
ペンの先が、一画目に触れた。
「あの」
気づいたら声が出ていた。自分でも驚くほど早く。
わたしはハンカチの隅を、二人のあいだへ向けて置いた。それから刺繍された二文字を指さした。
「……この名前に、してもらえませんか」
職員さんが、刺繍を見つめる。
「これ、あなたの名前?」
わたしは小さくうなずいた。うなずいてから、それが嘘かもしれないと気づいた。この二文字が本当にわたしの名なのか、教えてくれる人も証もない。
「わかりません」
だから、言い直した。
「でも、わたしにはこれしかないので」
もしこれがわたしの名でなかったとしても、構わないと思った。せめてこのハンカチを大切にしていた誰かと、同じ名前でいたい。それが空っぽのわたしに残された、たった一つの手がかりだった。
職員さんはしばらくわたしの顔を見ていたが、表情をふっとゆるめて「花子よりは、夏織のほうが似合っとるね」と、笑ってくれた。
カオリ。
その音が耳から入って、胸の真ん中に、ことん、と落ちた。
不思議だった。八百津も、花子も、わたしの中のどこにも触れなかったのに、その二文字だけが、まるで前からそこにあったくぼみに、ぴたりとはまった。理由はわからない。ただ、この名前でいいのだと、体のどこかが知っているように、静かに納得していた。
上に掛け合ってみるわね、と職員さんは言って、電話を手に席を立った。書類の名前の欄はまだ空けたまま。花子と書きかけた線が一画だけ、そこに残っている。
談話室のテレビが、天気予報に変わっていた。明日も晴れるらしい。明日、という言葉が自分にもあることが、そのときは少し不思議だった。
わたしは、ハンカチをそっと胸に抱いた。
その日から、わたしは八百津夏織になった。本当の名前かどうかは、今もわからない。けれど、名前を一つ借りることができた。ハンカチの中の、顔も知らない誰かから。
袋から出したばかりの布は、なぜだか少しだけ温かかった。
同じ日の夕方、診察室に呼ばれた。窓から、夕方の光が斜めに入っている。
医師は鏡をこちらへ向けて、傷の治りを見せてくれた。
縫い目は糸が抜かれて、細く薄い赤い線になっていた。それでも、消えてはいない。たぶん、これから先も。
「傷は、日常生活に支障ないでね」
医師はそう言って、机の引き出しから、布のマスクを出した。普通のものより、一回り大きい。
「人の目が気になるようやったら、これを」
受け取って、耳にかけた。ゴムは、まだ少し固い。鼻から顎まで、布が全部隠してくれた。鏡の中には、目だけが残る。目だけなら、知らない顔ではなかった。この1週間で、いちばん長く見てきた顔だ。
「有名な棋士の人もつけとった、ええやつやで」
医師がふんわりと笑うので、マスクの下で、わたしも少しだけ笑った。
「……ありがとうございます」
マスクの内側で、自分の息が温かい。こもった声は、こもったぶんだけ、言いやすかった。この布一枚の内側にいれば、誰にも縫いあとを見られずに済む。そう思うのと同時に、この布を外せる日は来るのだろうか、とも思った。
「岐阜の病院に紹介状書くで、通いながら治そまい」
ギフ。
また、知らない町の名前だ。知らない名前ばかりが、わたしのまわりに増えていく。
医師は机の上で、封筒に八百津夏織様、と書いた。自分の名前が書かれるところを、初めて見た。
診察室を出るとき、深く頭を下げた。
「お大事にな、夏織さん」
初めて、名前で呼ばれた。
返事のかわりに、もう一度、さっきより深く頭を下げた。




