第1話 プロローグ
2025年8月7日の夜。
老人が、走っていた。
岐阜県岐阜市白木町の道は、9時を過ぎると人が消える。
街灯は電柱一本おきにしか点いていない。その明かりの下を、サンダルの音だけが逃げていく。
たすけて、と言いかけた声は、かすれて言葉にならない。肩が大きく上下して、老人は胸のあたりを手で押さえた。
二十歩ほど後ろを、白いものがついてくる。
足音は、しない。街灯を過ぎるとき、白い半袖と、長い髪と、大きな白いマスクが見えた。
老人は走っている。女は、歩いている。それでも振り返るたび、その姿は少しずつ近付いている。
サンダルの片方が脱げかけて、つまずいた。
膝をつき、手をつき、また立ち上がる。
荒い息だけが、ブロック塀の続く道に反響した。
老人は角を折れて、町工場と雑居ビルの間の、街灯の届かない路地へ入った。
白い姿も、同じ角を折れてきた。歩く速さは、変わらない。
頭の上では、ビルの非常階段が黒く折り重なっている。積まれた空き瓶のケースに老人の膝が当たって、硝子の鳴る音が走った。
「く、来るな」
声は路地の壁に吸われて、どこにも届かなかった。
背中が、行き止まりの壁に当たった。右にも左にも壁しかない。積んだ段ボールが崩れて、老人は背をつけたまま、ずるずると腰を落とした。
白い姿が、路地の入り口に立った。
遠い街灯を背にして、輪郭だけが黒い。
一歩ずつ、近づいてくる。息づかいは、聞こえない。聞こえるのは室外機の低いうなりと、自分の心臓の音だけだった。
女は、老人の前で音もなく立ち止まった。
都市伝説の語られるそのままの姿をした、口裂け女だった。
マスクの上の目が、まばたきもせずに老人を見ている。
老人の唇が動いた。声は、もう出なかった。
「ワタシ、キレイ?」
低い声だった。返事は、待たなかった。
マスクが、ずるりと落ちる。
落ちたマスクには、乾いた血がにじんでいた。
あらわれた口は、耳まで裂けていた。
裂け目は頬を越えて、耳のつけ根までとどいている。街灯の逆光で、口の中はただただ暗い。
「ひ……」
老人の声は、最後まで続かなかった。
三歩が、二歩になる。
二歩が、一歩になる。
口裂け女の手が、ゆっくりと伸ばされた。
*
どれほどたったのか、路地は元の暗さに戻っていた。
奥に老人が、あお向けに倒れている。口元は、耳まで裂かれていた。
開いたままの目に、非常階段の影が映っている。かたわらには、脱げたサンダルが片方、転がっていた。
室外機のうなりは、さっきと同じ調子で続いている。遠くの道を、車が一台通り過ぎていった。
路地の入り口へ、白い姿が歩いて出てきた。
乱れた様子は、髪のひと筋にもない。マスクはつけ直されていた。
女は来た道を戻っていく。用水路の脇の細い道を過ぎ、電柱の下を過ぎ、自動販売機の光に横顔が一瞬だけ照らされた。目は、どこも見ていない。
やがて女は、二階建てのアパートの前で足を止めた。
外階段を上がり、一番手前の部屋の鍵を開ける。戸の閉まる音が、夜の住宅街に小さく響いた。
少し遅れて、二階の窓に灯りがついた。
*
口裂け女という都市伝説が生まれたのは、1979年の冬、岐阜だったと言われている。
大きなマスクをした女が夕方の道に立ち、通りかかった者を呼び止めて、訊く。
――ワタシ、キレイ?
きれいですと答えれば、女はマスクを外す。あらわれる口は、耳まで裂けている。
――これでも?
どう答えても、助かる道はない。
逃げようとしても100メートルを、6秒で走るとも3秒で走るとも伝えられている。
ポマードと三度唱える。べっこう飴を投げれば、拾う間に逃げられる。
対抗策までが、まことしやかに語られた。
噂は、ひと冬で県境を越えた。新聞が書き、テレビが騒ぎ、学校は集団下校を決めた。教室でも銭湯でも、大人までがその名を口にした。
だが、実際に襲われた者は、最後までひとりも出なかった。それでも噂だけが、ひとりでに育っていった。
夏が来るころ、子どもたちは別の遊びを見つけた。口裂け女の名は、ゆっくりと忘れられていった。
その口裂け女が、46年の時を越えて蘇る。
きっかけとなる、二つの事件があった。
*
2025年6月18日の朝。
長良川は、前の晩の雨で濁っていた。
増水した水は、まだ引ききっていない。川原の草は下流へ倒れ、流れついた枝やごみが杭の根元で折り重なっている。
橋の上を、始発のバスが渡っていく。土手の道では、犬を連れた人と自転車の学生がすれ違った。
鮎釣りの支度をしていた男が、中州の手前で足を止めた。
長靴の先で草を分けながら、水際へ下りていく。
倒れた草の上に、白いものが見えた。
流木にしては、白すぎる。
近づいて、それが人の足だと気づくまでに、少しかかった。
若い女性が、うつぶせに横たわっている。着ているものは泥にまみれ、片方の靴がない。上流から流されて、ここで草に引っかかったらしかった。
男は膝をついて、その肩に手をかけた。まだ助けられるかもしれない。そう思ったのだと、あとで警察に話している。
仰向けにして、そのまま尻もちをついた。
朝の光の中で、女性の口元は、耳の近くまで裂けていた。
竿を置いたまま、男は土手を駆け上がった。
通報から1時間で、河川敷には規制線が張られた。青いシートが立てられ、土手の上には人が集まりはじめる。
雨に流されたせいで、遺体の傷みは激しかった。身元の確認にも、亡くなった時刻の割り出しにも、時間がかかると見られた。
口元の傷については、報道が控えられることになった。理由を説明されないまま、記者たちは引き下がる。夕方のニュースは、川で女性の遺体が見つかったことだけを短く伝えた。
時を同じくして。
川から北へ、車で1時間ほどの八百津町。その山あいには、薄い朝もやが残っていた。
犬を連れた男性が、いつもの散歩道を歩いていく。雑木林にさしかかったところで、先を行く犬が足を止めた。低くうなって、草むらの奥へ鼻先を向ける。
男性は葉の露に濡れながら、草をかき分けた。犬は先へ行こうとしない。首輪を引いても、その場から動かなかった。
分けた先に、足が見えた。
若い女が、倒れている。
「……おい、あんた」
声をかけても、動かない。もう一度呼んで、それから男性は、震える指で電話の番号を押した。
呼び出しの音が鳴る間、犬は草むらに向かって、低く鳴き続けていた。
救急車が山を下りていったのは、それから30分ほどあとだった。
その朝、岐阜県内では二つの通報が別々に受理された。
片方は事件として、片方は行き倒れとして扱われる。二つを結ぶ線に気付く者はまだ誰もいなかった。
※本作は「夏のホラー2026」参加作品です。
エブリスタにて先行公開中。続きが気になる方はそちらでも読めます。
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