第2話 6月18日 白い天井(名もなきわたし)
最初に見えたのは、白だった。
染みひとつない天井。その真ん中に、四角い明かりがはまっている。どこかで空調が低くうなっていて、消毒のにおいが鼻の奥にうっすらと残っていた。ここがどこなのか、わたしにはわからなかった。
身を起こそうとした瞬間、口元に鋭い痛みが走った。ぴり、と皮膚の引きつる感覚。そっと触れると、四角いガーゼが貼られていた。指の腹に、乾いた布と、その下のかすかな盛り上がりが伝わってくる。
「……っ」
声を出そうとして、うまく出なかった。喉の奥で、空気がかすれただけだった。
枕から目だけを動かして、部屋の中を順に見た。パイプの椅子。畳んだタオル。カーテンの襞。ベッドの脇には、見舞いの花も、置きっぱなしの荷物もない。この部屋には、わたしがどこの誰であるかを示すものが、何ひとつ置かれていなかった。
やがて戸が開いて、初老の医師と、若い看護師さんが入ってきた。医師はカルテをめくりながら、ベッドの脇の椅子に腰かけた。二人とも、わたしの顔をまっすぐには見なかった。視線が、ガーゼのあたりで、わずかに止まる。それだけで、この傷が普通のものではないのだと、なんとなく察しがついた。
「気がついたかね。自分の名前、言えるかえ」
やわらかい訛りだった。その声の温度に、少しだけ肩の力がゆるむ。
名前。
口を開こうとした。けれど、そこには何もなかった。名前の入っているはずの場所に手を伸ばしても、底の抜けた箱を掻くだけで、何ひとつ掴めない。
わたしは首を横に振った。
「あんた、八百津の山ん中で倒れとったそうや」
ヤオツ、という響きを、口の中で転がしてみる。町の名前らしいことはわかる。けれど、その名前は、わたしの中のどこにも触れなかった。道も、匂いも、誰の顔も浮かんでこない。ただの意味のない音として、耳の中で消えていった。
「……八百津」
自分の名前ですら思い出せないのに、知らない土地の名前だけがこうして耳に残る。おかしなものだ、と思った。頭の中は家具を全部運び出されたあとの部屋のように、がらんとしていた。
「地元の人が、通報してくれてな」
わたしのことのはずなのに、まるで遠くの誰かの話を聞いているみたいだった。かわいそうな人がいる、と他人事のように思う自分がいて、その冷たさにかえって背筋が寒くなった。
医師はカルテから目を上げ、慎重に言葉を選ぶようにゆっくりと尋ねた。
「なんであの場所におったんか、覚えとらんか?」
わたしは、もう一度、首を振った。
それから、問診のようにいろいろなことを訊かれた。家族。仕事。生まれた場所。どれにもわたしは答えを持っていなかった。医師はそのたびに小さくうなずいて、カルテに何かを書き入れていく。心因性の記憶喪失の疑い、という言葉を目にしたのはもっとあとになってからだった。
「そうか。口の傷は縫うたで、命に別状はないでね」
傷。
その一言が、胸の奥に小さく引っかかった。
「……鏡は、ありますか」
医師と看護師さんが、顔を見合わせた。短い、けれど確かな沈黙。何かを言いかけて飲み込むような気配。その沈黙のほうが、言葉よりも先にわたしの傷がどんなものかを教えていた。
医師が小さく目くばせをすると、看護師さんが折り畳みの鏡をわたしの手に載せてくれた。黒縁の手のひらほどの小さな鏡。プラスチックがひやりと冷たかった。
わたしはガーゼの端に指をかけてゆっくりとはがす。かさぶたが布に引かれて、ぴり、と鳴る。
そして、鏡をのぞき込んだ。
口の端から頬の中ほどまで、黒い糸で引き結ばれた線が真横へ伸びていた。ひと針ごとに皮膚が寄せられ、まだ赤みの引かない縫合が並んでいる。それが自分の顔だとしばらく理解できなかった。知らない人の顔だと思った。そうであってほしい、と願った。
けれど鏡の中の女はわたしがまばたきをすると、同じようにまばたきをした。目だけが傷とは無関係に澄んでいる。その目はこの傷を負う前の何かを見ていたはずなのに、何ひとつわたしに教えてはくれなかった。
――どうして。
どうしてこんなことになったのだろう。誰が、なぜ、わたしの口をこんなふうに。問おうとしてその問いを向ける相手すら、わたしは知らないのだと気づいた。恨むべき顔も、思い出すべき名前もない。ただ結果としての傷だけが、ここにある。
声にならない悲鳴が喉の奥で潰れ、鏡が手から滑り落ちて床で乾いた音を立てた。
「すいませんっ……!」
なぜ謝ったのかは自分でもわからない。ただ、そうしなければいけない気がした。落としてしまったから。――それともこんな顔で目覚めてしまったこと、そのものを。
肩を震わせるわたしの背へ「大丈夫やよ。ゆっくりでええでね」と、看護師さんがそっと手を添えてくれた。手のひらの温かさが患者服越しに伝わってくる。優しい手だった。なのにその温かさは、なぜだかひどくわたしを悲しくさせた。
「記憶の方は心の傷やと思うわ」
医師の声は穏やかだった。
「ゆっくり治そまい」
治る、という言葉をわたしはうまく信じられなかった。
治ってその先に何があるのだろう。名前もない。昨日もない。あるのはただこの顔の傷と、白い天井だけだ。
二人が病室を出ていくと、部屋には機械のたてる電子音だけが残った。ピ、ピ、と一定の間隔で鳴り続ける。それがわたしの心臓を数えているのだと、しばらくして気づいた。生きている。少なくとも、この体は。それだけはこの機械が保証してくれている。
――わたしは、誰かに待たれているんだろうか。
この傷を負う前、わたしには名前を呼んでくれる誰かがいたのだろうか。今ごろわたしを探している人がいるのだろうか。考えても答えの返る場所がどこにもなかった。問いかけるそばから、声は暗い水の中へ沈んでいくようだった。
窓の外の空が、少しずつ藍色に暮れていく。その色が濃くなっていくのをわたしはただ黙って見ていた。




